5 三月二十七日七時から同日十四時まで。

 翌朝のことである。

 今日も今日とて、朝食の準備をしている時の話だった。

 違和感を感じる。

 ただ、何が起きているのかはわからない。

 何に対する違和感なのか、いつから違和感を抱えているのか、わからないまま、僕は活動していた。

 その正体に気付いたのは、僕ではなく、先輩だった。

「君、もしかして左目が見えていないのかい?」

「え?」

「こちらに来たまえよ」

 導かれるまま、先輩の方に行くと、右目を手のひらで覆われた。

 先輩の対応を右目で感じると同時に、目の前が何も見えなくなった。

 おかしい。両眼をしっかり開いている感覚があるのに。

「やっぱりだ。左目のピントが在っていないように見えたんだよ。遠くを見ているというべきなのかな」

 先輩の声は珍しく、少し心配そうだった。

 手のひらがどけられたのだろう。

 僕の目の前に現れた先輩の顔は珍しく真剣で、酷くまっすぐな視線にちょっと恥ずかしくなってしまう。

「よろしいですか?」

 そう口を開いたのは、千秋ちゃんだった。目を閉じている。

「少し、説明しにくい状況なのですが、たぶん、私が後輩さんの視界を奪ってしまっているような状況ですね」

 先輩が少し怪訝そうな顔をする。

「他者の視界を得ることに慣れすぎてそちらを優先した結果、ご自身の視界を脳が処理できず垂れ流してしまっているようなものです。マヤさんの行った調整は、後輩さんの眼を私の左目に合わせるもので.したから、近くにいる左目が見えない私に、その後輩さんの視界情報が流れ込んでいるのでしょうね。それにしてもマヤさんがこのあたりの調整をミスるとは思えないのですが、どうも過剰に後輩さんへと負荷がかかっているような……」

 先輩は僕の手を握ると、左側で手をひらひらとふる。おそらくは、左目の前で振っているのだろうが、やはりしっかりと捉えてはいない。

「ふうん」

 その動作とつまらなそうな声色で、おそらくは漏れ出ている僕の視界をキャッチしようとしていて、そしてそれに失敗したであろうことが察せられた。

「先輩。今視えてるのは千秋ちゃんなんですから、千秋ちゃん側を掴まないと視えませんよ。たぶん」

「君はここ数日、時々、本当に面白くないねえ。少し目を閉じたまえよ」

 なんだか酷い罵声を浴びせられた気がする。

 僕はしょんぼりしながら、目を閉じる。

 ちょっと待っていたまえ、そんな言葉が聞こえた後に、先輩がクローゼットをごそごそと漁っている音が聞こえた。

 僕は目を閉じたまま、千秋ちゃんに話しかける。

「なんとなくだけど、僕、千秋ちゃんの周りの人たちに嫌われてるんじゃないかなあ」

「嫌われてはいませんよ」

 自信ありげな断言に少々、驚く。

「そうなの?」

「ええ。正直、嫌われたり、使えないと判断されている場合、私はとっくの間にあなたたちから引き離されていると思いますから。千尋というには浅めですが、様子見を兼ねて谷に突き落とされているのかと。正直、世話役の到着が遅い辺り、何かを見極めようとされている様子があるのですよね。私にもいまいちわからないのですが」

「……どっちにしても酷くない? それ」

「そうかもしれないですね」

 千秋ちゃんがふふと笑う。

 獅子が千尋の谷に突き落とすのは我が子と、我が子の成長を信じているからだ。他人を突き落とすのはただの殺人ではないか。大体、真の親であったとしても、身勝手には違いない。もっとも親からしてみれば、大量生産、大量消費で優秀なのが一匹出てくれば良いくらいの感覚なのだろうが。

