第76話 地下牢

 暗く、冷たい室内に辛うじて明るさをもたらしているのは天井付近にある小窓から差し込む月明りだった。

 床は石造りで冷えていて、湿気があり、じめじめとしていた。


 そして不気味だった。

 この牢屋に入れられて最初に感じたことは息苦しさと、這い上って来るような嫌悪感だ。

 この場所に来たのは初めてのはずなのに、身体が酷く震えて、気分が悪くなった。

 ここにいては行けない、早く逃げなければと自分ではない誰かが耳元で囁くのだ。


 急がなければあの男が来る。

 だが、逃げなければと思えば思うほど身体が竦んだ。


 そして身体中に虫が這うようなおぞましい不快感と恐怖を覚え、鳳珠は手錠で繋がったまま身体を掻き抱く。


  初めて来た場所なのにこの風景にも、匂いや感じる不快感に既視感を覚える。


 瞼の裏に鮮明に焼き付いた屈辱的で自身の尊厳を踏みにじられる行為に鳳珠は吐き気を催した。


 身体も心も痛くて痛くて、悲鳴を上げる。

 悲鳴を上げ、泣き叫んでも終わらない悪行に喉が枯れ、次第に諦めと絶望を味わう。


 そして誰もいなくなったこの場所に訪れた静寂の中で凄まじい憎悪が膨れ上がっていく。


 殺したい、憎い、憎い、死ねばいい。

 呪ってやる! この身を穢した数だけ呪っても全く足りない。

 その首が落ちるまで呪い続けてやる!


 その時、呂鄭の顔が浮かんだ。

 呂鄭の首に黒い痣が浮かび上がり、それが次第に濃くなり、首を一周して輪を描こうとしている。

 

 そして首の黒い輪が完成した時、首が落ちた。


「鳳珠様!!」


 椋の声にはっと我に返る。

 そこには鳳珠の顔を覗き込み、心配そうな顔をする椋と柘榴の姿があった。


「大丈夫ですか?」

「様子が変ですわよ」

「あぁ……すまない、少しぼうっとしていた」


 適当に言い訳をしながら先ほどの光景は何だったのかと思う。

 そして先日、鳳珠の身体に何者かが憑りついたかのように蒼子へ逃げろと促したことを思い出す。


 その時に激しい憎悪を感じたと蒼子は話していた。

 今しがた鳳珠が見たものにも、激しい憎悪を感じた。


 きっとこれは関係があることなのだと直感する。

 


「おい、お前達。何か縄を切れる道具はないか?」


 一先ず、この気味の悪い牢屋から脱出することが優先だ。

 鳳珠は考えることを一旦放棄し、椋と柘榴に問う。


「ないですね」


「ありませんわ」


 鳳珠の問いに分かり切った現実と虚しさが返ってくる。


 椋は後ろ手で縛られており、鳳珠は手前に手錠のみ、柘榴は一人体格が良いので後ろ手で縛られた上に足も縛られている。


 縄を切れる道具があればとうに切っているが、それができていないことが問いの答えであった。


「お前達、万が一の時の為に刃物の一つぐらい持っておけ」


 鳳珠は呆れ声で言う。


「そっくりお返ししますよ。護身用にお持ち下さいと以前から言っているではありませんか。いつ嫉妬に狂った男から刺されるか分からないのですから。前に一度襲われたではないですか」


 鳳珠は従者を諫めたつもりが、窘められている状況に口を紡ぐ。


「蒼子様は血を嫌いますから、刃物は持ってませんの」


 確かに子供の前で刃物はどうかと思う。

 

「さっきの言葉はなかったことにしよう」


 鳳珠は自分の発言をなかったことにした。

 責任転嫁はやはり良くない。


「それにしても見張り一人おかないとは不用心だな」


 鳳珠は鉄格子の向こうに視線を向ける。

 こんなに呑気な会話ができるのも見張りがいないからだ。


「それだけ呂鄭の影響が大きいのでしょう。当主代理ではあるが、この町の実質的な支配者はあの男です」


「誰一人として呂鄭に逆らえない状況だから、わざわざ見張りを置かなくても裏切られないってことよね。町全体でグルってとこがもう無理だわ」


 見張りもいなければ誰もいない牢に三人の声だけがよく響いて聞こえた。


「とにかく、どうにかしてここから出なければ」


 呂鄭の夜の相手など御免だ。

 心底嫌だ。


 売られた方がマシである。


 口には出さないが、その心音は他の二人にも伝わったらしく、色濃い同情の眼差しを送られる。


 鳳珠は手錠しかかけられていないので手首から下は自由だ。

 縄を解くべく奮闘したが、固く結ばれた縄は手首を固定された状態ではビクともせず、手の爪が折れたところで断念した。


「大丈夫ですわ。出れずとも、蒼子様が何とかして下さいます」


 明るい声で柘榴が言う。


 蒼子は白燕の手で逃がされた、というようなことを呂鄭が言っていた。

 

「追われて怖い思いをしていなければいいが…………」


 鳳珠は大人に追われて震える蒼子を想像し、胸が苦しくなる。

 こんなことなら、やはり離れなければ良かったと後悔する。


「それに、舞優の存在も気になる」


 鳳珠の言葉に柘榴は真剣な顔になり、頷く。


「白燕様が蒼子様を逃がしたとしても、舞優と関りがある以上、安心できませんわね。舞優は蒼子様に気のある素振りを見せていましたし」


「はぁ⁉ 何だと⁉」


 柘榴の言葉に過剰反応したのはもちろん鳳珠だ。


「おい、どういうことだ⁉」


「以前に舞優と対峙した際に言われたそうです。『お前を連れて行きたい』とか、なんとか」


 柘榴は宙に視線を彷徨わせ、確かそんな感じのことを蒼子が話していたのを思い出す。


 えぇ、確かそんな感じだったはず。


 柘榴の曖昧な記憶を真に受けた鳳珠は目を吊り上げ、物凄い形相になる。


「…………ここから出るぞ。なんとしても」


 地の底から響くような鳳珠の低い声に柘榴は言葉選びを間違えた気がすると少しばかり反省した。


 鳳珠の目が怒りと嫉妬で燃えている。

 舞優などに蒼子をくれてやるわけにはいかないと、言葉がなくてもその滾った瞳が悠然と語っているのだ。


「緋同石は脆いからな。こうして…………」


 鳳珠は石の床にガンガンと手錠を叩きつけ始めた。

 思いの他、よく響く。


「落ち着いて下さい。それだとうるさすぎて人に気付かれ―――」


 主を宥めようと椋が口を開いた時、カツカツとこの場所へ続く階段から足音が聞えてきた。

 

 三人は一気に警戒を高める。


「だから言ったじゃないですか。気付かれますって」

「まだ言ってないだろう」

「もう、お二人とも来ますわよ」


 押し問答する二人に柘榴は気の引き締まった声で言う。


 呂鄭かその手先かと警戒するが、その足音に不自然さを覚える。

 その足音は控えめで、なるべく音を響かせないようにと忍んでいる。

 しかし、急いでいるように感じた。


 三人の視界に外套を頭から深く被った細身の人物が現れる。


「椋様!」


 外套の人物は明るい声で椋の名前を呼んだ。若い女の声である。

 突然現れた人物に名前を呼ばれ、椋は驚いている。

 だが、その声に聞き覚えがある椋と柘榴は目を見開いた。


「皆さん、ご無事で良かった」


 そう言ってばっと外套を脱いだのは椋と柘榴が呪いの痣を調査する際に関わった百合だった。

 


 


 

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