第94話 死の可能性
「おい、やっぱり忘れていたんだろう?」
鳳珠は疑惑の目を蒼子に向ける。
「忘れていたわけじゃない。後回しにしていただけだ」
蒼子はしれっと言い返す。
しかし鳳珠は蒼子が珍しく見せた『あ、そういえば……』みたいな顔を見逃さなかった。
「絶対に忘れていただろう。私を守ると言ったくせに、口だけか」
鳳珠の発言が気に障ったのか蒼子がギロっと睨んでくる。
いつも以上に表情豊かな蒼子の貴重な一面を記憶に留めながらも鳳珠は蒼子に抗議する。
「生意気に偉そうなことばかり言っているくせに、こんな肝心なことを忘れるなど神女としての自覚が足りないのではないか?」
いつも言われっぱなしの鳳珠はここぞとばかりに蒼子を突っつく。
そこには皇子としての威厳も大人気の欠片も見当たらない。
傍から見れば大の大人が子供をいびっているようにしか見えない。
しかし何も言い返さない蒼子に気付き、鳳珠は心の中で焦った。
ついでに周りからは蒼子に同情する空気が流れていた。
まずい……いじり過ぎたか……?
鳳珠は蒼子の顔を覗き込もうと屈んだ。
「そ、蒼子……?」
「ふっ」
小さく鼻で笑う声が聞えた。
その声には温度がなく、それに気付いた鳳珠は焦りを覚える。
「紅玉」
「はい、蒼子様」
蒼子は意外にも鳳珠には何も言わず、紅玉に声を掛けた。
「帰り支度を済ませろ。王都へ戻る」
「は⁉」
蒼子の言葉に声を上げたのはもちろん鳳珠だ。
「私は神女としての自覚が足りないらしい。故に、未熟な私は神女としての役割を改めて学び直す必要がある。そう、今すぐに」
冷笑を浮かべて蒼子は言う。
紅玉に向かって発言しているように見せかけて鳳珠を脅しているのだ。
麗しい微笑みだが目の奥は冷え切り、纏うのは冬の気配だ。
「神殿には私から代わりの者を手配しよう。代わりの者が到着する前に神の迎えが来ないことを祈っている」
蒼子が言うとすかさず紅玉が紙と筆を差し出す。
すぐにでも代わりを手配し、帰る気満々な紅玉の動きは素早い。
このままでは本当に蒼子が帰ってしまう。
しかも代わりの者が来るまでに蛇の迎えが来ないとは限らず、代わりの者が到着してもこの状況を解決できるとは限らないのだ。
それは怖い。
鳳珠は悪夢の中の蛇神を思い出す。
何故かは分からないが鳳珠に対しての執着と憎悪が半端じゃない。
人違いもいいところだが、もし再び蛇神が現れても『人違いです』と素直に聞き入れてくれるとは到底思えない。
そんな状況になった時、もし蒼子が側にいないと考えるととてつもない不安と恐怖が鳳珠を襲った。
「わ、分かった! 私が悪かった! だから私を見捨てないでくれ!」
鳳珠はみっともなく懇願する。
周りからの白い目など何でもないと思えるくらいの不安と恐怖である。
すると今にも真っ白な紙に筆を落とそうとしている蒼子の手がピタリと止まった。
「ふん、喧嘩を売る相手は選ぶことだ」
蒼子は真っ白なままの紙から顔を上げて冷ややかな声で言う。
しかし紙と筆を紅玉に返したのを見て鳳珠は心の底から安堵した。
「どうするつもりだ?」
今まで黙っていた莉玖が蒼子に問う。
「相手は神。しかも蛇だ。交渉するにしても質が悪い。下手をしたら命に関わる」
真剣な声音に緊張感が漂う。
「命に関わるだと? そんなに難しいことなのか?」
自分には神など人外の存在に関しての知識はほぼないに等しい。
莉玖の言葉からこの件は簡単な問題ではないことを感じ取る。
「神とは人の道理の中では生きていない。故に、人の道理に従う必要もない。気の良い神や人好きな神であれば耳を傾けてくれるやも知れないが、ほとんどの神は人の事情など些末なことと考え、気に留めない。しかも、今回は神の求婚。神にとっても伴侶を求めるということはその神自身の力を増強させたり、影響力を広げたりと、大きな意味がある。中には自身の存在をかけて伴侶を得る神もいる。つまり神が伴侶を求めた時ほど、人の話に耳を貸す傾向が薄いということ」
莉玖の説明を聞いていた鳳珠は絶望が見えた。
「つまり……話し合いでの解決は無理だということか……?」
「まず無理だと思った方がいい。怒りを買えば命を奪われかねない」
微かな希望も莉玖の冷たい一言が無残にも打ち砕く。
自分の話しを聞かない相手でも蒼子ならばそれが可能なのではないかと考えていた鳳珠はそれが甘い考えだったと気付かされる。
「命を奪われる……というのは、私の命か?」
「この場合は交渉役に立つ者、つまりは神の邪魔をする者である蒼子だ。最悪の場合、あなたと蒼子の二人が死ぬことになるかもしれない」
「何だと⁉」
鳳珠は莉玖の言葉に声を荒げる。
そして鳳珠は蒼子を窺い見る。
当然知っていたと言わんばかりの冷静な表情だった。
蒼子が死ぬだと……?
