幕間・三月二十八日九時ごろより終日 まだ花は咲かず。
千秋ちゃんはお礼と説明の為に後日また参ります、と世話役とともに去っていた。
そして、今日、久しぶりに先輩は来ない。
『最近、甘えすぎたからね。リセットだよ』
そんなことを言って。
気付けば一年もの間、ほぼ毎日、飽きもせず、顔を突き合わせている。それなのに、たまにこうして先輩がいないと、退屈してしまっている。
飼いならされているなあ、と、そう思う。
そして、その後で、湧き上がるのは確かな殺意。
どうして、僕がこんなに苦しまなければならないのか。
正直、もう、顔も見たくないです。声すら聞きたくないのです。二度と連絡してこないでください。
声を聴いてしまえば、顔なんて見てしまえば、僕は彼女の願いを可能な限り、叶えようとするに決まっているのだ。
「何で死なないのかな、あの人」
今、この瞬間は、本当に、そう思っている。
先日、怪物から先輩をかばった瞬間を思い出す。
なんで、かばったのか、なんて思わない。同じ場面に至れば、僕は絶対に彼女をかばうだろう。それはもう仕方がない。彼女をかばわない僕は、もはや僕ではない。
けれど、あの時、一緒に死ねたのなら、それが僕としては一番幸せだったのではないかとも思う。
もう、来ないでください。そう本人に伝えたのなら、たぶん楽になれることなんて百も承知。彼女はおそらくもう二度と僕の元に来ないだろう。
けれど、それを言えるわけがないのだ。
ラットを溺死させる実験がある。その実験において、暗闇の中、希望の一切ないラットはすぐに諦め溺死するのだという。だが、わずかに光がある環境において、ラットは何時間ももがき、力尽きるまで生きて、ようやっと溺死するのだそうだ。今の僕は、このラットとさして変わらないのだろう。助かることはなく、自分から希望を手放すこともできず、ただただ悪戯に苦しむだけなのだ。
最後のひとかけら、ほぼほぼ紛い物の希望。それだけを頼りに、今日も辛うじて息をする。
たぶん、先輩は僕を愛せないんだろう。
ずっと、心のどこかで、そんなことを思ってしまっている。
だから、分からない。とっとと僕を使い潰せば良いのに、いつまでも取っておく。
ダメだダメだと頭を振る。
そうじゃない。
僕は彼女にとって都合の良い存在だ。彼女にとって、最適な愛玩人形のはずだ。僕としても、そうありたいのだ。
だとしたら、何故、僕はこんなにも負の感情にまみれなければならないのか。こんな感情を、どうして持ってしまうのか。
人は、僕を不義理だと言うのだろうか。
愛していない証拠だとでも、言われるのだろうか。
つい先日、知り合った山姥を思い出す。
ねえ、マヤさん。これでも、先輩の為に、と思ってしまうのは僕の弱さですか。
先輩の為に、こんなに苦しんでいるのに。
こんなに苦しい思いをした末に、僕は彼のように割腹自殺を遂げなければならないのだろうか。
そこまで考えて、今日、何度目かも分からない嘔吐をした。
辛い。死にたい、死ねない。出来るだけ優しく殺してほしい。
そう、隕石が良い。映画のように事前に知る必要なんてない。
流星のように突然現れて、僕と世界を砕いて、消えていけばそれでいい。
星に願いを。
「ダメだ。外に出よう」
家にいても病むだけだ。
***
うららかな陽光を憎みながら、町を歩く。
気分が沈んでいる日くらい、天気は崩れて欲しいものだと思う。
散歩がてらに、昨日の収入から届いていた月内支払い期限の払込書やら督促状やらの支払いを済ませておく。結果、財布の中身も心もとない。
気晴らしをしようにも、散歩くらいしか出来ることがないのだから、晴れていてくれないと家にいることにはなるのだが、それでも雨が降ってほしかった。
もともと、割と最低限の暮らしなのだ。
確実な収入が月々五万円。トキコさんからの密約の履行のお礼として。
不確実な収入が月々数万~十数万。ヒロの業務アシスタントの報酬として。
出費、電気水道ガス代、月々およそ三万円。プロパンだからかガス代が高い。
家賃が諸々の理由で、とりあえずかかっていないのが有難い。
