第31話 蒼子と王印

 耳元で囁かれる声は聞き馴染んだ人物のものだ。


 背中越しに心臓が激しく脈打つ音と、しっとりとした温かさを感じ、衣類と髪に染み込んだ酒の匂いが鼻を掠める。


 張り詰めた緊張が空気を支配し、二人の間を風が木々や草花を揺らし、葉が擦れる音を立てて駆け抜けていく。


 足音を立てて歩く男は蒼子達に気付かないまま通り過ぎ、姿が小さくなっていった。


 男の姿が完全に見えなくなった頃、先に緊張を解いたのは蒼子の身動きを封じていた男の方だった。


 蒼子を解放して地面立たせ、身体を向き合うように動かす。

 月の位置が動いて暗かった男に月光を落とす。


 鳳珠だ。


 分かってはいたが、こうして姿を見るとほっとする自分がいる。

 ほっとしたのも束の間で、強い力で肩を掴まれる。


「一体、何をしていた?」


 怒鳴られているわけではないのに強い口調で鳳珠は言った。

 上から顔を覗き込まれれば濡羽色の髪が雨のように降ってくる。

 真っすぐに蒼子を見つめる瞳には苛立ちと怒りが宿っている。

 溢れそうな感情を必死に押しとどめている、そんな様子だ。


「痛い」


 何をそんなに苛立っているのだろうか。


 そんなことをを考えながら蒼子は掴まれた肩が痛いと訴える。


「何をしていたと聞いている」


 蒼子の言葉が聞こえていないのか、鳳珠は繰り返す。


「空気を吸いに外に出て白陽と不審な男の会話に遭遇した」


 蒼子は決して目を逸らそうとしない鳳珠の問いに答える。


「何故、私を起こさない?」


「どうせ遅くまで酒を飲んでいたんだろう? 間違って私の部屋に来る程度には酔っている。それに長旅で疲れているはず。移動中も私の相手をしながらずっと気を張っていた」


 旅の間、鳳珠は常に自分へ気を配り、移動中も途中の宿でもずっと周囲を警戒していた。部屋の外、接する相手、柘榴と椋、柊、それ以外の全てを常に警戒していた。

 それも蒼子の相手をしながらだ。


 気の抜けない長旅をして疲労が蓄積されたところで、酒でとどめを刺されたのだ。


「普通は起こさない」


 蒼子はきっぱりと言う。

 鳳珠は蒼子の言葉が意外だったのか、目を丸くする。


「…………はぁ」


 間をおいて溜息をつき、掴んでいた蒼子の肩を放した。

 バツの悪そうな顔で蒼子を抱き締めた。


 バクバクと大きく脈打つ心臓の音と、微かに上がった息が蒼子の身を案じて駆けつけてくれたことを教えてくれる。


 それを肌で感じ、蒼子は居たたまれない気持ちになる。

 何故にこうまで私に必死になるのだろうかと疑問も生まれる。


 歴代最強と言わしめる自分は少なくともそこらのゴロツキや人攫いなどにむざむざと攫われてやるつもりはないし、他人に好き勝手されてやるつもりもない。


 強い力を持っているという自負がある。

 自分がそういった人間であることをこの男も知っているはずだ。


 それなのに何故に身内でもないこの男が自分に構うのか不可解だった。


 私から自由を奪い、縛り付けた男と同じ血を持つ男のくせに。


 自分とは相容れぬ存在であるこの男は自分の意志とは関係なく拒絶の対象だ。

 それなのに心のどこかではこの男を受け入れようとしている。


 相反する二つの感情に晒されて、蒼子は少しだけおかしくなる。

 しかし、自分の心のどこかの部分が、これ以上は近づくなと警鐘を鳴らすのだ。


 その通りだ、と蒼子は自分を戒める。


「私から離れるなと言っただろう。何故聞かぬ」


 鳳珠は蒼子を腕に閉じ込めたまま、言う。


「頷いた覚えはない」

「お前、その不遜な態度もいい加減にしろ」


 はっきりと言い切る蒼子から鳳珠は身を離し、眉根を寄せて睨みつけた。


「また攫われでもしたらどうするつもりだ。ここは王都ではない。私の権限が及ばぬ地だ。攫われても見つけ出せないことも考えられるのだぞ」


「大人しく攫われてやるつもりはない」


