第92話 赤子の行方

「子供の前だぞ。血を見せるな」


 鳳珠は舞優に言った。

 その言葉に舞優は不可解な表情を作る。


 舞優は依然として短剣を呂鄭の喉元に突き立てたままの体勢で固まっている。

 


「王印ってのは便利だな。力を跳ね返すだけじゃなく、こんな風に人間を操れんのかよ」


「普通の人間は操れない。神力を持つ者に対してだけ有効だ」


 嫌味を言う舞優に鳳珠は真顔で答えた。

 舞優と鳳珠が会話をしている間に、莉玖が呂鄭の足首を掴み、荒っぽく自分の方に引き寄せて舞優から遠ざける。


 あまりの手荒さに呂鄭は顔面を床に強打したが、もはや誰も気に留めない。

 莉玖は汚い物に触れた時のような顔をして手を拭っている。


 そんなことをしている間に王印の効果が切れた。

 舞優は軽やかな身のこなしで鳳珠と距離を取った。


「ちっ、邪魔しやがって」

「それはこちらの台詞だ。この男を殺されては困る」


 舞優の言葉に鳳珠は言った。


「死んでも誰も困らないさ。むしろ、みんな喜んでくれる」


「この男は己の罪の重さをまるで分かっていない。今ここで首を落とされてはこの男は自分が何故殺されたのかも分からないままだ。被害者の真の望みはこの男の死ではなく、己の罪を認め、罪の重さを理解し、悔い改めることにあるのではないか? 正直、この男が自分がどれほどの人間を弄び、傷つけてきたのかを理解できるかは分からないが、今ここで死ねばその機会を完全に失うことになる。それはこの男を逃がすことと同意であると思わないか?」


 鳳珠は殺意を剥き出しにする舞優に諭すように言う。


 鳳珠の言う通り、呂鄭は自分の行いが正しいと信じている。

 男尊女卑の世界で自分が女を好き勝手に扱う権利があるものと疑っていない。


 決してそうではない。

 人間を道具のように扱う権利はないのだと知らしめる必要がある。


「人とは一人一人が尊いものだ。そうでなくてはならない。この男はその尊き者達を傷付け、道具のように弄んできた。私はそれを決して許さん。そしてこのような者達を野放しにするつもりもない」


 鳳珠は舞優を見据えて断言した。

 その声音からは鳳珠の強い意志が現れている。


 舞優は怪訝な顔をしながらも、鳳珠の意志の強さは感じ取った様子だった。



「舞優とやら」


 そんな中、今まで黙って様子を見守っていた呂鴈が舞優に声を掛ける。


「何だよ、おっさん」

「そなたが探している赤子に心当たりがある」


 舞優に凄まれながらも臆することなく呂鴈は言った。

 呂鴈の言葉に舞優は目を見開き、一気に呂鴈までの距離を詰めて胸倉を掴んだ。


「本当か⁉ どこにいる⁉ 一体、どこに売られた⁉」


「売られたのではない。あの赤子は私の知り合い夫婦に養女として引き取ってもらったのだよ」


 その言葉に舞優は目を剥いた。


「こめかみに傷のあった赤子だろう? ある日、従兄弟が泣き叫ぶ赤子を連れて邸に来た。母が死に、どうせ面倒を見る者もいないから狩りで獣の餌にすると」


 呂鄭が殺したという従兄弟は狩りが好きでよく山に入っていたという。


 その残忍さに蒼子は顔を歪めた。


「そんなことはさせられない。だが、赤子を育てられる余裕のある者もあまりいなかった。その時、知り合いの夫婦が子が産まれたが死産だったことを思い出したのだよ。私はその夫婦に赤子の面倒を見てもらえないかと頼んだんだ。自分の子を失ったばかりで他人の子など目に入れられる心境じゃないかもしれないと思ったが、彼らは快く引き受けてくれた」


「それで、一体どこの家だ⁉」


 舞優は呂鴈の胸倉を掴みながら急かす。


「翠家だ」


「翠家だと?」


 その言葉には蒼子も驚いた。

 翠家とは大貴族の一つに名を連ねる家柄で、呂家からまさかそんな所に引き取られたとは舞優も思っていなかったらしい。


「翠順と妻の華仙という夫婦の元へ預けた。本家とはあまり関係ない一族の末席にいる穏やかな者達だ。引き取られた後も手紙でやり取りをしていたが、そこには子供成長を喜ぶ翠順の言葉が綴られていた。あの夫婦に託して良かったと心底嬉しかったよ。しかし……何年か前に夫婦は事故で亡くなり、その子供は一族の誰かに引き取られたと聞いた」


 呂鴈は少し暗くなった声で言う。


「だが、その子は今でも生きているはずだ。その気があるなら探してみるといい」


 呂鴈は言葉を失くして固まる舞優に優しい声で言った。


「そうか……生きてるのか…………」

 

 俯きながら力なく舞優は言う。

 その声は微かに喜びに震えていた。


 そして呂鴈から手を解き、鳳珠に視線を向けた舞優は言う。


「…………さっきの言葉、嘘だった時はこの男の首ごとてめぇの首も落としてやるからな」

「上等だ」


 舞優の言葉に鳳珠は不敵な笑みを見せる。

 それを面白くなさそうに睨む。


「神女」


 成り行きを見守っていた蒼子に舞優が声を掛けた。

 

「今日はそこのおっさんに免じて見逃してやるが、次は絶対に連れて行くからな。花嫁衣裳でも選んで待ってろ」


「はぁ⁉」

「何だと⁉」


 舞優の冗談めいた発言に蒼子以上に過剰反応したのは紅玉と鳳珠である。


「許可を下さい。殺します」

「ふざけるなよ、貴様! 呂鄭の前に貴様の首から先に落としてくれる!」



 紅玉は剣の柄を握りながら蒼子に許可を求め、鳳珠は蒼子を守るように抱き締めて舞優を威嚇する。


「二人共、あの男の冗談だ。落ち着いて」


「冗談じゃねぇよ。俺は本気だ」


「お前、私がせっかく火消をしてやってるのに煽るんじゃない」


 舞優の言葉を本気にした紅玉と鳳珠が殺気立っている。

 

 その時、目の前に大きな水の壁が現れた。

 視線を向けるとそこにいたのは莉玖である。

 莉玖は水壁を作り出し、蒼子達と舞優を完全に隔てて、壁の向こうにいる舞優を睨みつけている。


「失せろ」


 地の底から響くような低い声が響いたと同時に水の壁が崩れて波となり舞優を襲う。


「うおっ⁉」


 舞優の驚いた声を最後に波は舞優を攫い、瓦礫と共に邸の外に姿を消した。

 


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