通信費、二万円。そちらの方が安いからという理由で先輩名義で三回線契約している。先輩と僕のスマートフォンに、タブレット一台。一緒に暮らし始めたころ『不便だと思うから』と僕の分の型落ちスマートフォンを契約・購入してきた。支払いは最終的に僕なのだけど、すごく嬉しかった。
ここまでが固定費で、つまりこれでトキコさんからの収入がほぼ消える。正確にはぎりぎり足りない。これが意外とつらい。確実な収入で確実な支払いが完了できないというのでは、あまりに生活が安定しない。
そして、残りの食費やら、交遊費やらはヒロからの報酬で賄っている。
つまりは、大抵の月でおおよそ赤字なのである。ヒロが大口の仕事を持ってきた時に大きく黒字をだし、それで食いつないでいる。それでもたぶん、なんだかんだ一年間こんな生活を成立させられているだけ、まだマシなのだろう。
とはいえ、苦しいものは苦しいのだ。
さらに、ここ数日間は千秋ちゃんの諸々が上乗せになっていたわけで、家計への影響が重くない訳がない。おそらくは、千秋ちゃんからも使った以上の金額を頂けるとは思うが、お金が足りないのは今なのだ。あのタイプの人間に金欠への理解があるとは思えない。かといって、せっつくのも気が引ける。
ヒロからの仕事は不定期で次にいつあるかはわからない。今回の仕事は比較的大きかっただけに今月内はもうないかもしれない。
「やんなるねえ」
他にバイトをする、という選択肢がないわけではないのだ。けれど、もろもろの僕の立場を考えれば、雀の涙。もっと言えばローリスク・ハイリターンとうまく行かない可能性のほうが高い。
という訳で、僕はもう一つだけ、ほぼ確実に収入を得る術を持っている。そこまで頻度を上げることは出来ないし、上げるべきではない手段だが。いわば、最終手段というやつだ。
結果、実利と暇つぶしを兼ねて、僕は隣町のとある喫茶店に向かう。
三時間ほど歩いて。
喫茶店の名前は「Die grauen Herren」
青白い顔をした青年がふらつきながら喫茶店から出ていく。
いやいや、ご同輩。少し無理しすぎじゃあ、御座いませんか?
僕は苦笑を漏らしながら、黒光りする入り口を開いた。
ほかに客は誰もいない、小ぎれいで静かな喫茶店だった。
レトロな店内はいくつかの観葉植物以外の装飾も少ない。ただ、唯一、カウンターの隅に置かれている、信号機のミニチュアだけがアクセントとなっている。
僕が入店したタイミングで、その紳士然とした髭のマスターが信号機のミニチュアを黄色点灯から赤点灯へと変更を行っていた。
マスターはこちらへ目配せをして、一つ、ため息を吐いた。
「マスター、久しぶり」
「今日はお客様が多いですな……あなたも私のコーヒーを楽しみにいらっしゃった訳ではございませんでしょう」
あはは、とから笑いを漏らす。
「申し訳ないです。まあ、カフェオレは頂いていきますが」
「『裏』へどうぞ」
隠し扉、と表現するには大げさだが、壁の装飾になじみ、目立たぬように作られている扉を開ける。がらんとした十畳ほどの空間だ。隅に二席だけ用意されたカウンター席。そこに腰を下ろす。
カウンター内部は表と繋がっているのだろう、すぐにマスターが顔を出す。
「いやあ、二か月ぶりだねえ。だいぶ、頑張ったのだけどね。それじゃあ、『ドクター』お願いします」
むすりとしながらマスターはもう一度ため息をつき、手にしていたミニチュアの信号機を黄色へと戻した。
視界の隅では、ミニチュアの信号機の黄色のランプが点滅していた。
僕は右手でカフェオレを飲みながら、左腕から抜かれていく血液を眺める。
通常の採血よりも酷くゆっくりと、一滴、一滴、点滴のような速度で抜かれる。
なによりも抜かれた血液の受け皿は、小さな白いミルクピッチャーだ。
ぽたん、ぽたんと、ゆっくりと血液が器を満たしていく。
その雫を眺めながら最初にお世話になった時を思い出す。
今と同じように血液を抜かれている最中だった。
マスターは語ったのだ。
