第10話 呂家
柘榴の言葉通り、少ししてから馬車が大きな門を構える邸の前で止まる。
柘榴が門番といくつか言葉を交わし、馬車は再び動き出して門の内側へ進む。
馬車が停まると蒼子は鳳珠に抱き上げられて馬車を降りた。
邸の前には誰もおらず、出迎えがないことに引っ掛かりを覚えた。
「おかしいですね。予定通りの到着ですが」
柊が首を傾げる。
仰々しい出迎えは必要ないが、蒼子達は頼まれてわざわざ長旅をしてここまで来た。
案内役の一人でも出て来て欲しいと思うのは当然だ。
「人を呼んできます」
「私も行きますわ」
柊と柘榴が邸の中に入って行く。
「庭の方に行ってみるか。誰かいるかもしれぬ」
「勝手に動き回るのは如何なものかと」
「我々は頼まれて来てやったんだぞ。出迎えもなく、案内もなく、時間を持て余して庭を散策していたと言っても悪くは言われん」
鳳珠はそう言って蒼子を抱いたまま歩き出す。
「蒼子、見てみろ。池があるぞ」
鳳珠は蒼子が景色を見やすいように抱え直す。
小さい池には美しい鯉が泳いでおり、口をパクパクと動かして餌を強請っていた。
鳳珠は池の側で蒼子を降ろす。
「落ちるなよ」
「落ちない」
ちゃぽちゃぽと水が落ちる音とぴちゃっと水が跳ねる音がする。
「鯉は見たことあるか?」
鳳珠の問いに蒼子は頷く。
「鯉は神殿にもいるから。だけど神殿の池はもっと綺麗。水も」
神殿にある池の水は澄んでいて底が見える。
しかしこの池はそこにある泥が鯉が泳ぎ、水が躍る度に舞い上がり、視界を悪くする。
「それは仕方がないな。神殿の池は特殊な作りだと聞いている。この池が普通だ」
「なるほど」
神殿の池や自然は人工的なものだ。
神官や神女が力を効率良く補えるようにと居心地が良く作られている。
「神殿の森には他に何の生き物がいるのですか?」
椋は好奇心の入った声で蒼子に訊ねる。
椋と柊は蒼子が神女であることを知ってからはずっと敬語で接してくれている。
知り合った当初は小さな妹の面倒を見る兄のような接し方だったが、神女である蒼子を敬ってくれているようだ。
少し寂しい気もするが時折、椋の中の兄が顔を出し、今回の旅でも何かと蒼子の世話を焼いてくれた。
「私も全ては把握していないがそれなりに多い。最近では紅玉が子熊を見たと言っていたな」
「熊ですか⁉」
「おい、神殿はどうなってるんだ。そんな肉食獣を神殿の敷地内に放して大丈夫なのか⁉」
椋に続いて鳳珠が声を上げる。
「問題ない。人が行き来する範囲は結界が施されている」
神女や神官、宮廷三神女ともなれば簡単に神殿から出ることはできない。
神殿の森は自由に外に出ることができない神女神官の心を慰めるために作られた。
より自然を感じられるように植物だけでなく、動物も多く生息しており、自然に近い環境を模倣して作られた。
しかし、神殿の森は本物の自然とは近いようでかなりかけ離れている。
神殿の森は美しい。木々も花々も水も、空気も土も全てにおいて澄んでいて蒼子達に力を与えてくれる。
人の手が入らないありのままの自然はもちろん美しく、自然本来の力も宿っているが、この池の泥のように醜さもある。
美しさも醜さも全て存在するのが自然なのだと改めて実感する。
ん? 何だ?
ふと、誰かに見られているような視線を感じる。
気配がする方は池だ。
そこには鯉しかおらず、人の姿はない。
鯉に混ざって何かがいたような気配がしたけど……気のせいか。
先ほどまで目の前に集まっていた鯉がいつのまにかいなくなっていることに気付き、蒼子は不思議で少しだけ身を乗り出す。
いない……あれだけ沢山いたのに。
そして池の水が異様に気になり出す。
蒼子は身を乗り出して池の水に触れようと手を伸ばした。
……? 動けない?
思いっきり腕を伸ばしても身体が動かず、小さな手は水に届くことはなく宙を掻く。
「おい、落ちるぞ」
少しおかしそうに笑う鳳珠の声がした。
すると池を覗き込む蒼子の腰帯を後ろからしっかり掴んでいた。
そして鳳珠の肩をしっかりと椋が掴んでいる。
どうりで動かないわけだ。
「落ちないから放して。私は子供じゃない」
「大人は池の水に手を突っ込もうとしないものだ」
鳳珠はそう言って蒼子を抱き上げる。
目線が一気に高く引き上げられ、水面が遠ざかって行く。
ちっ。
水に触れたくなるのは水の神力使いの性だ。
子供か大人かは関係ない。
水から得られる情報は多いのだ。
水に触れるのはまたの機会にしようと、蒼子は一旦諦めることにする。
「そろそろ戻るか」
鳳珠の言葉に頷きかけた時だ。
「きゃああぁっ!」
離れた場所からか細い女性の悲鳴が聞こえたのである。
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