「さて、良いかな? さっきから待っているのだけども」

 先輩の少々、不機嫌そうな声が聞こえる。どうやら、僕の正面にいるらしい。

 なにがです? そう答えると、耳と目にぱちんと軽い衝撃があった。

「いた」

 大して痛くなくても反射的にそんな言葉が口から出る。

「目を開けてもいいよ」

 正面にはにたにた笑いの先輩がいる。

 何が変わったのかわからない。

「見てみるといい」

 先輩は姿見を指さしていた。 

 黒地に黄色い薔薇が刺繍されている、妙にお洒落な眼帯が付けられていた。

「これ、絶妙に恥ずかしいんですけど」

「何か視えたときには、決め台詞と共にその眼帯を外すといいよ」

「流石に遠慮しておきます」

「えー、かっこいいところ見せておくれよ。一昨日の夜も筋肉バジュラとか頭悪いこと言ってたじゃないか」

 急に頬が熱くなるのを感じる。焦っている時の行動をいじるのはやめて欲しい。

「私からも、お礼を。ありがとうございます。正直、視界が常に二つある状況。それも、片方は私が制御できないものが常に見せられている状態は心地よいとは言えませんので」

 ああ、そうか。だから、千秋ちゃんは目を閉じていたのか。

「それに、後輩さんの目にもこちらの方が良いでしょう。驚かせるわけではないですが、霊視者は盲目であることも多いので。

 先天的に盲目だったからこそ、霊的存在を視えるようになった方も、目を酷使しすぎた結果、後天的に盲目になった方もおりますが」

「とのことだよ? ほら、感謝を述べてくれてもいいのだよ?」

「はいはい。ありがとうございます……そして、そうですね。大事なことがわかりました」

 そう、僕としても、実はとある確信を得ている。

「明るいうちに話してしまいましょう。日が落ちる前に行動できるように、ね」


「まずはこれを見てください」

 それは僕が昨日からずっと作成していた写真のイグジフ情報をまとめた地図だ。

 今回必要な情報を色分けしてピンをさしている。

「これは昨日からの一連の流れの中で真っ黒な写真が写った場所と時間のピンを、黒色でさしています。新しく追加されている写真もまとめました」

 先輩はそれを見て、一目で気付いたようだった。

「これは、もしかして君を追いかけているのかい?」

「ええ、そう見えます。まあ、二件だけなのでテストケースがあまりに少ないですが。一昨日の夜、ポルターガイストと呼ぶべきでしょうか。あの気味の悪いノックが連打されたタイミング。昨日の夜の、ヒロが筋肉おばけと戦っていたタイミング。この二回だけなので」

 しかし、その二回のタイミングで僕がいた自宅と山道、それぞれに黒い写真のピンが集中していた。

「改めて、ですが。昨日の昼、鉄塔の下で幻視をしたときから、このスマホには僕の視たものが出力されるようになりました。視えていないものも出力はされている訳ですが、これは僕の能力不足なんじゃないかな、と」

「能力不足ねえ」

「ええ。トキコさんにその気になればもっと色々視えるのだ、と叱られまして。それが本当だとすれば、こいつはその気になれば視えるはずのものを並べてくれているわけです」

 だから、何枚も届いている真っ暗闇の画像。それこそが。

「そう考えたときに、僕が見えていないという状態。これは暗闇の幻視。これこそが、千秋ちゃんの眼の在処じゃないか、という仮説です」

 先輩は珍しく真剣な顔で考え事をしている。こういう時の先輩はちょっとあてになるし、凄く格好いい。

『私の推察――感情の機微を察する能力は幽霊相手ぐらいにしか当たらないんだよ。生きている人間は何を考えているかわからなくて怖い』

 本人は自嘲気味に良くそう言っているが、十分素敵な才能じゃないかと思う。

「なるほどねえ。故障したカメラのように送ってくるデータが破損しているのか――いや、保管されているのか。大事に大事に、封印されているのか?」

「ええ、僕もそう思っています」

 先輩と僕の出した結論が一致したことに安心する。

「そして、おそらくは何者かが、彼女の眼球を拾った。そして、その拾ったものは、僕を襲撃している存在と何らかの関係があるのではないかなあ、と」

 続けた僕の言葉には先輩は何も反応を示さなかった。地図を見ながら、考え込んでいる。少しの間を置いたが、何の反応もない。なので、先輩の意見は後で聞こうと、ひとまず僕の考えを離しきってしまうことにする。

「そして、襲撃者の件。彼が襲撃をかけてくる前に、こちらを覗き込んでいましたね? いや、本当に覗き込んでいたかは、ともかく、幽霊にしては実に人間チックでちょっと特徴的だな、と。という訳で、ピックアップしてみたんです。特に心霊写真のようには見えない『盗撮画像』染みた画像を。その場所の一覧は赤のピンで差しています」

 その赤いピンは黒のピンとは違う動きをしているが、やはりこれも二度のオカルティックな出来事との遭遇していた時間と場所に集中している。

「そして、結局、これらは一昨日の夜、このメッセージを受信してしまったのが問題なんだと思うんです」

 それは昨日、先輩に気付かせてもらったメッセージアプリを介して送られてきた一言だった。

 始まりは『あいしてる』

 この五文字から始まる、幾度にもわたって送られてくるあまりにも赤裸々な愛の告白だった。僕自身が通知を切っていたから気付いていなかったのだ。

「たぶん、これは誤送信なんですよ」

「送り先を間違えたメッセージってことかい?」

「ええ、先輩だって経験なくはないでしょう? 送った後に後悔した、とか。本当は送るつもりはなかった文章を、なんとなく作って、そのまま勢いで送ってしまった、とか。このメッセージの持ち主が、生霊なのか、それとも死んでしまっているのか。とかく、オカルティックな存在が、僕にメッセージを送ってきた。これはおそらくは本来、昨日、追われていた女性に贈るはずのメッセージだった。

 そして、このメッセージを見てしまったことによって、僕は狙われている、と考えるべきなのかと」

「うーん。後半はいろいろと稚拙に過ぎるように思えるけれどね」

「ええ、だから仮説です。他にめぼしい手がかりない――というより、手がかりが多すぎて、どこから手を付けていいのやら、という感じなんですよね」

 スマートフォンに送られてきていた写真は百枚を超えている。イグジフ情報で座標を確認できるものに関しても、市内だけで数十か所。さらに一部、近隣都市にも及んでいる。僕らでは確認して歩くのも一苦労だった。