結局のところ、人間は、命を高く値付けしすぎているのですよ。敵がいないというのも大変ですな。命の精査もできず、人類という種自体がぶくぶくと肥えていく。もはや自身の命の価値のあまりに、立ち上がることすら出来ぬ程に肥えている。命など、所詮、人生のための一つのリソースに過ぎないのです。命が尽きるまでの時間があって、その時間で飯を作り、家を作り、服を作る。現代であるならば金を稼ぎ、稼いだ金で人生を楽しむ。それだけなのに、命の価値を釣りあげすぎてしまった。命が使えないから、時間が使えない。時間が使えないから、金が稼げない。
言い方を変えましょうか。
人類は安全に飼いならされてしまった。安全や安心は薬のようなものなのです。過ぎれば毒にしかならない。
おかげで、私のような荒ぶる神が食いっぱぐれる事がない。
――ええ。神で御座います。正確には神に似た何か、ですが。
ここで私の正体を、やれ、ノーライフキングだの、やれ、タマモノマエだのと偉大な名前を名乗ることが出来たなら粋なのでしょうが、私はただのドジョウでございます。ただ大昔はほとにもぐりこみ、不必要な子を頂戴するという役目に就いておりました。私は同種よりもその作業が上手かったようで、重宝されておりました。そのおかげか気付いた頃には、人語を理解し、人に化け、このように随分と長生きしてしまいまして、今では八百万の末席に半歩ほど、お邪魔しているわけでございます。
さらには人を食ってきた、という来歴もありまして、元来の意味で生贄を頂戴することもできるわけです。その辺の応用で、命そのものの抽出を得意とさせて頂いている訳でございます。私個人の趣味でコーヒーを模した淹れ方をさせていただいておりますが。
こちらを飲めば疲労回復、滋養強壮、果ては美容や精力回復にはそれなりの効果が御座いましょう。しかし、延命となれば、どれだけ意味のあることやら。血の伯爵夫人がいかほどに長生きしたというのでしょう。それでしたら、タバコの一本、酒の一杯でも減らしたほうが、ずっと賢いというものでございますよ。まあ、私が作り出す『これ』も、もっともタバコや酒と変わらぬ、それこそすっぽんの生き血のような嗜好品みたいなもの、と言われれば納得も致しますが。
話がそれました。こうして、二束三文で痩せた人間の命を叩き買い、金をダブつかせた肥えた人間に売りつけるのが私の生業な訳ですが、それでも、私の商品など金銀財宝とさして変わりません。つまりは価値があると人間が思っているから、価値があるだけ。いわゆる、土地ころがしや、投機目的の美術品、古くはチューリップから、新しくは暗号通貨まで、そういったものとなんら変わりないのです。
繰り返しますが、せいぜいが効果てきめんの栄養剤のような物ですので。
さてはて、命の価値をつり上げ過ぎた、という話に戻りましょう。
どこかの国が経済破綻した時に、身の丈に合わぬ社会保障のせいだ、などと報道がございましたが、私にはどうにも基本的人権というもの自体が人間には身の丈に合わぬ権利だと思うのですよ。自由、あるいは安心、安全というのは本来、勝ち取るべき栄誉であって、無尽蔵に与えられるものではないのです。
長生きする人間ほど、税率を上げれば良いのです。所詮、老いた人間など使えぬのですから。病院にかかる人間ほど、負担金を上げれば良いのです。病人など、生かしておいても意味がないのですから。
老いた命を無理やり生き残らせる動物が他におりましょうか。病にかかった命を無理やり生き残らせる動物が他におりましょうか。
個人を尊び、個人の権利を尊び、親を尊び、子を尊び、国や仲間を尊び、人類そのものを尊び、弱者を尊び、強者も尊び、時には犯罪者すら尊ぶ。さらにはさらには、有難いことに神を尊び、獣の命すら尊ぶ。
その余りにも身の丈に過ぎる『愛』
人類は何かを愛しすぎるのですよ。愛するものを守ろうとすればするほど、命の値段は吊り上がっていく。当然でございます。にも関わらず、人間はどうやら愛するということを基本原理にしたくて仕方がないようです。破綻して当然のように見えますが。
もっとも、人類は千差万別すぎるが故、自分以外の何かを愛せずにはいられないのだろう、とは私も思ってはいるのですがね。
まあ、全ては所詮は泥鰌の戯言でございます。
