第52話 憎悪
ゾクリと背筋が冷え、肌が泡立つ不気味な感覚が鳳珠を支配する。
何も見えない暗闇の中で、誰かに見られているかのような視線、ねっとりと薄気味悪いものが肌に纏わりつく。
地面を這い、足元から頭に向かって這い上がる恐怖に身体がキリキリと締め上げられ、手足が拘束され、肺を押し潰されるような圧迫感と息苦しさに襲われた。
『許さない』
地の底から這い上がって来たかのように低い声が聞こえてくる。
まるで耳鳴りのようにその声は耳元で響き、鳳珠に不快感を与えてくる。
『許さない、許さない』
やめろ、何なんだ、一体。お前は誰だ?
鳳珠は声に問い掛けた。
すると、一瞬だけ耳元で囁き続けていた声が止んだ。
不気味な静けさに違和感を覚えた時だ。
『許さないっ! 許さないっ! 裏切者っ!』
先ほどよりも大きな金切声が頭を打ち付けるような強さで響いた。
そこにあるのは激しい憎悪だ。
『裏切者! 私を裏切り、私を追いやり、人間の娘と結ばれたか‼』
見えない何かは恐ろしい声で鳳珠を怒鳴りつける。
頭の中でガンガンと鐘を鳴らされているかのような不快感に鳳珠は頭を押さえて膝を着く。
身体を締め付けるような圧迫感が一層、強くなり、息苦しさが増した。
『裏切者! ずっと待っていた! 帰らぬそなたをずっと、ずっと信じて待っていた! なのに……!!』
強烈な憎悪の塊に身体が押し潰されそうになった時だ。
「その男から離れろ」
鈴のような声が空間を裂くように響いた。
重く圧し掛かっていた黒い塊が鳳珠から離れ、涼しく、心地の良い空気が身体を取り巻く。
ふと気づくと、そこには一人の女性が偉そうに腕を組んで立っていた。
まるで月の女神の如き美女だ。
黒く艶やかな長い髪、色白で小さな顔は整っていて、目元が冷ややかな印象を与える。
あれは……いつの日か見た死神ではないか?
以前、水の都で悪女に連れ去られた蒼子を助けるために毒を飲み、生死を彷徨った時に現れた女が再び鳳珠の目の前に現れた。
嫌な予感しかしない。
ひょっとして、また自分は生死の境を彷徨うことになるのだろうか。
碌な目に遭わない気がしてならない。
出来ることなら一刻も早く、この悪夢から目覚めたい。
もしくは死神女に退場願う。
しかし、目の前から消えてくれとはどうにも言い難い。
何せ、眼前の死神女は美女を見慣れている鳳珠でも息を飲むほど美しいのだ。
こんな時に限って、自分の身体に染みついた女好きの性質が強く反応するのが情けない。
膝を折って固まる鳳珠の前に歩み寄り、まるで毛虫でも見るかのような顔で見降ろす。
何故、こんな風に嫌そうな顔をされなければならないのか。
『お前か! 小娘! 許さぬぞ!』
謎の声は憎々し気に死神女に敵意を剥き出しにする。
しかし、向けられた憎悪を気にも留めず、死神女は鳳珠に言った。
「手を出す女は選べ。見境がないのにも程がある」
そう言って死神女は鳳珠に侮蔑の視線を向けた。
誤解だ。
そう抗議したい鳳珠だが、声が出ない。
すっと死神女が鳳珠の顔に腕を伸ばす。
真っすぐに白くしなやかな人差し指が鳳珠の額に向けられる。
「さっさと目を覚ませ」
弾いた指が鳳珠の額に当たり、バチンと音を立てた。
すると目の前が明るくなり、眩しい視界に鳳珠は目を瞑った。
白い光に身体が飲み込まれると同時に、自身に纏わりついていた不穏な気配が綺麗に洗い流され、身体が軽くなる。
憎悪の塊のような女の声も気配も遠くなり、鳳珠は助かったと確信した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。