第55話 夜更け
夜が更け、辺りが静寂に包まれる頃にこっそりと旧本家を離れ、現本家へと向かう者の影がある。
白陽は人目に付かないように邸へ戻り、部屋の扉を叩いた。
「入れ」
扉の中から声がすると心臓が嫌な音を立てて響いた。
震える手で扉を開けると、そこにいたのは父の呂鄭だ。
寝台の上で肌を晒し、若い女を下にして興に耽っていた。
女は空虚な目から涙を流し、父の相手をしてた。
自分の娘とさほど変わらない女に欲情する父親に白陽は吐き気が込み上げてくる。
同時に父親の相手を強いられている女に申し訳なさと居たたまれなさで、消えてしまいたい気持ちに駆られる。
「失敗したらしいな」
昼間の件は既に伝わっていた。
「申し訳ありません」
白陽は頭を深く下げる。
昼間、神官の娘である蒼子を攫おうと目論んだ。
しかし、鳳珠が思いの他、強くて失敗してしまった。
警吏に引き渡された男達は解放済みで、鳳珠達に自分達が犯人であることはバレることはないだろうが、警戒は強まっただろう。
「この役立たず。あの娘は高く売れる。既に買い取りても決まっているんだ」
その言葉に驚き、白陽は顔を上げて問う。
「お待ちください。あの子はしばらく離れに閉じ込めておくだけではなかったのですか?」
父親の目的は邪魔な神官を追い出すことだ。
溺愛する娘が人攫いに遭い、町を出たと聞けば呂家の調査どころではなくなる。
そうやって神官を追い出し、娘の蒼子はしばらくしたら解放して王都へ送り届けるという話だったはずだ。
姉からはそう聞かされている。
それが、買い取り手が決まっているとはどういうことだ。
「何を言っている? あんな金の卵を売らぬ馬鹿がどこにいるんだ?」
呂鄭は馬鹿にしたように鼻で笑う。
「あの娘は美しくなるぞ。今でも喉から手が出るほど欲しがる輩はいるが、将来のことを考えれば高級妓楼に売るのが一番だ。最高値がつくに違いない」
そう言って呂鄭は高らかに笑う。
「お前がそのように弱気だから白燕がお前に嘘をついたのだろうな。全く、優しい姉だ」
呂鄭の言葉に白陽は目の前が真っ暗になる。
最も信頼する大切な姉に嘘をつかれたことが深く胸を抉った。
「お前の姉も年頃だからな。競売にかける日を決めねばならん」
「待ってください! 姉さんはまだ十六です。早過ぎます!」
この男は自分の娘を金払いの良い男の元へと嫁がせるために競売にかけるというのだ。
この町では女と子供に人権はない。
特に女は男の所有物で人ではない。
まともな親は子を連れて出て行く。
子供の頃から洗脳され、女を物のように扱う男も、自分に娘が生まれれば目が覚めてこの町の異様さに気付き、出て行く者もいる。
今この町に残っている者達は古くからの錆びついた考え方と思い込みが抜けず、脳を犯されている者ばかりだ。
白陽の目の前にいる男は頭のおかしい男筆頭だ。
男尊女卑という言葉を家訓にし、一族だけでなく町中の女達を掌握している。
この町は大きな檻だ。
男にとっては桃源郷、女にとっては生き地獄。
どうしてそんな場所に自分達は生まれてしまったのだろうか。
「売り時に売らねば値が落ちる。ただでさえ、呪われているなどと噂が広まって花買いが減っているんだ。少し前までは夜だけでなく昼間でも客が来ていたというのに」
そう言って呂鄭は不満を顕わにした。
平気で自分の娘を商品扱いできるこの男にこの上ない怒りが込み上げてくる。
「お前もいい加減にこれを機に姉離れするといい」
心臓の鼓動が一層激しくなる。
バクバクと嫌な音が鼓膜に響くとそれだけで不快感が増した。
「まぁ、お前の働き次第で姉のことは見送ってやってもいい。あの娘は手元に置いていても悪くはない」
「本当ですか?」
自分が言われた通りにすれば姉の結婚を先延ばしにできる。
それなら自分はやるしかない。
「下がれ。それともお前も私に奉仕したいか?」
その言葉にゾクリと背筋が震えた。
嫌な記憶が蘇り、手足が震え、動悸と吐き気を覚える。
「失礼します」
白陽は逃げるように邸を出て旧本家への道を馬で引き返す。
震える手で手綱を握り締め、込み上げてくる動悸と吐き気を堪える。
女と子供に人権はない。
特にあの男の前では誰しもが所有物で道具だ。
反抗したり、拒んだりすれば躾と称して酷い仕打ちを受ける。
人によっては死んだ方がマシだと思えるほど、屈辱的で残酷な仕打ちだ。
それは家族であるはずの白燕と白陽も同じだった。
女である姉は特に酷かった。
それなのに姉は自分を守ろうとする。
俺が弱いせいだ…………。
蒼子の件で嘘を付かれたのも、自分が心を病めないようにするためだ。
姉は自分を犠牲にして白陽の心身を守ろうとしてくれている。
自分が情けなくて仕方がない。
姉に守られているだけで自分は何もできない。
邸についても気持ちが落ち着かなくて無意味に歩き回っていると気付けば五の池まで来ていた。
池に浮かぶ月が水面を撫でる風によって揺れる。
妖し気に浮かぶ月を白陽はぼんやりと見つめながら願った。
蛇神様、どうかあの男を殺して下さい。
俺はどうなっても構いません。姉をこの腐った町から救い出して下さい。
もういっそのこと、この町ごと呪い潰して下さい。
そうすれば、同じような境遇の女達も、未来ある子供達も助かる。
自分達のような辛い思いをする人をこれ以上増やしたくない。
白陽は強く願った。
こんな風に願うのは初めてじゃない。
白陽は嫌なことがあると気付けばいつの間にかこの場所にいる。
どうか、早くあの男を殺して下さい。
もう一度強く、心の底からの望みを願って白陽は双眸を閉じた。
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