第66話 老女

 重たい扉が音を立てて開かれた。

 すると開いた扉の隙間から茜色の光がこぼれて、薄暗かった階段が僅かに明るくなり、蒼子達の影を作った。



「蒼子様、私が先に入って様子を見ます」


 そう言って柊は警戒しながら部屋に足を踏み入れる。

 柊は夕焼けが眩しい視界の中で目を細めながら室内を見渡した。


「眩しいな」


 背中越しに聞こえるのは蒼子の声だ。

 柊よりは前に出ないがしっかりとついて来ている。


 できれば安全が確認できるまで外にいて欲しかったが、自分よりもはるかに強いであろう蒼子に物申すことはできない。


 殺風景な部屋には簡素な寝台、卓に椅子があるばかりで、広さの割には物が少ない。


 扉から部屋に入った正面には大きな窓があり、そこには沈む夕日を五の池が反射していて灯りがなくても眩しかった。


折角の景観も鉄格子の存在で台無しですね。


 そして水辺が近いためか、とても空気が冷たく感じられる。


「あ…………たぃ」


 柊は聞こえてきた声に肩を跳ね上げる。

 咄嗟に蒼子を後ろに隠し、灯りで声の主を探した。 


 すると窓に近い場所に置かれた椅子に誰かがしな垂れかかるように座っていた。

 白髪の女だ。


 痩せ細った身体、こけた頬、窪んだ眼下、虚ろな目で女の子の人形を大事そうに抱いている。


 歳は六十を越えているくらいだろうか。


 こちらに襲い掛かってくるような雰囲気ではないが、柊は警戒心を強めた。

 しかし、老女はこちらに見向きもしない。


 ただただ、少女のように人形を胸に抱き、少しだけ揺れている。

 まるで赤子をあやす母のように。


 こんな場所にまるで存在を隠すように閉じ込められていたあの老女は一体何者なのだろうか。


 白髪の長い髪は結われることもなく、流れ落ち、綺麗とは言えない服の袖から覗く手足や首は痛々しいほど痩せ細っている。


 床には衣類や子供がままごとで使うおもちゃが散らかっていて生活感がある。


 この女性がこの場所にいるのは決して短い時間ではないのだと感じさせた。


「この方は一体…………」


 柊が呟いた時、老女がぐるりと首を回して血走った目で柊を睨んだ。


「寄るな―――‼」


 物凄い形相で老女はその細い体からは考えられないほど迫力のある声で叫んだ。

 部屋の空気がビリビリと張り詰め、耳を劈くような怒声だ。


「許さない! 許さない! 許さない! 殺してやる!!」


 老女は胸の中の人形をきつく抱き締め、憎悪を剥き出しにする。


「私からこの子を奪うつもりか⁉ 全てを焼き払い、灰まで消してもまだ足りないっ! 憎き奴らめ!! 呪ってやる! その血が続く限り、呪い続けてやる!」


 まるで獣の咆哮のように女は言った。


 ビリビリと空気が震え、肌を針で刺すような鋭さと胸を圧迫されるような息苦しさと威圧感を肌に覚え、柊は呆然とする。


 今にも襲い掛かってきそうな勢いに圧倒されてしまう。


 これだけ敵意を剥き出しにされてしまっては話など通じないのでは。

 老女の目に映るのは明確な憎悪と拒絶だ。


「許さないっ! 返せ!! 私の子を!! 返せえぇぇぇ!!!」


 老女が獣の咆哮のような声を発した次の瞬間、熱風のようなものを身体に感じた。


「なっ!!」


 目の前に渦巻く真っ赤な炎が現れ柊は驚愕する。


 あれは火の神術!!

 

 じりじりと肌を焦がすような熱の風が痛くて、柊は蒼子を背中に庇い、自分の顔を袖で覆った。


 すると、蒼子がすっと前に出た。


「蒼子様! 逃げましょう!」


 柊は反射的に蒼子に腕を伸ばす。

 すぐにこの場所から離れなければと本能が警鐘を鳴らす。

 命の危機に瀕する状況から逃げなければと焦燥感に駆られる。


「大丈夫」

「しかし!」

「大丈夫。私が大丈夫だと言っている」


 柊の腕を蒼子は押し退けて言う。

 水のように涼やかな蒼子の声が柊に落ち着きをもたらしてくれる。

 先ほどまでの緊張感や焦燥感が蒼子の声で嘘のように鎮まっていく。


 しかし、危機が去ったわけではない。


 目の前には赤い炎がまるで蛇のように蜷局を巻いているのだ。


 老女の凄まじい憎悪と殺気に圧倒される柊だが、蒼子は静かに老女を見つめていた。


「私を見て」


 蒼子の鈴を鳴らすような声が静かに響く。


「私を見て。呼吸をして。瞼を閉じて。そしてもう一度、私を見て」


 蒼子は真っすぐに老女を見つめて言った。

 

 まるで大きな水溜まりに波紋が広がるかのように、蒼子の声が空間に響く。

 すると荒々しい熱の風が蒼子が作り出した静かな波紋に飲み込まれていくように鎮まっていく。


 そして遂に蒼子が作り出した波紋が老女の作り出した炎の渦に届くと、そのまま炎は消えてしまう。


 水の神術を使ったわけでもなく、ただその声を発しただけで、老女の作り出した炎の渦を消し去ってしまう蒼子に柊は驚く。


 まさか、術を使わずにこの場を収めてしまうなんて…………。


 柊は目の前の幼子に視線を向ける。

 

 蒼子は何事もなかったかのように平然としており、老女を見つめていた。

 

 幼子に見せて幼子ではないことを知っているものの、こんなにも慌ててしまう自分が恥ずかしいですね……。


 柊は心の中で自分の情けなさに溜息をつく。


「一体、何をなさったのですか?」


 柊は何が起こったか分からないので訊ねる。


「気をぶつけたの。あの人の気はとても荒れていたから」


 そう言って蒼子は老女にゆっくりと歩み寄る。


「な…………あ…………」 


 小さな声が老女から発せられた。


 驚いていたのは柊だけではなかったようだ。


「少しは落ち着いたようで良かった」


 床に座り込んだままの老女は蒼子の姿を目を見開いて絶句している。

 何が起こったのか分からない様子で混乱の色が見えた。


 



 

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