 何か一つでもきっかけが欲しいという状況だ。

「私からも質問なのですが、そのメッセージを消せば良いのではないのでしょうか? 私の眼球探しには繋がってこないかもしれませんが、向こうとしてはメッセージが後輩さんに届いてしまった、という状況がまずいわけで。それを消してしまえば、オカルト現象の発生は落ち着きそうなものですが」

「あー、その。既読マーク、つまり僕らが確認しましたよ、というマークを付けちゃったので。むしろ、その既読がついてしまったからこそ、彼は僕らを襲ってきたのかな、と」

「なるほど? 確かにおとといの夜、私がメッセージを見た瞬間に、心霊現象があったね。そして、メッセージアプリとは別に画像が次々と届き始めた。

 そのメッセージと襲撃者を繋げるのはそこなのだね。もしかして、私は要らないことをしたのかな?」

「気にしないでください。先輩が見つけてくれなかったら、そもそも眼球への手がかりもなかった訳で。

 という訳で、まずは彼を探しに行きたいんですよ。僕はこの人に謝りに行こうと思います! とりあえずの目標はこのあたりです」

 こちらも赤と黒のピンが集中している一点。県庁所在地である隣街。一昨日、行ったマヤさんの美容室とも、そんなに離れていない場所だった。

「謝るって君ねえ。相手が死んでいるのかもしれないのに。まあ、そこに向かうことに対して反対という訳ではないけれどね」

「大丈夫です。あてはありますので」

「珍しくちょっと自信ありげじゃないか」

「まあ、直感みたいなものですよ」

 幽霊というには、昨日、彼の視界を覗いた時に共有した劣情があまりに鮮烈で、瑞々しかった、というのは、まだ見ぬ彼の尊厳の為に黙っておこう。

 きっと、彼はまだ生きている。事故や事件に巻き込まれた死者特有の無念が無く、あの怪物にあったのはあの女子大生への執着だけ。良くも悪くも生霊染みた感覚を得た。

 僕は少しだけ、その彼に同情、あるいは共感していたのだ。正直な気持ちを述べるならば、僕は彼の恋愛を一言応援したい。仮にそれが難しい、恋愛を応援できるような人物ではなかったとしても、せめて人生くらいは応援してあげたい。犯罪に至る前に、落ち着かせてあげたい。どう考えたって彼にとっては酷い失恋なんだから。

 まあ、この気持ちは秘密にしておこう。生霊を飛ばすような粘着気質な人物の恋愛を応援する、なんていうのは女性陣――特に先輩には受けが悪いだろう。

 出来るだけ、他人と関わりたくない、なんて言ってしまう人だから。


 本当の田舎に『心霊スポット』はない。何故なら、観測者である生きた人間がいないからだ。どんなにいわくつきであろうと、どんなに夜人がおらず雰囲気満点で、なおかつ実際に出るとしても『心霊スポット』として有名になることはない。

 裏を返したならば、人が多い場所の隙間のような寂れた場所に、心霊スポットは出来る。あるいは、幽霊が人間の成れの果てであるとするならば、原材料が人間が豊富に供給される場所に近いほど、産地直送の幽霊が届くとも言えるのかもしれない。

 結局、怖いかどうか、認識されるかどうかはともかく、人が多いところほど、霊現象は豊富だ。

 という訳で、僕らは再び県庁所在地の街のとある地域へと向かっていた。

 平たく言うと、そこには僕らを写したような写真と同じような、どこか盗撮じみた写真が撮られたポイントが大量にあった。そこには女子大生が映っているものも含まれており、集中している。さらに、その周辺には真っ黒な写真の撮られた場所も存在していた、という具合である。

「そういえば、千秋ちゃんに一つ聞きたかったんだ。どうして、オカルトはオカルトで在り続けるのだろう? これだけ不思議なことがあるのにも関わらず、秘されているのだろうな、という。それなりに研究しようがありそうじゃないか?」

 僕らしかいない電車の中で、オカルトは何故、表に出ないのか? という会話を交わしていた。

「ヒロに聞いた話を、そのまま伝えるのであれば、オカルトは日本で例えるなら、路地裏に落ちている拳銃だ、と。売ればそれなりに良い金になるかもしれない。撃てば嫌いな奴を数人殺せるかもしれない。使いこなせば、伝説的ヒットマンになるかもしれない。けど、ほとんどの場合、リスクだけがでかくて、普通の人間には使いこなせない。そして、さらに性質の悪いことに、拳銃を拾い上げる大抵の奴は、後先なんて考えずにあほみたいな興味本位で拾うんだって話だった」