 蒼子の不遜な態度に鳳珠の雰囲気が苛立つ。


「いい加減にしろ、蒼子。人攫いは一人とは限らない。複数人の場合もある。その時、お前に何ができる⁉」


 鳳珠は蒼子の前で初めて声を荒げた。

 まるで言うことを聞かない子供を𠮟りつけるように。


「こんな小さい手足でどう抵抗するつもりだ⁉ 下賤な輩の元に売られたいか⁉ 尊厳と人権をはぎ取られ奴隷以下の扱いを受け、凌辱と恥辱に侵されたいか⁉」


 声を震わせて、強い口調で鳳珠は言う。


 憤りの炎が瞳の奥に揺れているが見て取れる。

 しかし、それよりも強く感じるのが大きな不安と恐怖だ。

 大きな不安と恐怖の感情が鳳珠を突き動かしている。


 蒼子がもしも誰かに攫われ、危険な目に遭うかもしれないことを危惧している。


 本当にお人よしだ。


 この人は優し過ぎる。

 この優しさがいつか仇になる気がしてならない。


 そしてこの人の優しさに自分自身が滅ぼされるかもしれないと蒼子は思った。


 それは困ることだ。


「今のあなたに私の行動を制限することはできない」

「…………何だと?」

「もし私を縛りたければ玉座に着くことだ」


 毅然と言う蒼子に鳳珠は唖然とする。

 そして皮肉そうな笑みを口元に浮かべる。


「お前は私が玉座に座れば、大人しく縛られると?」


 微笑に傲慢さが滲んでいる。

 その傲慢さすらも鳳珠を魅惑的にする糧となっていた。


「この国を知り、民を知り、玉座に座れ。善人も悪人も神も鬼もこの国の民たる者。彼らを知ることが世を知る、国を知るということ。そのために狡く、賢く、冷徹であれ」



 蒼子は冷笑を浮かべて告げる。


「そして王位に就くがいい。そして私を縛ればいい。私から何もかもを奪ったあの男のように」


 蒼子は冷たく、軽蔑の眼差しを鳳珠に向ける。


 鳳珠は驚いたように目を見開いて聞いていたが、どこか楽しそうな笑みを見せる。

 蒼子を見下ろすその瞳に獣が獲物を狙うような獰猛さと弱者を従わせたい支配欲が映っていた。


 楽しい余興を見ている時のように妖しく細められるとより鳳珠の妖艶さが際立つ。


 この妖しさがこの男の本性なのかもしれないと蒼子は思う。


「くっ……ふ、面白い」


 鳳珠が喉の奥から笑い声を漏らし、胸を掻き抱くように笑いを堪えている。

 すると蒼子の身体が強く引かれ、長くしなやかな指が顎にかかり、持ち上げられた。


 口付けでもするのかという距離に鳳珠の顔があり、蒼子は声を失った。


 やはり、あの男と同じ目をしている。


 眼帯をしていない方の左目が真っすぐに蒼子を射抜き、遠い過去を思い起こさせた。


 老若男女を惑わす凄艶な色香が蒼子を惑わそうと絡みつく。


「つくづく生意気な娘だ。私を試そうとするとは。王位に就いた私に縛られることをお望みか、神女よ」


 艶めいた声が蒼子の耳元で甘く響く。


 蒼子は自分には通用しないと毅然とした態度を保ち続けていると鳳珠の妖しげな視線が蒼子の鼻筋を通り唇へと降りてくる。


 目線の運び方、一つとっても凄艶な色気が滲み、蒼子の脈を狂わせる男は言った。


「この生意気な言葉しか出て来ぬ唇、塞いでしまおうか?」


「ふん、子供に手を出す気か? 愚劣だな。帝の器と一瞬でも思った私が間違いだったか」


「どうした? 普段は子ども扱いするなと言うくせに。それに、いずれ私のものになる。そなたより幼くして男の元へ嫁ぐ娘もいるのだから」


 手を出して何が悪い、鳳珠は目で語る。


 政略結婚で幼くして嫁ぐ女子は悲しいことだが存在する。

 不幸なことに愛され、慈しみ、大切にされる者ばかりではない。


「私を慰み者にするつもりか?」


 蒼子は嫌悪と侮蔑の視線を鳳珠に向ける。

 氷のように冷たい声が夜の静寂の中に響く。


 その時だった。

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