4 三月二十六日朝、および同日二十二時から翌二十七日二時まで。
ピンチである。
大ピンチなのである。
微妙に先輩の機嫌が悪いのだ。
思い返す。
まず、僕は朝食を作っていたのだ。
「目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちが良いですか?」
「んー……目玉焼き」
まだ少し眠そうな顔の先輩が答えた。これは今朝の主食はお米が良い、という意味だ。
目玉焼きの卵は二個。
みそ汁は少量の豆腐とねぎを刻み、お湯に入れて一煮立ち。最後に簡易みそ汁の素を入れて完成だ。買い置きしてあるチルドの焼き魚をレンジアップした後に、グリルでほんの少し炙る。
最後に一食サイズで凍らせてあるご飯をレンジアップして完成だ。先輩と千秋ちゃんが待っているテーブルに配膳していく。
「納豆要りますか?」
「今日はこれでいいや。ありがと。いただきます」
「いただきます」
千秋ちゃんにはみそ汁の素を入れる前のお湯と、少量の米で重湯もどきを作った。量は本人の希望もあってほんの少しだ。
先輩が自分の食事をしつつ、時折、スプーンで千秋ちゃんの口元に重湯を運ぶ。
ああ。なんと素晴らしい朝なのだろう。
思いながら、重湯の残りをスープ代わりにカロリーバーを食べつつ、僕は洗い物を始めたのだ。
食事を終えると、二人はあれこれと語りながら、僕と先輩のスマートフォンを使い、昨日の心霊写真群を見ながら、いろいろと語り始めたのである。
この辺りまでは先輩の機嫌はいつも通りだったはずなのだ。
その後、僕は洗濯物や簡単な掃除などなど、一通りの家事を済ませた。そして、朝のトレーニングへ。晴れていたので、五キロほど離れた公園まで走り、鉄棒を使って軽い筋トレをしたのちに、帰ってきたのだ。
シャワーを浴びて、汗を流し、さて僕も昨日の続きに参加しようというタイミングだった。
僕のスマートフォンを返してもらおうと、先輩に声をかけたタイミングだった。僕を少しきつめの視線で眺めた後、ふいと視線を外されたのだ。なんとなく面白くなさそうな表情で、スマートフォンを突き返されたのだ。
「え、先輩、何か機嫌悪くありません?」
「そんなことないよ」
なんとなく、拒絶の意志を感じて、それ以上、踏み込むのは避けたのだ。けれども、それ以降も絶妙に冷たくされている気がする。
昨晩も一瞬感じた、つまらない、不満といった感情。加えて、若干の悪意がぶつけられた気がする。
ひたすらに、目が合わない。たまに目が合うと寂し気な顔をしたり、ふいと顔を逸らしたり。
春休みももうわずかなのに、こんな状況になるだなんて。
そして、今は夜である。
何が悪かったのかねえ。
走りながら、僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
だけれど、後方から呻き声が聞こえて、僕は仕事に集中することにする。
さて、追いかけられると怖いものには何があるだろうか。
様々な物語を参考にして例を挙げるならば、ホラーならゾンビや、ピエロ、サメ、サイコパス。アクションなら車や、サイボーグあたりに追いかけられる話が有名だろうか。変わり種だと、先輩と見た小説原作のホラードラマには、ひたすら相撲取りにひたすら追いかけられる話もあった。
そんなことを息を切らしながらも考えている僕は、百鬼夜行の先頭を自身の最高速で走り抜けている最中である。後ろには魑魅魍魎。主に亡霊、たまに妖怪。
正直、こうなると良くわからないものへの怖さ、未知への恐怖はない。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、とはよく言ったもので、それはたとえ幽霊の正体が紛うことなきオカルティックな存在、化け物であったとしても、その来歴や素性を知ってしまえば意外と恐怖も薄れるものだ。まあ、害意をもって迫ってきている以上、まったく怖くないというのも嘘なのだが。
