第57話 五連玉池

 呂家の旧本家の邸の裏手に細い道があった。

 なだらかな傾斜を登っていくと開けた場所に出る。


 するとそこには広い池が広がっていた。

 緑に囲まれた池は太陽の日差しを反射さてキラキラと輝いている。

 池を覗き込むとその透明度に息を飲む。


 浅瀬は池の底がはっきりと見えるほど透き通っていて、深い場所は濃い青色に見えた。


「綺麗……」


 神殿にはこのように大きな池はない。

 自然の営みの中で生まれたこの池に深く感動する。


 水質は如何なものか。

 水の清さは触れてみるのが一番だ。


 見た目の透明度と、水の清らかさは全く別物なのだ。



「降ろしていい」


 自分を抱いたまま歩き続けた鳳珠に言う。

 水に触れて水質を確認したいのだが、抱かれたままでは難しい。


 それに、此処へ来るまでずっと鳳珠は蒼子を抱えたままで、そろそろ腕が悲鳴を上げる頃だと思われる。


「疲れたのでは? 重いでしょう。私だってそこそこ重さはある」


 蒼子は少しだけ恥ずかしそうに言った。


 鳳珠の疲れを気にする蒼子に鳳珠はこう思った。


 確かに、全く重さを感じないと言えば噓になるが、重いかと聞かれれば大したことはない。


 以前は椋と柊と共に荷物を担いで険しい山道を登ったこともあるし、元々体力にも自信がある。


「お前ぐらいなんてことはない。気にするな」


 そう言っても蒼子は年頃の娘のように体重が気になるようで、素直に喜ばない。


「何を恥ずかしがっているんだ? 白燕ならまだしも、そなたなど荷物と変わ…………いっ⁉ 痛い! 止めろ、髪を引っ張るな!」


 急に膨れっ面になった蒼子がむずんっと鳳珠の髪を一房掴んで思いっきり引っ張った。


「誰が荷物だって?」


 蒼子は今までにない低い声で鳳珠を睨みつける。

 どうも、荷物扱いがお気に召さなかったらしい。


「事実だろう。何だ、年頃の娘でもあるまいし……って、痛い、痛い! 止めろ、蒼子! 痛いっ! 抜けたらどうするつもりだ⁉」


「ハゲてしまえ。毟ってくれるわ」


 あまりにも遠慮なく髪を毟ろうとする蒼子に抗議の声を上げる。


 しかしそこには容赦なく鳳珠の髪を毟り、抜こうと強い意志を放つ蒼子がいた。


 柊に助けを請う視線を向けるが、『今のはあなたが悪いですよ』と視線で言われて、助け船はなかった。


 髪は結んだ方がいいかもしれない。

 事あるごとに髪を毟られる恐怖に怯えなければならないのは御免だ。


 こんな小さい手なのに、鳳珠の髪を掴み、引っ張る力はかなり強い。

 幼子だと侮ると本当に持って行かれてしまう気がする。


 守らなければ。己の毛髪を。



「ここが五連玉池の五の池になります。昨日の蛟滝の水路が別れてその一つが池を作り、その池が水害で溢れる度にまた池ができたといわれおります。この池は五番目の池なので五の池といわれております」


 白燕が改めて説明してくれる。


 蒼子が池全体を見渡していると向こう側に家屋が見えた。


「お姉様、あれは?」


 蒼子が池を挟んで向こう側にある家屋を指さす。

 

「あれは歴代の当主達が余暇を過ごした離れです。夏場は特に涼しく、建物からの眺めが良いのです」


「しかし、老朽化が進み、現在は使われておりません。外観はそれほどではないんのですが、中はかなり傷んで危険なので近づかないようお願いします」


 白陽が補足する。


 その後、池の畔を歩きながら白燕と白陽の話に耳を傾けながら、蒼子は池の向こう側にある家屋を見た。


「お姉様、私、あそこの建物に行ってみたいです」


 蒼子が言うと白燕は首を振る。


「あの場所はとても古いので危ないです。私達も近づいてはいけないと言われてますから」


「分かりました」


 その言葉に小さく頷く。


 白燕が蒼子の側を離れると鳳珠がやって来た。


「どうした? あの家屋が気になるのか?」


「少し」


 何かがある気がする。

 何があるかははっきりと分からないがぼんやりとした輪郭がはっきりとしない不明瞭な何を池の向こうに感じる。


「幽霊がいるわけではあるまいな?」


 至極真面目な顔で鳳珠は言う。


 どうもこの男は幽霊などの実態のないものが苦手なようで先日から過剰に反応する。

 その上、昨夜に蛇神が夢に現れたことでより警戒を強めている。


「いないと断言はできない」


 蒼子が言うと鳳珠は蒼子の背後に回り込んでぎゅっと抱きしめてくる。


「苦しい」

「ならば断言しろ。幽霊などいないと言え」


 なんの脅しだ。


 蒼子は大きな溜息をつく。

 そしてそんな二人の姿を羨望の視線を注いでいたのは白燕だ。


「羨ましいわね」


 白燕は隣に立つ弟にだけ聞こえる声で呟く。


「…………本当にやるの?」


 躊躇いながら白陽は言う。

 あの仲睦まじい親子を自分達は引き裂こうとしているのだ。



優しい父に愛される子、子に信頼される父、目の前にいる二人は自分達の理想そのものだった。


胸がギリギリと締め付けられるようで苦しくなる。


「えぇ。でなきゃ、私達が引き離されてしまう。叔父様とも……もう会えなくなってしまうわ」


 それは嫌だと白燕は言う。

 自分だって姉や叔父と離れ離れになるのは嫌だ。


 しかし、自分達のために他人を犠牲にしていいわけがない。

 頭では分かっている。


 だけど…………。


「分かった……やるよ」


 白陽の言葉に白燕は意外そうな顔をする。

 

「僕だって姉さんと離れたくない。僕もやるよ」


 これは決意だ。

 姉ばかりに辛い思いはさせたくない。

 自分もしっかりと汚れて、最後は一緒に地獄に落ちよう。


 互いに無言で伸ばした手は誰にも見られずにひっそりと繋がれた。

 決して切れない姉弟の絆。

 生けるも死ぬも、背負う罪の深さも分かち合う。


「悲願まであともう少し。誰にも邪魔はさせない」


 白陽は繋いでいない自分の左腕に視線落とす。

 服の袖の下には白燕と同じく鱗模様が刻まれている。


 鱗の一枚一枚に憎悪を込め、苦痛と血と涙を滲ませながら肌に刻み落とした。

 


 白陽の言葉に白燕は繋いだ手を強く握り締める。

 そして白陽もその手を強く握り返した。

 


 


 

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