第96話 現れた蛇神
強気な発言と共に不敵に笑む蒼子を前に、鳳珠は圧倒された。
まるでこの世を知り尽くした仙女のような貫禄を持つ蒼子の微笑みに鳳珠は見惚れてしまう。
おいおい、こんな乳臭い幼子に何を見入っているんだ……。
鳳珠は頭を振って理性を呼び戻す。
それに……先ほどの接吻は何だ⁉
小さくて柔らかな唇の感触が残る頬を鳳珠はそっと押さえた。
さっきから心臓がうるさい。
思いがけない嬉しさが衝撃となって鳳珠を襲っていた。
しかし、子供の接吻如きで心乱されるなど自分らしくない。
女からの不意打ちの接吻など、過去に何度も受けてきたではないか。
頬への不意打ちの接吻どころか、寝室への夜這いや惚れ薬を盛られて襲われたこともある。
こんな頬への接吻一つで動揺する私ではない。
しかし鳳珠の顔はだらしなく緩みきっていた。
「鳳珠様、気持ち悪いです」
「酷い顔ですね。椋、離れていましょう」
汚いものを見るような目で主を見る従者の言葉も耳に入らない。
「分かった。そなたの出す船に乗るとしよう」
鳳珠は動揺を悟られないように顔を引き締めて言う。
幼いながらにここにいる誰よりも強い神力を持ち、神と対等に渡り合えるのは蒼子しかいない。
自分は蒼子に命を預ける以外にないのだ。
「しかし、どうするつもりだ? そなたらの話では神の交渉は一筋縄ではいかぬのだろう?」
自分には人以外の者と交渉する術を持たない。
そもそも人外と交渉したことなどないし、神や仏などは見たことがなかった。
目にしたこともない人外の存在と交渉しなければならない日が来るなど思ってもみなかった。
「夢に出てきたあの蛇女は完全なる人違いだが、私にとてつもない執着と憎悪の念がある。女は感情的になると話を聞かなくなる者も多いが、まさにそういう感じだったぞ」
鳳珠はあの時の悪夢を思い起こし、身震いした。
身体を押し潰されそうなほど大きい負の感情があの蛇神にはあった。
「女のあしらいは得意ではなかったか?」
「お前、あれを自分と同じ女としてくくられてもいいのか?」
鳳珠はじっとりとした目で蒼子を見た。
「どちらかと言えば、私はあちら側だからな」
「…………」
ふっと薄く笑んだ蒼子の言葉に鳳珠は押し黙る。
ちょっとした嫌味のつもりが自ら肯定しにいくとは。
しかも人を嘲るような笑みですら様になっている。
この娘、将来は傾国の悪女になるやもしれん…………。
末恐ろしい娘だ、と鳳珠は心の中で呟く。
「とりあえずは、蛇神に交渉の席についてもらわねばならない。こちらとしても、いつまでもこの件に時間を割いてはいられないのでな」
蒼子はそう言ってとある方向を気にして見ている。
そこには壁はなく、外の景色が筒抜けだった。
そろそろこの場所も離れた方が良いかもしれない。
外には呂家の者達が莉玖の部下達に誘導されて一カ所に集まっていた。
ざっくりと女子供と男で分けられ、距離と取ってある。
詳しい取り調べなどは夜が明けてから行われる予定だ。
外は思いの他、明るい声がいたるところから聞こえてくる。
長年の呪縛から解き放たれた女達が喜びのあまり、興奮しているようだったが、逆に男達の方はお通夜状態だ。
多くの男達が自分達の未来を想像し、恐怖で震えている。
女を虐げてきた男達はこれから自分達がしてきたことの罪を償わなければならない。
かなりの人数がいるので調査には人手も時間も必要で、まだまだやることは山積みだ。
「確かに、しなければならないことは残っている。しかし、どうやって蛇神をおびき寄せるつもりだ?」
鳳珠が蛇神に会ったのは夢の中だ。
求婚痣はその夢から覚めたら腕に刻まれていた。
まさか、私が眠ればいいのか?