思いながら、真夜中の墓場の脇を全力疾走する。夜は墓場で運動会、は有名なフレーズだが、こうなってしまえば、オカルトの情緒など一切ない。
四辻を曲がる。
目の端で後続を確認する。距離は五メートルほどか。まだ、余裕がある。
若干の下り坂、目の前の道には二本のロープが前後に十メートル程の間を空けて張られている。一本目をハードルの要領で、飛ぶ。飛んだ瞬間に、しくじったと気付く。
下り坂の影響か、目測を誤っている。足りない。だが、同時にいけるとも確信する。
振り上げ足は超えた。抜き足が若干、足首にかかる。もつれて、つんのめり、転びかけかける。
「おい!」
ヒロの叫び声が聞こえる。
幽霊にロープなど関係がない。一気に距離を詰められかけ。
転んだ勢いのままに二本目のロープの下を滑りぬける。
酷く悲しそうな、恨めしそうな顔をした何かと目が合う。
一瞬だけ、同情をしかけて。
「やれ!」
叫ぶ。
シャン、と涼やかな音がした気がした。
僕は肩で息をしながら、突っ伏したまま、首だけで背後を振り返る。
もう何もいなかった。
夜闇がそこにあるだけだった。
体を起こし、地べたに座り込み、手は後ろに。酸欠で、心臓と頭の奥が痛い。
「勘弁してくれよ。よりによって、あそこでコケるのか。ツレがいないからって気を抜いてるのか?」
そんなことを言いながら、ヒロが近づいてくる。ツレ、というのはもちろん、先輩の事である。
昨日、ヒロから依頼された仕事――内容としてはヒロの補佐となる――の為に僕はここにいた。なんでも僕は霊媒体質、つまりは少し憑かれやすい、霊に好かれやすいという体質らしい。さらに言えばゲームでたとえるなら体力は高いが、防御力が低いタイプ。もっとわかりやすく言うと死なずに複数回使えるタイプの炭鉱のカナリア、あるいは繰り返し使えるタイプの生餌らしく、いろいろと非常にわかりやすくて助かる、とのこと。
ちなみにヒロ曰く、こういった霊媒体質自体は決して多くはないが、別に珍しくないらしい。珍しさを比較的わかりやすく例えるならば牡羊座のAB型くらい、とのことだった。ざっくり一パーセントくらい、と捉えているのだろうがどうなのだろう。
そんな僕に対してヒロは、今やってみせたように、霊を祓う、悪魔を退治する、神を鎮める、よくわからない存在を無かったことにする。ひたすらそういった力に特化した血筋だそうだ。けれども、その力のせいでほとんどオカルトを『視る』ことが出来ないのだという。
ヒロがいつか語ってくれた言葉によれば『オカルトってのはこの世界のノイズみたいなものなんだ。少なくとも俺はそう捉えてる。そのノイズキャンセラーが俺たちみたいな連中な訳だけど……うちはその能力を過度に強化した血筋なもんだから、視るべきノイズも消しちまう。だから、殆ど視えない』とのことだった。
そのため、効率的に祓いを行うにあたって、ヒロは対象の可視化というプロセスを踏む必要があるのだという。それは、今、僕のような霊媒体質の人間に憑かせることで対象を視やすくしたり、先日、鉄塔で先輩と僕が行ったように霊視能、幻視能力が優れた存在に観測してもらって、それを中継することで祓う対象を認識していたりするとの話。ちなみに逆の発想でオカルティックな存在を集めて、ヒロが認識できるほどに極端に濃度をあげることもできなくはないそうだが、本人曰く、最終手段だそうだ。
正直、専門的なことは僕は詳しくは分からなかったけれど『霊媒体質でそこそこ運動が得意で、そこそこ割のいい仕事なら多少危険でも良い、という程度にお金に困っていて、オカルトから逃げ回ることの出来る、ある程度信頼できる知り合い』という存在であった為に、彼の相棒として抜擢された。
そうして、僕はたった今、生餌としての役割を果たしたところ、というわけである。
「お疲れ様ー。二人ともありがとうねぇ」
「ええ、ひとまず、一か所目。完了しましたよ。トキコ巡査」
このヒロがトキコ巡査と呼んだ女性ーー夏野朱鷺子が今回の仕事の依頼主である。