「なるほど。拳銃を使いこなす文化が無い以上、ただひたすらに危険物であり、その作成法をわざわざ公に広めるものではない、という主張ですね」

「そんな落ちている拳銃を一般人の手に届く前に拾い上げるのがオカルト屋だってのが彼の信条らしい。正確には彼の兄の信条で、それを継いだといっていたけど」

 僕の言葉を継ぐように、先輩も語り出す。

「トキコさんは、お金の問題だと言っていたね。ヒロの意見に対して、これは消極的な隠匿理由だ。

 結局、オカルトは何もできない。お金にならない。経済を回さなければ、人も幸せにしない。何より均質性が皆無であることから、技術転用も難しい。基本的にありとあらゆる技術がその人の作り上げたワンオフのもの。オカルティストとは時代に置いていかれつつある偏屈職人集団だ、なんてね。

 あるいは、オカルトは、除雪作業に似ている。なんて、語ってもいたね。春になれば溶けて消えるものを、お金をかけて、どうにかしなければならない。人々の生活の為に必要なものだけれど、どうしても生み出しているものは少ない。

 オカルトは金にならない。だから、力にならない。だから、知られない」

「なるほど。それも事実ですね。

 既得権益に坐した生粋のオカルティストである私の家は確かに富んではいます。使える金銭が、豊富であるのは確かです。しかし、一般的な感覚での富裕層であると断言できるかと言えば、どうでしょうか? そう考えると、それも的を射た意見ですね。

 ただ、表に出ない理由、というのは考えたことありませんでした。私からしてみれば大して、隠されているものでも無かったもので。確かに、隠されている、という認識をされる方々がいるのは承知なのですが」

 そう言った後で、千秋ちゃんは少しの間をはさんだ。

 答えを待つ間、車窓から外を眺める。今日も外は晴れていて、日差しで車内はぽかぽかと暖かい。電車の小気味良い振動に思わず眠気が訪れそうになる。それこそ、どこか草原ででも昼寝すると気持ちが良いかもしれない。

「弱者を本当の弱者にしないため、でしょうか」

 そんなことを考えていたものだから、その苛烈な物言いに一瞬、圧倒される。

「例えば、金銭的弱者、肉体的弱者、社会的弱者。弱者、というくくりにおいても様々な弱者が御座います。

 さて、この強弱というくくりの裏にあるのは、自由、あるいは競争といった行為があります。オカルティズムも表に出れば、競争が始まるでしょう。そして、往々にしてありがちなことですが、金銭的・肉体的・社会的弱者はオカルト世界においてもたいがいは弱者であるのです。裏を返せば、一部特権階級、つまり我々のようなものが管理している限り、オカルティズムでのし上がる事を望む人々の期待薄のワンチャンスを摘み取る一方で、その他大勢がこれ以上弱くならずに済むのです。

 事実、心の弱い人間。精神に傷を負った人間。オカルトの標的になりやすいのはそう言った方々です。さらには、人間や、その死体が魔術的用途で使われることもままありますが、そういった目的の人さらいは増加する可能性もありましょう。

 命の値段が今よりもさらに明確につく、と言えるかもしれません。

 例えば漢方には人間を材料にしたものもございます。よりオカルティズムの強い薬品にも当然、人間を材料にしたものはあります。

 さて、人買いも人さらいも殺人も日本では犯罪だから、と地球の裏でか弱き人々を粉末にして、薬剤としたものを輸入する、という社会になるかもしれません。

 もちろん、世の中には鋼の魂に喧嘩を売る拝み屋や、リアルワンマンアーミーを気取って軍隊を相手取るスーパーマンたちもいる。弱者を救うヒーローも世界を変えようとする救世主もいる。

 けれど、そんなのは世界中で百人もいない訳です。オカルトは追い詰められた人間の前に、まるでお釈迦様が垂らした蜘蛛の糸のように現れますが、気付いた時には、その蜘蛛の巣に絡めとられ魑魅魍魎の腹の中におさまるのです。オカルトに救いを求めるような人々の『救い』は往々にしてオカルトにはないのですよ」

 なるほど。これはお姫様だ。あるいは貴族の血という奴だろうか。

 既得権益の正しさを臆さず、何でも無いことのように語る千秋ちゃんは実に堂々としていた。生粋のオカルティストであるプライド、という奴なのだろうか。

「けれど、仮に医療が進んで、いつか本当に死者蘇生が可能となったら、大抵のオカルトはあっさりと表になると思っていますよ。結局、オカルトなんて死にまつわるものがほとんどですので。蘇った人間が自分の残した幽霊を眺めながら『あー、私は最期の瞬間、こんなこと考えてたのかあ』なんてどうでしょうか?」

 だから、この一言が妙に印象的だった。

 血脈を重ねてきた家柄であるだろうに、なんとなく、どこか刹那的だな、とそう思った。


 そんな事を話しながら、辿りついた隣街の中心駅。

 そこからバスでの移動を挟み、向かったのは学生街。駅周囲の中心部の喧騒とは異なり、学生たちが賑わいを見せる遠い郊外の国公立大学を中心とした区画。

 ひとまず、座標の調査をしていこうと、探索を始めて三十分。

 異変があったのは、とある一角を通りかかったときだ。

 僕はなんとなく古めかしい大きな一軒家を眺めていた。管理も絶えて久しい様子が見受けられる庭には、倒木被害が出る前に伐られたであろう木が、伐られたままに朽ちかけている。