それでも、間違いのないことが一つだけ。命そのものはリソースに過ぎない、ということです。生贄など、神にとってみれば精々、数多くある食事にすぎないのです。人類の信仰にこそ力があり、その信仰の形だから生贄に意味がある。
そこにあるだけの命など無価値です。生まれたての命など、本来、なんの価値もないのです。人類の大多数の思惑で、さも命は素晴らしいもののように語られていますが所詮は生きるためのリソース。喩えるならば貨幣のような物で、そこにあるだけでは、もっとも無価値なものなのです。極めて交換性が高いというだけで、命そのものには意味がない。
だから、決めなさい。君の命の価値を決められるのは本来、君だけなのです。数億円の寄付によって先進医療で救われた子供の命も、数ドルの対人地雷で吹き飛んだ世界の裏の子供の命も、総じて、価値がないのですよ。
悩むようなら、コーヒーを飲みに来ると良いでしょう。サービスとして、コーヒー一杯の代金に値する助言は出来るかと思いますので……。
そんな会話を思い出している間に、僕の血液はミルクピッチャーに十分に溜まっていた。
僕の目の前には砂時計のような形をしたサイフォン型のコーヒーメーカーのような機材がある。本来、砂時計の器の上部に挽いたコーヒー豆、下部に湯を入れ、それを炎で加熱する。そうすると、蒸気圧で湯が上がっていき、コーヒーを抽出する、という仕組みだ。
マスターは僕の採血を止めると、ミルクピッチャーに溜まった血液をコーヒー豆の代わりに砂時計の上方に入れる。本来、固形物を通さないフィルターが砂時計のくびれについているはずなのだが、どういう原理か、液体である血液も零れてこない。
静脈から抜かれたわずかに赤みを帯びた黒い血液は、どこか深く焙煎したコーヒー豆のような色合いに見えなくもない。
「痛みはございませんか?」
採血痕に絆創膏を貼りながらマスターが問う。
「大丈夫。それにしてもマスターって優しいよね」
「何がでしょうか?」
「命を買うってのに、相手の痛みを気にするところとかさ」
「私は命を買い取るのであって、痛みや恐怖を買っている訳では御座いませんので。不必要な感情は物の価値を濁らせます。痛みや恐怖を売りたいのであれば、あなたであれば買い取り手のご紹介は致しますが」
マスターはなんでもない顔でさっくりと怪しげな存在との仲介を申し出る。
けれど、自身を荒ぶる神などとうそぶくこの人外を、悪と断じられるほど、僕に良識はなかったし、マスターの事も、マスターのコーヒーも嫌いになれない。
何より、毎度、人間の常識を嘲りながらも、少々、特殊な状況にある僕を慰めてくれるのが嬉しいのだ。神を名乗るには人間味のある気さくさ、そして人間からはほんの少し外れたやさしさと冷酷さが心地よい。
「やめとくよ。僕は、僕の人生の恐怖で精いっぱいだ」
「それが賢明でしょう」
鮮やかな緑青の液体を砂時計の下部に注ぐと、加熱が始まる。
やがてふつふつと湧き上がる緑青の液体は、蒸気圧で砂時計を逆流し、赤黒い血と混ざる。
すると、どういう訳か毒々しいまでに鮮やかな赤に染まっていく。
過熱をやめると、今度は真っ赤な液体はフィルターを通り、砂時計の下部へ。毒々しさが抜け、砂時計の底にはうっすらとピンク色に発光する液体が溜まるのだ。
あの一滴の末端価格はどのくらいのものなのだろう。僕は売る側の値段しか知らない。
「命の値段、か」
「おや? お相手でも孕ませましたかな?」
「まさか」
「それは残念。腕の良い医者も、助産師も紹介できますのに」
たぶん、このマスターは本気で残念に思っているのだろう。
ただ、それは人間の考えるお節介というのとも、ちょっと違う。
「マスター、気に障ったらごめんね。マスターはもう堕胎はやらないのかい?」
「まあ、少なくとも今の日本ではやりませんな」
「何故?」
「単純な話です。子供が減っておりますので。無責任でも、なんでも、孕んで産めば宜しいのに。せっかく、母体の安全性が確保されてきたのです。もっと気軽に子供を成せばよいのに、と。せっかく半歩とはいえ、せっかく神になったのです。人類にはそれなりに反映していただかなければ」
ほらね。
