第72話 『花』の意味

「白陽! 白陽! どこなの⁉」


 白燕は弟を探して叫んだ。

 邸を飛び出し、無我夢中で町の外へ続く道を走った。

 

「嫌よ……いや……白陽、白陽……!!」


 髪や服が乱れることも構わず、呼吸すらも忘れて力の限り走った。


 こんな日が来ると思っていた。

 私達姉弟は自分達の意志ではなく、いつかあの男の手によって引き裂かれるのだと。


 今までしてきたことの報いを受ける日がそう遠くない未来に訪れることも。


「分かってたわよ、知っていたわよ!」


 白燕は涙に滲む視界の中、誰でもない自分に向かって言った。


「きゃっ」


 次第に息が上がり、足が縺れて一人地面に転がった。


「うっ……分かってたわよ……でも、でもどうして……私達がこんな目に遭わなきゃならないの…………」 


 地面に着いて手と膝に小さな小石が食い込み、痛いはずなのに、痛みを感じなかった。

 

 手や膝よりもずっと心が痛かった。

 長い間、ずっとずっと心が泣いていた。


 普通の親の元に生まれたかった。

 親に愛され、親を愛し、仲の良い弟と楽しく過ごしてゆっくり大人になりたかった。


 別に贅沢をしたいとか、裕福な家に生まれたかったとか、そんなんじゃない。

 求めたものは多くない。

 そう思うのは自分だけで、本当は自分が酷く強欲なのだろうか。


 自分が求めたものは子供であれば本能的に誰もが望むものだ。


 だけど、白燕はそれを与えられた記憶はない。


 自分がただの道具でしかないと気付いたのは早かったと思う。


 この町の女達は誰もが誰かの『花』だ。

 所有者に手折られ、捨てられ、売られ、貸し借りを行うための『花』。


 首飾りは所有者がいる証で、身に着けていなければ『野花』と同じ。

 簡単に刈り取られ、売られてしまう。


 幼い頃はその首飾りの意味も分からずに、単なるお守りだと思っていた自分は思い返しても無知だったと思う。

 

 昔から大人達が自分に向ける視線が気持ちが悪かった。

 何だか品定めされているような心地悪さがあった。


 そして初潮がきた日の夜、父に呼ばれて寝室へ行った。

 その日から地獄は始まった。


 まだ成熟しきっていない身体も大人になり切れない未熟な心は簡単に壊れた。

 繰り返される屈辱的な行為は相手が変わっても終わりは来ない。

 逃げたくても、もし失敗してしまったら、そう思うと足が竦んだ。


 今よりももっと酷いことをされるか、もっと劣悪な環境へ堕とされる。

 容姿が優れ、『雪柳の姫』などと呼ばれている自分はまだマシだ。


 人並の食事と寝床を用意してもらえる。

 だけど、今よりももっと酷い場所へ売られたら自分はどうなってしまうのだろうか。

 

 そう思うと怖くて仕方がなかった。

 黙って従うしかなった。


 そして、私がいなくなれば弟はどうなるのだろうか。

 きっと、自分よりは酷い目に遭うことはない。

 男だも。女の私よりもずっといい扱いを受けている。


 それが憎く、羨ましく思ったこともあった。


 それが間違っていたと気付いたのはとある日の夏の晩だった。

 昼から三件回ってようやく帰って来た日の深夜。


 父の寝室に灯りが見えた。

 

 どうせまた使用人の女を連れ込んでいるのだろう。

 最初はそう思って気にも留めなかったが、ふと、父の標的になった憐れな女は誰だろうと気になった。


 自分のように泣いて許しを請うのか、それとも致し方ないと諦めて媚びているのか。


 ほんの興味本位だった。

 白燕は部屋の外から近づき、開いた窓の隙間から部屋の中を覗き込んだ。


 そして愕然とした。

 そこには弟が父に蹂躙され、泣きながら恥辱に耐えている光景が広がっていたのだ。


 全身を凄まじい速度で嫌悪が駆け巡り、吐き気を催した。

 

『もう止めて』と懇願する弟に父は『お前が嫌なら姉に代役をさせるしかない』と言った。

 父がそう言うと弟は黙った。

 そしてただただ泣きながら繰り返される非道な仕打ちに耐えていた。


 あの時、頭を殴られたような衝撃を受けた。

 同時に、何も知らずに弟を羨み、憎んでいた自分が馬鹿だと思った。



 自分がいないところで父は弟を脅し、弟は姉のために屈辱を受けていたのだから。


 守らなくては。


 白燕の中に生まれたのは弟を何としても守らなければならないという使命感だった。


 自分を守ろうとその身を捧げた弟を、姉の私が守らないでどうする。


 それから少しだけ心が強くなった。

 男達との地獄のような行為も白陽がいたから耐えられた。


 自分よりも幼い『花』の斡旋も心は痛むが致し方ないと割り切ることができた。


 だけど…………!!


 白燕は拳を地面に叩きつけ、唇を噛み締める。

 ボロボロと大粒の涙が零れ、地面に染みを作った。


「白陽がいなきゃ……意味がない……叔父様も、結局きてくれない……全部、全部間に合わない」


『姉さん』


 そう言って控えめに微笑む優しい弟の声を思い出し、胸が苦しくなる。

 

 元々、虫も殺せないほど気が弱く優しい子だ。


 優しい白陽、可愛い私の弟―――。


 「ごめんね……白陽……」

 

 そんな弱い白陽が自分のために苦痛に耐えていた。

 全部私のためだ。私のせいだ。


 絶望に打ちひしがれていると、脳裏に蒼子の顔が浮かぶ。

 不思議な幼子だ。

 あの黒い瞳を前にすると、白燕はこの辛い胸の内を曝け出し、泣き出したくなる。


 売人に売るなんて気の毒だ。

 あんなにも鳳珠に愛されているというのに。


 例え、実の親子ではなくとも、仲睦まじい二人は白燕にとっても白陽にとっても理想そのものだった。


 それに、蒼子を失った鳳珠の顔を想像するだけで胸が苦しくなった。

 

 何とか、あの二人を逃がしてあげたい、そう思ったから白陽と一緒に練った計画を実行した。


 売人に売り渡した後、舞優という男に売人を襲わせ、蒼子を攫わせた。


 蒼子を連れた舞優と落ち合う算段だったのに、落ち合う場所に来たのは舞優だけで問い詰めれば蒼子は連れて行くと言い出し、計画は破堤した。


 鳳珠は馬で蒼子を追うことを選ぶはずで、その通り道に白陽が蒼子を連れて行く計画だったのだ。


 だけど、計画は失敗して、父にもバレた。

 その代償として白陽が連れて行かれてしまった。


 白燕は地面に蹲ったまま、絶望した。

 もう、このまま死んでしまいたい。


 だけど、一人で惨めに死ぬのは嫌。父も村の男達も全て地獄に落としてやりたいのに!!


 激しい憎悪が胸の中に渦巻く。

 長年蓄積されてきた禍々しい憎悪の塊が溢れ出る。


「そうだわ……あの人がいるじゃない」


 白燕は一人の女性の存在を思い出す。

 

「あの人なら分かってくれるわ。きっと、助けてくれる」


 白燕は仄暗い笑みを浮かべてフラフラと立ち上がり、呟いた。


「助けるのよ、白陽を……そして、この町を滅ぼすの」

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