 そこは学生たちに猫屋敷と呼ばれていた。住人の老婆が餌を与えている為、野良猫たちが多数、住み着いているという。そんなことをすれば、大抵苦情になるのだろうが、周囲のほとんどが学生用のアパートに改築された区画というのもあり、割と受け入れられている――というよりは、見向きもされていない、というのが正しいだろう。

 この辺りで以前、黄昏のお茶会の心霊探索をした時に知った話だった。

「どうかしたのかい?」

「いや、別にどうということはないのですよ」

 なんとなく、視界が引かれたというだけだ。

 にゃあん。

 ふと、正面に向き直る。

 黒猫がいた。

 こちらに来いとでもいうように、何度も振り返っては鳴くのを繰り返す。

 僕と先輩は顔を見合わせる。

「……行ってみますか?」

「そうだね、行こう」

 楽し気ににたにたと笑う先輩が千秋ちゃんの車いすを押そうとした時だった。

「じゃあ、私は待ってますね」

 千秋ちゃんがそう言った。

「待ってるって……」

「すぐにわかりますよ。いざとなりましたら、マヤさんのお店も近くですし。ほら、猫さんに置いて行かれてしまいます。行ってらっしゃい」

 ふふと笑い、千秋ちゃんに見送られる。

 そうして、僕らは猫を追いかけ、すぐに気づく。

 迷い込んだと。

 何故なら、猫を追いかけ、数歩、心配して振り返った時には、来たはずの道は消えていたからだ。


「いやあ、千秋ちゃんが待ってると言った時に察するべきだったかもねえ」

 僕らは随分と歩かされている。もっとも春の陽気で暖かだったから、別にさほど辛くもない。誰もいない静かな街並み。

 どこまで猫に導かれていたか定かではないが、川のほとり、堤防の上に作られた道を歩いていく。左手側には住宅街、右手側には川が流れ、街路樹には桜が植えられていて、まるで、花のトンネルのようになっていた。

 鮮やかな光景だったがこの町に桜が咲くには、まだ二週間は早い。

「それにしても怪奇現象の最中にしては随分とのどかですね」

「いっそのこと、二人きりでこの町で暮らすかい? 無人のコンビニも何件か見かけたし、しばらくは食事にも困らなそうだよ」

 それはそれで、割と魅力的だな、と思う。

 先輩さえ居てくれれば良い僕としては、どこだろうと問題ないのだ。

「僕はそれでもかまわないですけど。遊びに行く場所も無さそうですし、ホラー映画も見れなさそうですよ。この世界」

 そう、スマートフォンも案の定、圏外だった。もっとも、今、この瞬間がホラーなのかもしれないけれど。

「んー。そうだね、私は図書館があればそれなりに時間が潰せるけど。そのくらいなら、たぶんありそうだね。どうする?」

 先輩は足を止めて、僕の方を向き直ってくる。口元はにやにやと笑っている。

 ずるいなあ、この人は。

 そんな時だった。

 にゃあん。

 いつの間に入れ替わったのだろう。今度は三毛猫がこちらを見ている。妙にご機嫌斜めで、とっととこっちに来いとでも言いたげな顔だった。

「居座るのは禁止、ですって」

「行こうか」

 理由もなく僕らは苦笑を交わして歩きはじめる。

 歩くうちに猫が現れては消えていく。

 桜の木の陰からひょっこり現れ、舞い散る桜の花びらにまぎれてしまい見失う。

 今度は桜の花から沸き立つように次の猫が現れる。

「招き猫、だねえ」

「ですねえ」

 たった今、オカルトによる不思議な現象の真っ最中にありながら、我ながら、随分とのんきなものだとは思う。

 ただ、春の日差しは穏やかで、気温もぽかぽかと暖かい。本当に、許されるなら草原にでも寝転んで、桜の木の下で日向ぼっこでもしたいような晴れた日だ。そこら中にいる猫たちも、不思議と喧嘩することもなく、毛づくろいしたり、昼寝をしたり、それぞれ思い思いの時間を過ごしている。

 貴方の二歩と私の三歩、は初夏の句だったけれど、春の散歩も悪くない。僕らの歩く速度はBMPでどのくらいなのだろう。

 そんなちょっと恥ずかしいことを考えてしまうほどには、幸せ過ぎる気がした。

「注文の多い料理店ですかね。良い感じに油断したところをぱっくり喰われるんです」

 幸せすぎて、つい不穏な言葉が口からこぼれだす。幸福に対する貧乏性なのだ。平穏を過剰供給されている反動のようなものだ。

「そういえば、君、ヤマネコという猫はいないらしいね。雑草という草はない、という話と同じようなものさ。ネコというものを感覚的にざっくりイエネコとヤマネコに分けている。さらにいえば、多くのイエネコは種としてはヨーロッパヤマネコに属するらしい。そう考えるとなるほど。私たちはこの子たちに騙されているのかもしれないねえ」