どこかふわふわしたような、緊張感のない声。年齢不詳の美人。どこかまだ十代でも通りそうな、けれど、なぜか三十代と言われても納得してしまう雰囲気がある女性。たぶん、その印象は場所も時も関係なく、常にかけている濃い色の大きなサングラスも関係しているのだと思う。
生活安全課庶務係所属巡査部長。ただし同係に配属は全一名の為、部下はなし。僕らはこの人をトキコさんと呼んでいる。
他ならぬ、先輩と僕が心霊スポットで大騒ぎをした際に、面倒を見てくれた人で、それ以来、良くしてもらっているのである。ヒロと僕も彼女を介して出会ったのだ。
ここからが非常に重要なところで、トキコさんはヒロの義姉で、想い人で、全てだ。ヒロから箝口令を敷かれているため、それを僕が口にすることは決してないけれど。ちなみにヒロの兄は既に亡くなっているということなので、つまりは未亡人というものに該当する。
「はいはい。お疲れ様ですぅ」
そう言いながら、タブレットに何か記録を残している。
「今月、本当に多くてねー。幸い君たちのおかげで助かってるけど」
「助かってるってなら、給料をあげてくれよ」
「それなら自分でやるよぉ。安く動いてくれてて、そこそこ信頼してるから、二人に回してるんじゃない。今日の仕事だって、お払いと定義して、寺社に依頼すれば、この規模だと数十万円くらいかな? 効果も薄いし。かといって、フリーの霊能力者やら心霊屋やらに依頼すれば、その三倍下手すりゃ十倍は持ってかれる上に、警察の帳面に残すのはちょびっとねえ。
実際、私の業務の半分くらいはプール金……ま、裏金つくりの帳簿操作なのだけど、裏金ってだけで必要以上に一般市民の皆様には怒られるし。そもそも裏金って言っても、もともと捜査費用や備品の費用として計上されているものなのよ? それを頑張って、節約して、工夫して、裏金にして帳簿に残さなくて良い自由に使えるお金にしているだけなのよお? 例えば、その用途はイリーガルな方々や、君たちみたいなフリーランスへの霊能力者への協力金の支払いだったり、本当に捜査に必要な帳面に残せないようなお店での接待であったりする訳だけど、別に完全なる無駄使いって訳でもないんだよねえ。
裏金っていうと私腹を肥やしたり、不要な接待で豪遊するイメージばっかり先行しているけれど、そもそも、予算の使い方に文句付けてくる人間がいなければ裏金なんてほとんどなくなるんだから」
まあ、裏金になってしまったからこそ、雑に使う警察官も多いけどねえ、なんて言いながらトキコさんは入力の手を止めて、墓場を眺める。
「ここだってさ、本来、共同墓地な訳だから、墓地管理委員会がちょーっとお金だしてくれればここまで荒れないんだけど。それも機能してるんだか、してないんだか。通路の草刈りだって春と盆前に市役所が市道の脇の草刈りとセットで数回行って終わり。名目としては、あくまでも業者がサービスで行ってくれているだけ、という形なのよねえ。代わりにその業者には、町から他の坪単価高めの草刈り業務が回されていたりするわけで。
三年前に、そっちの斜面が崩れた時も誰が金出すんだって揉めに揉めて、それも、結局、市役所の管轄で処理したんだったかな? そら、そんだけ管理されていなければ、変なものも湧くわよねえ。ちゃんと街で管理しろなんて苦情もあるけど、そもそも街の所有物でもないし、警察の管轄でもない。そもそも、管理ってお金がかかるものなのよねえ。管理しろと言われて、お金を出せば、今度はそれは税金の不正使用だ、税金の使用における公平性がどうのと騒ぎだす人間が出る。
だから、裏金で処理するしかないと。
この手の作業を市役所がやってる街もあるらしいけど、この街は私がいるもんだから全部、警察に回ってくるのよねえ」
トキコさんの言葉に促されるようにして、僕も墓場を眺めた。
人気のない山の斜面の一部に作られた、小さな荒れた共同墓地だった。周囲に数か所、似たような墓地が点在し、僕はつい先ほど、その数か所を巡回するように駆け抜けたわけだけれど、おそらくここが一番荒れていた。
