第58話 紅玉と呂鴈
「あとどれくらいでしょうか?」
馬車に揺られながら長い手足を何度も組み替えて、落ち着かない様子の青年は向かいに座る男性に訊ねる。
「もう間もなくです。この度はご同行して頂きましたことを感謝いたします」
あまり器量が良いとはいえない男だが、言葉遣いは丁寧で、所作も美しい。
何より、人柄が良い。
馬車に揺られて数日行動を共にしているが、人や物に対しての当たりがとても良いのだ。
「いえ、こちらこそご一緒できて良かったです。調べ物も手伝って頂きましたし、興味深い話も聞くことができて勉強になりました」
紅玉が蒼子と共に行動しなかったのは蒼子からこの町について詳しく調べるように言われていたからだ。
調べたことと、その内容を裏付ける話を呂鴈から聞くことができた。
「それは良かったです」
こういう人との仕事は気持ち良くできるものだ。
宮廷でも真面目で誠実、部下想いだと評判の人物であるのも頷ける。
「そう言って頂けると嬉しいです、紅玉様」
「様付けはやめて下さい。私はただの神官見習いでしかありません」
硝紅玉は目の前の男、呂鴈に言う。
王都から馬車で数日かけてこの琉清にやって来た。
「それよりも無理を言って移動を早めてしまい、お疲れでしょう。申し訳ない」
姉である蒼子から文が届き、『なるべく早く着くように』と催促されたため、昨日はほとんど休まずに馬車を走らせている。
そのせいで呂鴈には負担をかけてしまったことを紅玉は謝罪した。
「いえいえ、神女様をお待たせしては悪いですし、こちらとしても数年ぶりの里帰りですから。姪や甥に会えるのが楽しみで、あまり気になりません」
呂鴈はそう言って嬉しそうな顔をする。
馬車の小窓から外に見える川を指す。
「あの川は琉清の町にある蛟滝から流れている川です。この先にある橋が町の入り口になります」
水が豊富で山に囲まれた琉清は美しい花、酒、果物の生産が盛んでその質の良さから遠方からも足を運ぶ者も多いという。
紅玉は小窓から外を覗き、川の流れを眺めた。
その時だ。
よく知った気配が目の前を過った。
「止めて下さい!」
紅玉は馬車の中から御者に向かって叫ぶ。
驚いた御者は手綱を引き、馬車が急停止して大きく揺れた。
「こ、紅玉殿? 一体、どうされましたか?」
呂鴈は驚いて何の前触れもなく馬車を停めた紅玉に訊ねる。
「何かあります」
紅玉は馬車を降りる。川辺へ向かって歩き、気配の元を探した。
その後ろを呂鴈と御者が追って辺りを見渡した。
「誰かいます!」
声を上げて川辺の一点を指し示したのは呂鴈だ。
呂鴈の指し示す方向に誰かが倒れている。
下半身が水に浸かり、上半身が川の砂利に引っ掛かっているような状態だった。
このままでは水に流されてしまう。
「大丈夫ですか⁉」
紅玉は急いで倒れている人物に駆け寄り、声を掛ける。
「手伝います!」
呂鴈は水に濡れることも躊躇せずに、ざぶざぶと川の中に入って行く。
紅玉と呂鴈は倒れていた人物を二人で抱え、岸へと連れてきた。
若い女性だった。
ぐったりとしてはいるが、外傷はない。
「息がある……大丈夫ですか⁉ しっかりしなさい!」
呂鴈は女性の顔をぺしぺしと叩くと、『うっ……』と小さく呻く声が聞えてきた。
「荷物の中に毛布がある。持って来てくれ」
呂鴈は御者に命じて、女性に自分の着ていた羽織をかけた。
「ここは…………?」
うっすらと目を開けた女性は顔色悪く訊ねる。
「ここは琉清の入り口だよ。もう大丈夫だ」
呂鴈は優しく語りかけるが、その女性は絶望的な顔をしてボロボロと大粒の涙を零して蹲ってしまう。
只ならぬ女性の様子に呂鴈は動揺する。
「ど、どうしたんだね? どこか痛いのかい?」
おどおどしながら女性を宥めようとするが、女性の嗚咽は大きくなるばかりだった。
「どうして……どうして生きてるの……死にたかったのにっ……!」
声を絞り出して涙ながらに女性は言った。
「まさか……君は溺れたんじゃなく、飛び込んだのかね?」
そう口にした呂鴈は悲痛な面持ちだった。
どうやらその通りらしい。
「とりあえず、落ち着きなさい。歩けるかね? 紅玉殿、ここで少し休憩してもよろしいでしょうか?」
呂鴈は女性に寄り添ったまま、紅玉に視線を向けて訊ねる。
この人はやはりとても優しい人だと感じた。
「到着が少し遅れてしまいますが、このままでは…………」
申し訳なさそうな表情を浮かべる呂鴈に紅玉は首を振る。
「大丈夫です。それに、ずぶ濡れの女性を放っておいたらそれこそ姉に怒られます」
そう言うと呂鴈はほっとしたような表情を浮かべる。
「放っておいて下さい、優しい方々」
女性は涙声で言う。
顔を上げた女性の額に紅玉はよく知る人物の気配を見つける。
「一体、何があったのでしょうか?」
紅玉は膝を着き、目線を女性に合わせる。
色白で目の大きな愛らしい女性だ。
女性はすぐに紅玉から視線を逸らし、ガタガタと震え出す。
一瞬覗き見た女性の瞳は空虚だった。
空虚な瞳から大粒の涙が零れている。
「黒い髪の美しい幼子に会いませんでしたか?」
紅玉が訊ねると女性は徐に顔を上げた。
何故、それを知っているのかと女性は表情で語る。
「その幼子があなたを助けたようです」
女性の額には蒼子の神力の加護がある。
蒼子の加護が女性を守ったのだ。
「あの……子が……? 私を……助けた……?」
ぼんやりとした顔で女性は言う。
やはり心当たりがあるようだ。
「私はその者の身内です。彼女があなたを助けたのなら私はあなたを助けなければならない。それが彼女の意志ならば」
紅玉が言うと女性は不思議そうな顔で紅玉を見つめた。
「話して下さいませんか? あなたが水に飛び込まなければならなかった理由を」
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