 珍しく先輩も裏表のない朗らかな微笑みを口元に浮かべている。

「昔から思うのだけど、人間は猫に対して甘い癖に雑なのだよ。犬と並んで人類と一緒にいた動物で、そして現代における愛玩動物の代表例だとは思うけどね。その扱いには、どこか差がある。猫にかかわる妖怪はどこかひょうきんなものが多いと思わないか? 三味線を弾いてみたり、ほっかむりで踊ってみたり。もちろん、中には人を殺すものも多々いるけれどね。たぶん、これは猫が気まぐれで、犬より手なずけるのが難しいからこそ、こういう評価になっているのだろうけれど」

「なるほど。愛犬愛猫という言葉はある。その一方、忠犬とは言うけれど、忠猫とは言わない。そんな感じですかね」

 先輩も犬というより猫みたいなところありますよね、という軽口は言わないでおく。

「そうだね。その代わりというか、愛猫という言葉がありながらも、犬に対する程、愛情を猫に持たない傾向にある気がするね。

 化け猫になるから猫は長く飼ってはいけない。あれも、狩りする能力の落ちた猫を捨てる言いぐさだろう。

 昔、殺鼠剤を猫いらず、と呼んだ事からも猫に期待された能力として害獣退治は存在していたことがわかる。狩りが出来なくなった猫はいらない。だから捨ててしまえ、そんな人間の身勝手だ。

 もちろん、その伝説の裏付けの一つに猫は死ぬ前に自らを隠す、というものがあったんだろう。老いたり、病んだりして体力の下がった猫は外敵から身を隠すために見つかりにくい場所に潜むわけだ。それを猫は死ぬ前に自らの死体を隠す、とした訳だね。そこから、長生きした猫は人間から身を隠して修行して猫又や化け猫になる、なんて言われたりもしたのだろうけれど。いずれにしても人間が猫を捨てる言い訳だろう」

「それは山猫軒で僕ら人間が食べられても何も言えないですね」

「その通りさ」

 先輩は相変わらず楽しそうにしている。

 僕は心の底でほんの少し、ひやっとしていた。猫みたい、なんて軽口を言わなくてよかった。幸せな気分が台無しになるところだった。

 それとも、今日の雰囲気なら、君は私を捨てるのかい、なんて分かりやすく甘く詰ってくれただろうか。

 ぼんやり考えながら道を行く。

 相変わらず、穏やかな春の昼下がりだ。

 僕らを先導する猫が交差点を左に曲がる。住宅街に入る方向だ。

 気分転換に足を止めて、ぐっと伸びをする。空を見上げて深呼吸。少しだけ、頭がすっきりする。

「ああ」

 僕が足を止めているうちに、猫が曲がった交差点まで進んだ先輩はそんな声を上げた。

「いよいよ。形を変えた山猫軒かもねえ」

「何が見えたんです?」

 僕も交差点に向かい歩いていく。そして、思わず、おお、と声を漏らしてしまう。

 道の左右に紅白幕が垂れ下がっている。奥には大きな屋敷が見えていた。

「猫の祭かもね」

 僕らの足は屋敷に向かう。

 そして、そんな軽口は、すぐに叩けなくなった。

 一人の男が死んでいた。


 満開の一本桜が咲き誇る屋敷の庭で、一人の武士が腹を切っていた。がくりとうなだれるように前かがみになっている。

 その後ろに、多種多様な猫が居並び、じっと僕らを眺めている。

 なんだこれは。

 動揺した僕の脇、先輩はずいぶんと落ち着いているようだった。

「ああ、やっぱりそうか。そんな気はしたんだ」

 先輩は、そう呟いた。

 いったい、何が。

「君ね、たぶん、始まりが逆なんだよ。あの『あいしてる』は宛先のミスじゃない。

 オカルティックな操作で、彼が間違えて君に送ったんじゃない。彼が送りたくても送らなかったものを私たちが覗いてしまったんだ。彼は誰にも言わずに墓までもっていったんだ。