傾いた墓石たちの中はいつから手入れがされていないのかも分からない、酷く苔むしたものもある。土に還りかけている卒塔婆は最早、文字が滲んで見えなくなっている。転がるのはカップ麺の器や、ボロボロのプラスチックのトレー、乾きもののおつまみのパッケージが散乱している。ワンカップの空き瓶はもしかしたら、お供え物だったのかもしれない。けれど、高アルコール酎ハイの空き缶も一緒に雑に捨てられていることを考えれば、十中八九そうではないのだろう。
よく見れば墓地の中で一か所、比較的最近、地面が一度、掘り返されて戻されたような場所があった。砕石交じりの土で均されているそこでバーベキューでもした人間がいたのだろうか。酒盛りのゴミはそこに集中し、椅子にされたか、テーブルにされたか、倒れた墓石が引きずられて運ばれた様子もあった。
「そこだけ、なんだか妙に平らだな? 改葬でもあったのかね?」
ヒロの問いにトキコさんが答える。
「たぶん、そうじゃないかなあ。あるいは、お墓自体を潰す……墓じまいしちゃったか。たぶん、ほぼ最後のちゃんとした参拝者のあるお墓だったんだろうね」
「こういうときって、どうなるんだ?」
「さあ? 一応ね、行政手続きをして、ここは無縁仏ですかーって確認を取って。一年間、誰も出てこなきゃ役所で潰せるらしいんだけど。前回の斜面が崩れて縁者探しが行われたときに、似たような話が出たの。本当に縁者なのかも定かじゃない人たちが『町が治すか、それじゃなきゃ改葬費用を出せ』なんて話にもなったらしいから。しばらくはそのままじゃないかしら『宗教観もあるデリケートな問題だから』なんて魔法の言葉が使えるしね。そんな風に皆が納得する形を探した結果、誰もが納得しない裏金という形で税金が君たちや他の胡散臭い連中に垂れ流しになる、と」
「それは……」
なんだか、流石に死者たちが可哀そうになってしまって、思わず言葉が漏れた。
一体、ここは何なのだろう。何のために存在している空間なのか。まるで地上げ屋や占有屋のようなやり取りではないか。その結果、荒れ果てたまま放置されている。
さらには、その恩恵で金銭を得ているということに、少しの嫌悪感を覚える。
ふふ、とトキコさんが笑った。
「後輩君は真面目で優しいねえ。お墓なんてね。所詮は、生きている人の為に建てるんだよ。どういう意味で生きている人の為なのか、という意味で、今と昔では理由も変わってきたかもしれないけれどねえ。所詮、死人に口なし、よ」
「ドライですね」
「方向性の違いだよぉ。あるいは見えてるもの、見ようとしているものの違いかなあ? 後輩君だって、私から見たら随分、ドライな人間に見えるけれど?」
どこかおっとりとした口調で、トキコさんは時々、きついことを言う。というより、傍から見ている限り、この人の本質はこのシビアでリアリストな考え方なのだと思う。口調通り、性格自体は、おっとりしているところもあるようだけれど。
まあ、それにしたって、僕をドライと表現するのか。僕自身としては自分を先輩への愛なんてウェットな感情に振り回され続けている存在だと思っている。クールでドライな大人の男だったら、どんなに楽だったのか。
「誉め言葉だと思っておきますよ。僕はカッコつけたいので」
なんとなく答えに窮して少しだけ、茶化してみる。
「ふうん」
意味ありげにトキコさんはそう言うと、僕を眺めてくる。サングラスで視線が見えないからこそ、わずかな不快感を覚える。
「なんですか? 一体」
「いやあ、健気だなあと思って。そういう意味ではウェットなのかもね」
この人のこういうところが実は少し苦手だった。
何かをごまかされているのは分かるし、そのごまかし方にもどこか嫌味じみたものを感じる。悪意や敵意を持たれているわけではないと思うのだが、かといって好かれてはいない。
おそらくは『理由はないが好きになれない』という奴なのだろう。
別に必要以上に好きになる必要もない。無理に仲違いする必要もない。彼女は僕をうまく使い、僕は仕事を斡旋してもらう。