一瞬、そんな考えが頭に過るが、それは蒼子の一言で否定される。
「じきに現れる。神とは自分の所有物に手を出されることを人以上に嫌う」
先ほどから会話をしながら、ずっと同じ方向ばかり見つめている。
「神は人の道理の中で生きていない。神は神の道理の中で生きている」
「神の道理?」
人が人の道理があるように神には神達に通じる道理がある、ということだろうか。
鳳珠が詳しく説明を求めようとした時だ。
ばっと弾かれたように朱里と莉玖、紅玉が一斉にとある方向に視線を向けた。
その方向は先ほどから蒼子が見ていた方向だ。
そしてゾワっと背筋が寒くなる。
足元から何かが這い上がってくるかのような不快な感覚を覚え、鳳珠は嫌な汗を額に浮かべた。
「まさか……」
さっき蒼子はじきに現れると言った。
しかし、まさかこんなにすぐに現れるとは思っかった鳳珠は足が竦む。
ズズズ、ズズズズル—―――――と何か大きな物を引き摺るような音が近づいてくる。
ガタっ、ガタンと時々何かを引き倒したり、ぶつかったりしながら徐々にその不気味な音は距離を縮めていた。
椅子に座っていた朱里は立ち上がり、莉玖と共に警戒しながら広間に残った呂鴈達を静かに自分達の背後へと追いやる。
「お前達もだ」
莉玖は鳳珠の両脇に立つ椋と柊に言う。
「しかし」
「鳳珠様を一人には」
「お前達がいても蒼子の邪魔になる。来い」
椋と柊は躊躇うが莉玖に肩を掴まれ、半ば引き摺られるように鳳珠から引き離された。
「神女、来たぞ」
朱里が言う。
その声は硬く、緊張していた。
「お……叔父様……」
「あ…………」
「二人共、さぁ、私の後ろに……」
白燕と震えて言葉も出ない白陽を背中に隠しながら呂鴈は目の前を通り過ぎる巨体に絶句する。
大人の手の平ほどの青白い鱗がびっしりと並んだ身体は何百年と生きた杉の木のように太く、五の池を半周できるのではないかと思うほど長い。
邸の中を這いずっていたからこそ倒壊は免れたものの、この身体で暴れられれば一瞬にして半壊状態の邸は瓦礫の山となるだろう。
踏み潰されでもしたら即死だ。
白燕達を逃がしたいが、相手を刺激したらどうなるか分からないことから動けない。
大きな巨体は呂鴈達には目もくれず真っすぐに鳳珠達の元を目指した。
グルグルグルグルと獲物を捕獲するかのように鳳珠と蒼子、紅玉をその長い身体で何重にも囲い込む。
「紅玉、お前は出なさい」
蒼子は巨大な蛇が作り出した輪の中から紅玉に脱出するように促す。
「ですが……」
「心配ない」
躊躇する紅玉に蒼子は言った。
すると紅玉は鳳珠を一瞥し、蒼子の足元に跪く。
「いつでもお呼び下さい」
その言葉に蒼子は頷き、紅玉は軽やかな身のこなしで蛇の輪から脱出し、残されたのは鳳珠と蒼子だけになった。
共にあると思っていた紅玉が戦線を離脱し、急激に心細さが鳳珠を襲った。
何となく、紅玉は蒼子から離れないと思っていた鳳珠は戸惑う。
いざとなれば、蒼子を紅玉に任せるつもりだったからだ。
蒼子を生かす為なら紅玉はそれを惜しまないと思った。
今までゆったりと一人長椅子に座っていた蒼子はゆっくりと立ち上がる。
着ている服が大人用なので酷く動きにくそうなので、赤子のおくるみのようにし、不安ごと抱き潰すように鳳珠がかかえる。
失敗すれば死ぬかもしれないのだ。
蒼子を信じるしかないが、この小さな命が消えるようなことになる可能性もなくなりはしない。
くそっ……身体が震える……!
身体の震えを何とか誤魔化そうと蒼子を抱える腕に一層、力を込める。
すると、蒼子の小さな手が鳳珠の頬に触れる。
「つめたっ!」
小さな手は驚くほど冷たくて、鳳珠は驚いた。
「落ち着け」
蒼子の涼やかな声がすっと耳に入ってくる。
その声と手の冷たさで目が冴え、頭の中がすっきりとした気がした。
「言ったはずだ。必ず守ると」
凛としたその声に気付けば身体の震えは止まっていた。
蒼子の決して多くはない言葉の中にある絶対的な自信が鳳珠の不安や恐怖を吹き飛ばしてくれる。
この娘は……。
この小さな身体から感じるのは凡人では到底太刀打ちできない自信と力強さだ。
大の大人でも、その道の玄人ですらもたじろぐ強さを蒼子は持っている。
不安や恐れをなすことすらもできなくなるような圧倒的な強さである。
鳳珠は顔を上げるとすぐ正面に白い巨体とギロりと光る赤い目が迫っており、息を飲む。
いつ絞殺されてもおかしくない状況に緊張が走る。
しかし、不安はなかった。
それはきっと自分の腕の中にある頼もしい小さな神女のおかげだ。
蛇が獲物を身体で締め付けるかの如く、鳳珠達は自由に動ける範囲が次第に狭まっていた。
白い鱗の壁が徐々に鳳珠達に迫っている。
すると蛇の動きがピタリと止まった。
「参られたか。この地に棲む尊き神よ」
張り詰めた空気を切り裂くように蒼子は言う。
そして真っすぐに蛇神の赤い瞳を見据えて不敵に笑んだ。
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