そんなことをおしゃべりしているうちにマスターは僕の血液から作り出したピンク色の液体を試験管のような細いガラス瓶に綺麗に移し替えると、そのまま小型のワインセラーのような棚に納める。
「流石ですね。随分とお疲れのようですが、それでも十分に濃厚だ。高く値付けてあげられますよ」
ちらりと見えた棚の中には色とりどりの液体が試験管に詰められて並んでいた。そのなかでも、確かに僕の血液は発色が鮮やかであったかもしれない。
マスターは棚の扉を閉めると、信号機のミニチュアを黄色から再び赤色に戻して、『表』のカウンターへと持っていく。
「そういや、その信号機、なんなの?」
「ただの趣味、あるいは虚空へのアフォリズムですよ。普通のお客様は赤。あなたは黄色……あなたの知るところですと千秋さんや、あるいは山姥も青でしょうかね?」
僕は千秋ちゃんの話も山姥の話もしてないんだけどなあ。
僕の周りには人の心を読んだり、記憶を視たりする人が多すぎる。なんて羨ましい。僕にも先輩の気持ちが分かるといいのに。
苦笑しつつも、まるで謎かけのような信号機の意味を考える。
少しだけ、悩んだ。そして、理解する。
赤は血の色。
黄色い血というのは、高頻度に売血を行う人間に対する古い俗称だ。
「これ以上、黄色くならないように頑張るよ」
「ええ、そうなさい。あなたは本来、青くあるべきなのですから。がらんどうになる前に」
「そんな大したものじゃないよ。知ってるでしょ?」
そう答え、僕はカフェオレを飲み干した。
また、三時間歩いて帰るのだ。
この店は居心地が良いから、長居しすぎてしまう。
日が伸びてきているとはいえ、早めに出なければ、真っ暗な道を歩くことになるのだ。
***
一人暮らしには広いおんぼろの2LDK。
徒歩で往復六時間、節約出来たのは千円にも満たないのだと考えると切なくなる。
何をしているのだろう、僕は。
電気をつけるのも面倒くさくて、薄暗いキッチンの脇、段ボールで買いだめしている格安のカップめんを取り出す。
お湯を沸かすのも面倒くさくて、カップ麺に水を張り、そのままレンジへと入れて、温める。五分。
一人になるとマスターに気晴らししてもらった心も、あっという間に陰っていく。
食事がのどを通らない程、思いつめる。という言い回しが嫌いだ。
なんだ、ご飯食べられてるんじゃない。言うほど、悩んでないんだね。そう言われている気がする。
本当に悩んでるんなら、ご飯なんて食べられないし、眠れないんだよ。
死にたいなんて言うなら、なんでご飯食べてるの?
みんな、辛いんだよ。
そんなことを言うやつを、殺して回りたいとすら思う。
相互理解など諦めた。死ぬか、殺すか、だ。
戦争が絶えぬ理由がここにある。
「ああ、もう。滅びればいいのに」
口にすると、少しだけ身が軽くなる気がする。
気怠い体をキッチンのビニール張りの丸椅子に預けた。
ほんのちょっと、手を伸ばせば、キッチン側の電灯の紐があって、最低限、キッチンの方は明るくなるのだけど、それすらも億劫だった。
部屋を眺める。日没直後の濃紺の世界は、色彩の多くを奪い去り、シルエットだけを残している。
ソファーとテーブルを眺める。
先輩がいない。
胃からすっぱいものが込み上がる感覚に、主のいないその空間から目をそらす。
昏い部屋の端に、老爺がいる。
今日はどこか穏やかで、けれど相変わらず寂しそうな顔で、僕を見つめている。
ああ、祓わなきゃなあ。
思いながらも、立ち上がる気力がわかない。
眠い。部屋を暗くしたままだったのが間違いだっただろうか。
レンジから温め完了を知らせる電子音が鳴る。
だるい。
いいや、もう、眠ってしまえ。
ステンレスのキッチンに突っ伏すように、僕は居眠りを始める。
靴の音で目を覚ます。
玄関の向こう、先輩の足音が聞こえる。
「今日、来ないって言ったじゃないか。連絡もないし、もう」
ほんの少し悩んで、電子レンジの中のカップめんは三角コーナーへ。
水でスープを流し去り、換気扇を回す。
きっと彼女は僕に紅茶を望むだろうから。
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