 良いかい、愛の言葉なんて、間違った人に送ったところで、そんなに焦ることじゃないんだよ。不倫相手へのラヴレターを妻に送った、とかでも無い限りはね。

 仮に我々の想像が的中していて、あの愛の言葉送り主が、ああも荒ぶるとすれば、愛を口にしてはいけない――誰にも知られてはいけない時だけだ」

 そう先輩が口にした瞬間だった。

 咆哮。

 武士の死体から――いや、武士の死体の腹からだった。

 いつか見た筋肉の怪物が、腹を割り、飛び出し、突っ込んでくる。

 それでも先輩を庇おうと僕の体は勝手に動いた。

 ああ。かばいきれないね、これは。

 そう思った瞬間、怪物は動きを止めていた。

 溶けるように消えていく。

 腹を切っていた侍が、その手にした短刀で怪物を貫いていた。

 ゆるゆると、また、元の場所へと戻り、正座の姿勢を取り、腹へと刃を突き立てた。

 割られた腹からは、再び筋肉の怪物が、顔を出そうとしている。それに対して、武士は苦し気に短刀を突き刺していた。

 庇おうとした、僕の後ろ、先輩は身じろぎもしていなかった。

「昔の国語のテストか何かで出た文章に書かれていたんだけれどね。日本人は心の在処をどこだと考えてきたのだろう。

 まずは頭。冷静になるという意味でつかわれる頭を冷やす。

 次いで心臓や胸。心痛をさす言葉で、胸が痛いと言ったりもする。

 内臓。驚くという意味で肝をつぶすという言葉があるね。

 そして、腹。腹をくくる、腹を決める。覚悟を決めた様子を指す。

 腹の底。そんな心の最奥を指す言葉」

 先輩の言葉に応じるように、武士の腹部の怪物がうごめく。

「きっとこれは彼の心象風景なんだ。本当に切腹した訳ではあるまいよ。

 ただ、彼は自身の下心に完全な勝利をしたはずだった。彼にとっては花道だった。けれど、その決心はほんのわずかに足りなかった。最後の最後に、未練を残した」

「未練?」

「珍しいね。こんなに君が入れ込んでいるのも。これが憑かれているという奴なのかな? 本当に、わからないのかい?」

「わからない。どうして」

「そんなの決まっているだろう、誰かに言いたかったんだ。遺したかったんだ。彼女を愛していたということを」

 認めたくない。

 じゃあ、何故、伝えなかったのだ。

 伝えた後、拒絶されて、こうなったのだと思った。

 伝えることすら、しなかったのか。

 何処からか、猫が一振りの日本刀を引きずってきて、僕の目の前に置いた。僕を見つめ、短く鳴く。

 介錯を、しろというのか。

 確信がある。

 今、ここで僕が彼の首を刎ねれば、きっと彼の死体は見つからない。この場は幻想だ。夢だ。非現実だ。けれど、そういうものなのだ。

 ここはネコたちの終の棲家だ。基本、招かれなければ人には決して入れぬ領域だ。

 何もなかった、で良いというのか。ただただ、消えただけ、で良いというのか。

「これは、仮定だ。これは空想だ。もし、もしだよ」

 先輩は、酷く躊躇して。

「君が愛を語る程、私が苦しむとしたら、君はどうするんだい?」

 僕は刀を手に取った。手が震える。怖いのではなく、悲しかった。

 あんなに。

 あんなにあんなにあんなに好きだったのに。

 嫉妬に狂って、怪物になってしまうほど、好きだったのに。

 無邪気に、永遠を信じていたのに。

 刀を構える。

 背中に、暖かいものを感じた。たぶん、先輩が手を添えてくれているのだと思った。

 覚悟を決めて、刀を振った。

「ごめん」

 その言葉が口をついて出た。

 たぶん、本来の意味とは違ったけれど。

 剣筋もなにもかも滅茶苦茶なはずの僕の刀は、不気味なほどの正確さで彼の首を皮一枚残して刎ねた。垂れて、正座した彼の胸元へと落ちる。

 猫たちがどこからか、真っ白な屏風を引いてきて、彼の亡骸を隠す。

 きっと、もう二度と彼の死体は決して見つかることはないのだろうと、そう思った。

 猫たちが寂し気に鳴き始めた。一匹、また一匹と姿を消し、鳴声だけが妙に反響する。

「先輩」

 背中から抱きつかれる感覚に、僕はそう答えるしかない。

 何も言えずに立ち尽くす。猫の鳴声が輪唱のように響き、無数の紅白幕が空へ伸びて、サーカスのテントのように景色を埋め尽くす。

 視界が白み始める。

「僕は怪物でしょうか?」

 消えかかる意識の中で、先輩に問う。

 先輩から答えはなかった。 


 目を開く。

 猫屋敷の前にいた。

 黒猫がにゃあんともう一度鳴いて、猫屋敷に飛び込んでいった。

 長い溜息を一つ、ついた。

 一瞬にして、あまりに長い白日夢だった。隣を見る。先輩も同じように溜息をついていた。

 なんとなく、手を伸ばす。先輩はためらわずに僕の手を握ってくれた。

 なんとなく、そのまま抱き寄せたくなったけれど、流石にそれは我慢しておいた。

「ん。おかえりなさい、というべきでしょうか? 終わったようですね」

 ふふと笑い、千秋ちゃんが、そう声をかけてきた。

 この子はどこまで視えていたんだろう。きっと、全部だろうか。

「ああ、ああ。ただいま?」

 僕はどこか呆けたまま、そう答えた。

 たぶん、時間にしてせいぜい数十秒だろうか。

 ずいぶん、長いこと夢を視ていたように思ったけれど、本当にわずかな間だったのか。

「ああ。いたいた。今日はネコ屋敷の不思議探索にでも聞きに来たのかしら?」

 軽四に乗ったトキコさんだった。

「不思議探索?」

「あら、気付いていないのお?」

 先輩が、呟くように答えた。

「猫がいない」

「そ。立派な子たちだったんだけどね。おうちも彼らのおかげで随分と長持ちしたし。どうやってか、自分たちで去勢、不妊治療して。噂を聞いて、ここまで捨てに来る阿呆もいたけれど、それも受け入れて。半ば地域猫としての立場も得て。随分と数も増えたけれど、どの猫ちゃんたちもそれなりの往生をして。つい先日、最期の一匹が大往生したのよ」

