第36話 蕗紀

 柊は駆け足で合流し、次の目的である蛟滝へ行くことになった。


 ここからは少し距離があるので馬車での移動になる。

 馬車を停めていた場所へ戻り、皆を馬車に乗ったことを確認して御者として手綱を持つ。


 白陽が手綱を握ると言ってくれたが、鳳珠と蒼子が乗っている以上、事故でも起こると困る。


 そう言うと、案内をするために隣に座ると言って、白陽は柊の隣に腰を降ろした。

 蛟滝に行った後に旧本家へと向かう。


 旧本家にも行きたいと蒼子は言ったが、呪いに繋がる何かがあるのだろうか。


 何かがあるかもしれないから、足を運ぶ必要があるのだが、あるとしたらそれは一体何なのか。


 柊は自分なりに思考を巡らせてみるが、この手のことについては不勉強で経験もない。


 もっと神殿や神、神力について学ぶ必要がありますね。


 そんなことを考えていると視界の端に何かが飛び込んできて柊は反射的に手綱を引いて馬車を停める。


 急に止まった馬車はガッタンと荒っぽい音を立てた。


「申し訳ありません、皆さん大丈夫ですか⁉」


 優先すべきは鳳珠と蒼子だ。


「大丈夫だ、しかしどうした急に」


 馬車の中にいた三人に怪我がないことを確認して柊は道に飛び出た。

 道には一人の女性が膝を着いて、呆然としていた。


 飛び出して来たのは女性の方だ。


 しかし、相当驚いたようで、呆然としてまま目に涙を溜めている。

 服は土がついていて、手も土で汚れていた。


 柊は先に女性の元へ駆け寄った白陽に続いて女性に声をかけて。


「大丈夫ですか? お怪我は?」


 見た所、大きな怪我はなさそうでほっとする。

 しかしこんな所で座りっぱなしではいけない。


 屈みこんで、手を差し出す。


「立てますか?」


 薄い茶色の髪の、愛らしい女性だ。

 年は白燕と同じぐらいか、少し上に思えた。


「大丈夫ですか?」


 女性を落ち着かせようと柊は精一杯優しい声で言う。


 女性は柊と差し出した手を交互に見つめ、ボロボロと大粒の涙を零し始める。

 そして内心、ぎょっとした。


「大丈夫ですか⁉ どこか怪我を? 白陽殿、この辺りにお医者様は…………」


 勢いよく白陽の方を向いて助けを求める柊の袖を女性がぎゅっと掴む。

 手はガタガタと震えていて、地面が零れ落ちた涙で雨が降ったように濡れている。


「だ、大丈夫です……怪我……はしておりません……」


 女性は声を震わせて、怪我はないと言って俯く。

 そこに鳳珠と蒼子、白燕が様子を窺いに馬車から降りてきた。


「医者は……いりません……ですが、その、あなた様にお願いがございます」

「はい、私にできることであれば」


 意を決したように女性は顔を上げ、真っすぐに柊を見つめた。

 そして口を開く。


「一度で良いのです。どうか、どうか私を抱き締めて下さいませんか⁉」


「はい?」


 女性の発言に自分の耳を疑い、間の抜けた声が出る。


 いきなり抱擁をせがまれた柊は大いに戸惑う。


 鳳珠達も驚いて目を丸くしている。

 こういうことを女性から求められるのは決まって鳳珠だ。


 極まれに自分も女性から好意を向けられることもあるが、出会った直後にこのようなことを頼まれるのは人生初である。


「どうか……どうか、お願いします! お願いします!」


 そして女性は切羽詰まった様子で頭を下げた。


 その様子を白燕と白陽は気の毒そうな目で見ていて、まるで自分がこの女性にこのような道端で謝罪をさせているかのような絵面に見えなくもない。


 だが、しかし……。

 その理由は何だ?


 あったばかりの男にうら若き女性がそんなはしたないことをせがむなんて。


「柊さん」


 どうしたものかと、考えあぐねていると涼し気な声が通る。


「もし、嫌でなければ彼女の希望に応えて欲しい」


 蒼子が女性に向ける眼差しは痛々しいものを見る目だった。

 柊は目の前に頭を深々と下げる女性を見つめる。


 こんなことを初対面の見ず知らずの男に頼むなんてよっぽどの事情があるに違いない。


 そう思うことにした。


「分かりました。私でよろしければ」


 観念したような言い方で失礼かもしれないと思ったが、顔を上げて女性はぱあっと表情を明るくし、柊の手を取ってゆっくりと立ち上がった。


「私は柊と申します。あなたは?」

「柊様……蕗紀です。蕗紀と申します」


 蕗紀は少し恥ずかしそうに一歩、柊に近づく。


「本当に私でよろしいのですか? あちらにも抱擁が出来そうな男性達はおりますが……」


 柊は念のため、鳳珠と白陽を指す。


 鳳珠は自他ともに認める美麗、白陽は柊よりも蕗紀と歳が近そうだ。


「いえ、柊様が良いのです。私に、手を差し伸べて下さったあなたが」


 そっと胸の内に秘めた想いを告げるように蕗紀は言った。

 そんな愛らしいことを言われると柊といえど思うことはある。


「分かりました。では蕗紀殿、こちらへ」


 柊は腕を広げると蕗紀は少し遠慮がちに柊の胸の中にすっぽりと収まる。


「すみません、私その……服が汚れていて……」

「気にしません」


 柊の服が汚れることを心配する蕗紀に柊は優しく声を掛ける。


 華奢な身体ですね……。


 柊は二人の隙間を埋めるようにぎゅっと腕に力を込めた。

 一度は止まった蕗紀の涙が再びほろほろと溢れ出す。


「柊様……蕗紀はこの出会いを忘れません」


 そう言って蕗紀はもう大丈夫だと言うようにゆっくりと身を離し、微笑む。

 涙で濡れた顔は憑き物が落ちたかのように清々しく、幸福そうに見えた。


「娘よ」


 二人は振り向くとすぐ側には鳳珠の腕から離れた蒼子が立っていた。


 蒼子は小さな歩幅で蕗紀に近づくと、蕗紀はさもそれが当然であるかのように身を屈める。


「手を」


 いきなり娘呼ばわりされ、手を出せと言われて困惑しているようだったが、躊躇いながらも手の平を上にして蒼子の前に出す。


 蒼子はその手の平に自分の手を重ね、そっと瞼を閉じる。


「よい」


 そう言って蒼子は手を放した。

 一体、今の行動に何の意味があるのだろうか。


「何だか、心地が良いです」


 とても清々しい気分だと蕗紀は言う。


「まじないだ。そなたの心が救われるように」


 蒼子の言葉に、蕗紀は蒼子と重なっていた手を胸に抱くようにして微笑んだ。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る