それに、なによりヒロの大切な人だったし、数少ない相談できる年上ということで、敬意や信頼も持っている。だから、本当に僕がどうも苦手だ、というだけの話だ。
「しかし、珍しいわね。彼女を連れてこないなんて」
「連れてきてるわけじゃないですよ。いつも、勝手についてきてただけです。で、今日はついてこなかった、ってだけです」
「そ……しかし、眼球、ねえ」
トキコさんは相変わらず、僕を眺めながら、そう切り出した。ここに来るまでの雑談として、ここ数日の出来事の詳細を僕は二人に話していた。
「さすがに落とし物で眼球が届いていたら、署内でも話題になるし。情報は何も提供してあげられないかなあ」
落とし物で届ける人間はそうそういないだろうと思う。この人のこういう発言はどこまで本気かわからないのがどこか恐ろしい。
「眼球が落ちてたら、落とし物じゃなくて事件だろう?」
「えー、でも他県の事例で人間の手が落とし物として届いて、そのまま落とし物として処理したことあったのよお。人間じゃなくて猿の手ってことにしたらしいんだけどお。実際、件のお姫様の眼球であれば、ちょっとした資産価値くらいはつくんじゃないかしらあ。分かる人間には分かる骨董品みたいなものでえ」
「ろくでもねえなあ……」
全面的にヒロに同意する。しかし、この程度、図太くなくてはオカルト担当などやっていけないのかもしれない。
例えば、オカルト実体験の中には、誰のものかわからない死体が現れて、消えた、なんてものもある。こんなものを警察が正式に対応しなきゃならないと考えると、想像するだけで気が滅入る。そう考えると、オカルトがらみはある程度、大雑把に処理するしかないのかもしれない、とも思いはするのだが。
「眼というと、百目鬼、一つ目小僧、天目一箇神、あたりかなあ。有名どころは。ああ、目目連の類は私、対処したことあったかなあ。案の定、覗いちゃいけないところに出るのよねえ。あの手のは。面白いのは、性別によって出現の仕方が全く違うのよ。女子トイレや更衣室のは、壁に穴が空いてて、その奥から中年男が覗いてたって確信を持って言うんだよ。それで、現場を見てみると穴なんて空いてない、そもそも目しか見えなかったのに何故中年の男だと分かったのか、みたいな心霊話。大して男子トイレや更衣室は定番の『上から不気味な女に覗かれた』あるいは『下の隙間から不気味な女が覗いてた』なんだよねえ」
「たいていのオカルトなんて、こっちの心持ちで表出の仕方がかわるからな。覗きってのがどれだけ日常の恐怖として存在するかどうかの違いだろう。男にとっては、覗かれるってことだけじゃ気持ち悪いだけで、恐怖に直結しにくいんだろう。だから『不気味な長髪な女』が恐怖を構成する主たる要素として必要なんだ。トイレや更衣室という環境も逃げられないというシチュエーション以上の意味を持たない。対して、女にとっては覗きという恐怖が最初にあって、それを補足するように不気味なエピソードが付随する、と」
ヒロはまるでガソリンスタンドの手慣れた店員が長いホースでも片づけるかの如く、くるくると紙垂のついた細めのしめ縄を肩と腕とで巻き取りながら、喋る。
「ああ、あと、俺、バックベアードならあったことあったかもな。それっぽいもの、だけど。俺でも見えるくらい強烈な奴だった」
バックベアード。日本で一番と言ってもいいほど有名な創作妖怪。
ウェブで見かけた画像を思い浮かべる。
丸い球体に眼球がついたお化けのような奴だ。それを見越したようにヒロは続けた。
「あれ、球体じゃなかった。絵の表現としては球体になるのかもしれないけれど。空間を割って、こちらを覗いてるんだよ。で、距離が酷く遠い場所にあるからどこから見てもこちらを見ているように見える。星と一緒だ。西洋妖怪の大将ってのも頷ける。常に俺たちを見ている何か。常に俺たちを監視し、見守る何か。ありゃ、日本なら神様の一柱か、その片鱗だ」