「一体、どこに?」

「さあ? 知らないわ。たぶん、誰も知らない。だって、住んでいた老婆の名前すら誰も知らないんだから。みんな、自分が何を見ていたのかも分からないのよ」

 少し怖くて、それ以上にもの悲しくて、寂しい気持ちになる。あまりにも当たり前にオカルティックな存在がいたことと、それらがあまりにもあっさりと消えていったことに対して。

 なんだか人間が猫に見捨てられた気持ちになる。最初に捨てたのはそっちだろうと言外に責められている感じすらある。

「はいはい、凹まないの。あなたたちに話も無くはないんだから」

「そういえば、僕たちを見つけたと言ってましたね、何か?」

 返事はすぐにはなかった。

 トキコさんは真っ直ぐに僕らの目を見つめてくる。

 なるほど。

 そう呟いて、くすりと笑う。

「ただ、そう。あなたたちのその様子だと聞かない方が良いかもしれない。

 選択肢を与えてあげる。

 聞きたい? 聞きたくない?」

 僕は先輩の方を見た。先輩は少し何かを考えた後に、一度、頷いた。 

「聞かせて下さい」

「あのね、昨日の女の子。

 あの子、一緒の大学に進学して上京……この地方都市に上京って表現もなんだか、あれだけどねえ。そんな幼馴染の男の子がいたんだって。

 ボディーガード気取りで剣道の上手なスポーツマンの男の子だってさ。兄弟みたいに慕ってて、色んな相談もしてたみたい。それこそ、大学に入って初めてした恋の話も、最近、ストーカーらしき存在に付きまとわれていることも、ね。

 その子、本当にいい子でこの家のおばあちゃんとも仲良くしてて庭の掃除とかも手伝ってたらしいよお。

 そして、その子がここ数か月、行方不明なんだって。

 まあ、だから、彼女に関するストーカー事件はもう大丈夫。あなたたちのおかげでね」

 トキコさんは、微笑んでいる。

 何も言えない。

 繋ぎっぱなしだった先輩の手のひらがぎゅっと僕の手のひらを握りしめてきた。

「後輩君。ここまで来て、ようやっとウエットか、ドライか。立場を選べるのよお? 知りもしないことや知ろうともしないことと、知らないでいることを選ぶことや知ったうえで無視することは大きく異なるからあ。まあ、今回はそれなりに決着付けたみたいだから許してあげるけどねえ」

 先輩の手を振り払いたかった。このままだと、理由もなく抱きしめたい感情が我慢できそうにない。

 先輩の手がより強く握りしめてくるから、僕は何もできなかったけれど。

 何かを言いたい。けれども、何も言えない。

 苦しい。

「あー!」

 突然の千秋ちゃんの大声が僕らは我に返る。

「玄!」

 千秋ちゃんの視線を追う。

 軽四の後部座席にどこか居心地悪そうに身を縮めている二十代後半の男性がいる。

 まごうこともなく、夢の中に出てきたスーツの男だった。

「やっぱりそうよねえ?

 この人、私に見つかって、逃げようとしてたからねえ。無理やり連れてきちゃったあ。この人なりの考えがあるみたいだけど、私的にはあんまりバタバタされると迷惑だからあ。

 この人、私には負い目あるから逃げなかったのお」

 ほわほわと、心底楽しそうにトキコさんは言う。珍しく、本当に楽しそうな声だった。

 そんなトキコさんの声が聞こえているのかいないのか、まともに動かない手足を小さくふるわせながら、千秋ちゃんは大声を上げる。

「何をしていたのですか! 不安だったのですよ!」

「あー……すまん」

「感動の再会ですよ? 早く抱きしめなさい!」

「いや、ほら、人通りがね?」

「大丈夫です! 後ろの二人も、全力でイチャついてるんですから、私たちもイチャつくんです! 車から降りて、ほら! はーやーくー!」

 どこか大人びていた千秋ちゃんが、急に年相応の女の子――ともすれば幼稚園児のように甘えだす。

 そんな千秋ちゃんにあっけにとられながら、先輩が僕に聞いてくる。

「誰?」

 知らない。

 が、該当しそうな人物を僕らは一人しか知らない。

「千秋ちゃんの世話役じゃない? たぶんね」

 

 にゃあん。

 猫のいない猫屋敷。

 鳴き声が聞こえた気がして、振り返る。

 一匹の黒猫が少しの間、こちらを見つめている。

 よく見ると、何かを咥えていた。

 にゃあん。

 何かを口から話すと、もう一声、鳴いて、屋敷へと飛び込んでいく。

 流石に猫の言葉なんてわからない。

 でも、たぶん、ありがとう。で良いのだろう。

 そう思い込むことにした。

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