第32話 鳳珠の異変

 ゾクッと背筋に悪寒が走った。


 急激に周りの空気が凍えそうなほど冷たくなり、その不穏な雰囲気に蒼子は片眉を吊り上げた。


 何だ? この不気味な雰囲気は。


 目の前にいる鳳珠から視線を逸らし、周囲を警戒する。


 すると蒼子の顎を掴んでいた鳳珠の手が離れた。

 そして先ほどよりも強い力で、蒼子の両肩を掴む。


 鳳珠はブツブツと何かを呟いていて、身体を小刻みに震わせており、その細かな振動が蒼子にも伝わってくる。


 寒いのか?


 急に気温が下がった。

 震えるほど寒いのだろうか。


「逃げなさい」

「は?」


 鳳珠ははっきりと蒼子に言う。


 鳳珠の顔を下から覗き込むとその目には先ほどの鋭い感情はなく、どこか朧げで焦点が合わない。


 蒼子を見つめているのに、どこかずっと遠くを見ているように感じた。


「鳳様?」


「逃げなさい。駄目よ、ここにいては駄目。あいつらは私達から全てを奪ったの。自由はもちろん、人としての尊厳すらも。殺したい、殺したい、殺したい! 死ねばいい! 呪われてしまえ! 私達の憎悪が形になるのよ! 押しつぶされてしまえばいいっ!」


「鳳様⁉」


 明らかに様子が変だ。


 一体、どうした⁉


 蒼子の言葉など耳に入らないようで鳳珠は恨み言を続ける。


「何故私達がこんな目に遭わなくてはいけないのよ⁉ 憎い! 全てが! あいつらが! 全て滅びてしまえばいい!」


 鳳珠の口から溢れてくるのは激しい憎悪と嫌悪だ。


 不穏な言葉が次々と飛び交い、一言一言が重く蒼子の胸にのしかかる。

 その気迫に蒼子は気圧され、言葉が出てこない。


「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い! 逃げなさい。早く、ここから逃げなさい。あなたのような子供、格好の獲物。逃げなさい。掴まれば逃げられない。恥辱と凌辱、死んだ方がマシだと思える地獄の日々。捕まってはいけないわ。お願い、助けて。私達を、助け…………」


 急にガクッと鳳珠の身体から力が抜ける。


「鳳様⁉」


 倒れてくる鳳珠の身体を小さい身体でどうにか受け止めようとして蒼子は尻餅をついた。


「重いっ…………起きて! しっかりしろ!」


 バシバシと小さい手で鳳珠の頭を叩き、覚醒を促す。


「痛い……叩くな……ん? あぁ、すまん…………ん? どうした蒼子?」


「どうしたのかはこっちの台詞。さっきの言葉の意味は何?」


「さっきの? あぁ、あれは生意気なお前を脅かそうとしただけだ。そんな警戒するな。流石の私もつい最近まで乳を飲んでいたような幼子に手を出したりはせ…………痛い、痛い! 何だ、ちょっ、髪を引っ張るな!」


 先ほどの口を塞ぐ云々は脅しだったのかと、内心イラっとする。

 蒼子は苛立ちと一緒に鳳珠の髪を一房握り締めて思いっきり引っ張った。


「その後だ」


「痛い、痛い! 止めろ、引っ張るな! ん? その後?」


 苦痛で顔を歪ませる鳳珠はどうしてこんな目に遭っているのか分からないと言いたげな目でこちらを見る。


「私は他に何か言ったのか? いや…………言ったような、言わなかったような…………でも何を言ったのか…………そう言えば私はどうしてお前に寄りかかっていたんだ?」


 何が何だか分からないと、鳳珠は混乱している。


「覚えていない? 全く? 何も?」


 蒼子は探るように鳳珠の目を覗き込んだ。


「あぁ……何かを言ったような気もするが……」


 鳳珠の瞳は困惑で揺れているものの、先ほどのように朧げではなく、しっかりと蒼子を映していた。 


「私はお前に何を言ったんだ?」


「…………疲れた。明日話す」


 蒼子は未だに困惑したままの鳳珠に言う。


 二人はそのまま建物の中へ戻り、蒼子は寝室の寝台へ横たわる。


「何でついてくるの。早く部屋に戻ればいい」


「お前は目を離したらすぐにいなくなるからな。お前の行動を制限できぬのであれば、こうするより他あるまい」


 そう言って蒼子の隣に寝転び、毛布を被る。

 緩く蒼子の身体に長い腕が絡む。


「寝ろ。朝までもう少しあるからな」


 女性の部屋に、それも勝手に寝台に潜り込むとは何事だ。

 そう説教してやりたいのに、側にある温もりがすぐに眠気を連れてきた。


「椋さんと柊さんに言いつける…………から……」


 こういう振舞いに関しては双子は全面的に蒼子の見方だ。

 明日の朝にでも怒られればいい。


「ここにいる間、私はお前の父だからな。問題はあるまい」


 怒られた時の言い訳もきっちり用意しているという鳳珠に蒼子は呆れた。

 抗議の声を上げたいのに瞼が重くなり、声を出すことすらも億劫になってくる。


「寝ろ。可愛い私の姫よ」


 優しい声で囁く。


すると瞼の上に柔らかい感触が降ってきて、優しい手が頭を撫でた。


 考えなければならないことが沢山あるのに、心地よさが蒼子の思考を妨げる。

 眠気に屈する形で蒼子は意識を手放した。




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