この小さくて愛らしくて生意気な蒼子が?
この世の尊さと愛らしさを搔き集めたかのような小さな存在が私の世界から消えるだと?
今まで考えもしなかった蒼子の死が突如、目の前に大きな壁となって現れる。
立ち向かうにはあまりにも自分は無知で無力な存在だ。
私にはすべきことがある。
しかし自分のために蒼子を犠牲にするわけにはいかない。
もし自分の代わりに蒼子が犠牲になるようなことがあれば、自分は一生立ち上がることができないほどの絶望を味わうことになるだろう。
「何か方法はないのか?」
何か方法はあるはずだ。
自分も蒼子も助かり、尚且つ求婚をなかったことにする方法が。
「御身が蛇神に嫁ぐのが最も手っ取り早――――――」
「それ以外でだ!」
莉玖の言葉を鳳珠は大きな声で遮る。
「そなた、私を蛇に嫁がせようとしていないか?」
何となくだが、莉玖の言葉には自分を蛇神に嫁がせてしまおうという投げやりな気持ちを感じる。
「…………………………まさか」
「長い間はなんだ」
「気のせいでしょう」
鳳珠がじっとりした目で見ると莉玖は平然とした態度で双眸を伏せて一歩下がった。
「とにかく、やろうとしていることは神からの伴侶の略奪、婚姻の妨害です。元来、神とは人の理から外れた生き物。邪魔をすれば殺されても仕方がないこと。その覚悟があるのか?」
莉玖は怒ったような声で蒼子に視線を向ける。
蒼子はこのことを知っていたのだろう。
娘が死ぬかもしれないのだから莉玖が怒るのも当然だ。
「勝手に死ぬ方向で話を進めないでもらおうか」
蒼子は莉玖に向かって言う。
父親である莉玖に対しても不遜な態度を取る蒼子はこんな時でもブレないな、などと鳳珠は少しだけ感心する。
「死ぬかもしれないのだぞ」
「それはあくまで可能性の話だ。尚書はいつ来るか分からない地震や嵐が怖いからと出仕しないなんてことはあるまい。死とはどんな状況でも近くにあるもの。生きている限り、それは揺るがない」
蒼子は莉玖に向き直って言った。
「…………二人共助かる保証はないのだろう」
「言ったはず。生きている限り死は側にあり続ける。本来、この世に生と死は保証されるものではない」
蒼子の言葉に莉玖は押し黙る。
つまりはどうなるかは分からない、とういうことなのだろうと鳳珠は飲み込んだ。
死ぬ可能性もあるが、死なない可能性もある。
確実な保証はないということ。
かと言って、何もしなければ蛇の嫁である。
それは嫌だ。
しかし、蒼子が死ぬのはもっと嫌だ。
それならば自分が犠牲になる方が遥かにマシだ。
鳳珠は無意識に奥歯をギリギリと噛み締める。
くっ……! 二人で助かり、尚且つ求婚を断る方法はないのか⁉
ちらりと視線を向けた先にいた紅玉は無言で蒼子の側に控えている。
こういう時に一番騒ぎそうな紅玉だが、至って冷静だ。
「策はある」
蒼子はそう言って鳳珠に視線を向けた。
「如何するか、皇子よ。大人しく神に身を捧げるか、それとも私と共に泥船に乗ってみるか」
口元に薄く笑みを浮かべた蒼子は挑戦的に言う。
「選ぶのはあなただ」
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