第29話 叱責と企み
「この役立たが!」
狭い室内に男の怒鳴り声が響く。
父の怒声に白燕は反射的に頭を下げた。
鳳珠に『ここでいい』と言われ、『体のいい言い訳』を貰い、白燕は広間に戻った。
鳳珠が広間を出た時点で宴は終わり、皆が後始末をしている最中だった。
広間に戻った白燕を見て呂鄭が目を吊り上げて怒鳴るのは想像できていた。
広間にはまだ大勢人がおり、自らの醜態を晒すわけにもいかない父が白燕を連れて空き部屋に入ったのも想像通りだ。
少し狭い部屋には質素な寝台と寝具が揃えられており、寝台の側にある卓には小さな香炉が置いてある。
この邸や呂の人間が父の人となりを知らないわけないのだから、どこで醜態を撒き散らそうが同じことなのだ。
それでも人目に付きにくい部屋にまで連れ込んだのはこの邸に鳳珠達がいるからだろう。
特に従者は酒も飲まずに邸の中を鳳珠の指示に従って行き来しているようで、油断ならない。
父としては叔父から送り込まれた神官一行がまた詐欺師であることに期待し、追い返す気満々だったようだが、本物の神官が現れたことで状況は一変した。
ここにはいない叔父の呂鴈に悪態をつく。
「このままでは面倒なことになりそうだ。全く、呪いなど馬鹿馬鹿しい。そんなもの、この世に存在するものか。何が、蛇神の呪いだ」
蛇神の呪いのせいで呂家には奇形や短命の者が多いと言われている。
しかし、呂鄭はそれを全く信じず、呂鴈は呪いの存在を信じ、呪いを解こうと昔から躍起になっている。
昔から不仲だった二人だが、年々兄弟の溝は深まっているのは明白だった。
「くそ…………お前に手を出さないとなれば、別の娘を送り込むか……」
この男は神官である鳳珠に白燕に手を出させて金を巻き上げ、その上この町から追い出そうとしてるのである。
回りくどいがこの方法は偽物たちを追い出すのには有効な手段であると既に証明されている。
今回もこの方法で邪魔者を追い出すつもりでいた呂鄭には大きな誤算だったようだ。
白燕自身も鳳珠なら自分に手を出すと思っていたので、鳳珠の態度は意外の一言に尽きる。
麗しい容姿に男の色気を滲ませた鳳珠はおそらくかなり奔放であると思っていた。
女達のあしらいも上手く、口も上手い。
昼間に鳳珠と二人っきりになるなり、鳳珠は自分を口説いてきた。
上辺だけの言葉で本気ではないにしろ、口説き方が手慣れているのを見れば、女好きであることはすぐに分かった。
そんな女好きである男が自分に手を出さないはずがないと過信していた。
「姫君がいる限りは難しいかと」
白燕は抑揚のない声で言う。
目に入れても痛くないほど溺愛している蒼子の存在が、鳳珠の行動を制限している。
このことにも驚いた。
皆の前で『嫁がせるつもりはない』と高らかに言ってのける鳳珠の姿に誰もが驚いただろう。
この町では有り得ない。
女の、それも娘の存在が父親を抑制するだなんて。
それだけ鳳珠にとって娘の蒼子の存在は大きく、大切な存在であることが分かる。
それを羨ましいと女達は思っただろう。
自分と同じように。
白燕は女達の心の声が聞えてくるようで苦しくなった。
鳳珠と蒼子の関係は自分達とはあまりにも違い過ぎるのだと痛感した。
「他の娘を送ったところで、同じことかと」
娘を大切にする鳳珠は女よりも娘を選ぶ。
蒼子が鳳珠を求めるのであれば、必ずそれに応える。
幼子は夜は不安になって泣くものだと白燕は理解している。
子供の世話をしたことがある者なら皆知っている。
鳳珠は自分を求めて泣く娘の側をきっと離れないだろう。
どんな女を送り込もうとも、結果は今回と変わらない。
すると卓に向かって移動した呂鄭は香炉を掴んで白燕に向かって投げつけた。
「うっ……!」
硬い香炉が左腕の肘にぶつかり、白燕は呻き声を漏らす。
鈍い痛みが肘から腕全体に駆け抜けるが、顔に出さないように奥歯を噛み締めた。
「黙れ。役立たず」
白燕を冷ややかに見降ろして、呂鄭は言う。
「申し訳ありません」
白燕は顔を伏せたまま謝罪の言葉を口にする。
香炉には火がついておらず、火傷はしなかったことは幸いだった。
床に散らばった香炉の灰を片付けるだけで済む。
床を見つめながら白燕はそんなことを考えていた。
「くそ……このままじゃ…………」
鳳珠達が邪魔でも王からの使者であれば無下にもできないという苛立ちと焦りが父から伝わってくる。
「それに、もうすぐ兄上が返ってくる。全く、王都で大人しくしていればいいものを」
呂鄭は渋面を作り、吐き捨てるように言った。
「そうだ、あの娘を利用しろ」
呂鄭は名案を思い付いたと言わんばかりに嬉々とした表情を浮かべる。
神経を疑いたくなるような計画を聞かされても白燕は驚かなかった。
蒼子に目を付けることは予想できていたからだ。
そもそもこの男は人間ではない。
人としての心はない。
この人でなしは女を道具としか思わない。
それは実の娘である自分も、他人の娘も変わらないのだ。
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