「そんなに遠くにいたの?」
「いや、目の前で見た。目の前にあるのに遠いもの。オカルトだからそういうものもあるさ」
トキコさんは酷く難しい顔をしている。
「それ、どうしたのお? その話、私、知らないけれど」
「ぶっ殺した。殺しきれたかは知らないけど」
ため息が一つ。
「ヒロ君。一応、あなた、腐っても神職なんだから神様に喧嘩売らないの。寿命縮むわよお?」
「困ってる人がいて、俺に仕事が回ってきた。だから、やっただけだ」
たぶん、嘘だ。きっと、狩りたかっただけだ。それを口にすることはヒロとの盟約に反するから、何も言わないけど。
ヒロは巻き取ったしめ縄を、トキコさんの軽四ワゴンに積み込む。その様子に、トキコさんはやれやれという感じで首を振る。
「ヒロ君も分かっているだろうけど、くれぐれも気を付けてねえ」
最後の最後、僕にだけ一瞬視線を飛ばして、トキコさんはそういった。
イエスマム。しっかりヒロの無茶には付き合います。
心の中で敬礼する。
「さ、次行くわよ。二人とも乗って」
僕らは軽四に乗り込んだ。
一年前はきちんとオカルトを楽しんでいた僕が、どうしてこんなにオカルトの恐怖に対して、妙に不感症になってしまったのか。それは勿論、先輩と幽霊やお化けやその他もろもろのオカルティックな現象に触れ続けたから、慣れてしまった、飽きてしまったというのもある。だが、それらはあくまで一端に過ぎず、微々たる影響しか与えていない。
この義姉弟に出会ってしまったことこそが一番の理由だ。
戦闘狂の心霊屋と裏稼業染みたの公務員。
本当に主人公みたいな人たちだと心底思う。
オカルトの深淵、その浅瀬でぱちゃぱちゃと水遊びをしていた先輩と僕。
千秋ちゃんは生粋。オカルトの深淵に棲む姫。
ならば、この義姉弟は職人、あるいはオカルト世界の探検者とでも喩えるべきだろうか。生業としてオカルト世界を生きる者だ。
先輩と僕が引き起こすオカルトの浅瀬での厄介ごとにヒロを巻き込んでいる訳だけれど、その一方で、僕はこの二人によってオカルトの深淵の端っこを覗くはめになった訳である。
さて、その片割れであるヒロと僕は盟約を結んでいる訳だけれども、もう一人であるトキコさんと僕の間には密約を結んでいた。
出会ったばかりの頃の話だ。
『ヒロ君ね、あの子、無理しがちなんだよ。なんだか、背伸びして、無茶なことしてて。出来ればあの子と一緒にいてあげて欲しいな。君の体質なら、引き時がわかりやすくなるはずだから』
要約すると『ヒロより先に死ね』となる依頼を僕は快諾した。それなりの金銭と引き換えに。
トキコさんがそんな密約を僕に持ち込んだ理由が、ヒロの狩りだった。
ヒロの兄は神殺しとまで呼ばれる退魔や除霊の達人だったのだという。さらには、もともと、オカルト一本だったヒロの家系において、退魔や除霊だけではなく、旧帝大卒でアマチュアボクシングでもそれなりの成績を残した偉大な存在。
その兄を超えるために、ヒロは狩りに出かける。
依頼の有無に関わらず、倒すべき存在を探して。
そうこうしながら三か所ほどの除霊の手伝いを行い、帰路の軽四の中の話だ。
田舎の山の悪路を行く車に揺られながら、それにしても、と僕は口を開く。
「なんかここ一年で最大級に多い?」
こういった除霊の手伝いは初めてではなかった。それにしても、一回一回の数量が多い、何より一晩で三か所というのはなかなかだった。
「ちょっとした理由で墓荒らしが増えてんだよ」
「墓荒らし?」
「……ここら辺には、もともと古墳が大量あったんだ。今も旧跡として残っているものは僅かだけどな。昭和の末期に編纂された市史を見る限り、明治ごろの道路改修と、戦後の土地改良工事で潰されたらしい。市史に書かれていたのは『石棺や木棺が出たと資料には記載されている』程度だった。事実、発掘されたものもほとんど玄ぞしていない。おそらくは時代もあるし、歴史上さして重要でもないということで、きちんとした調査も行われなかったんだろうな」
「ついでにいうと、明治の初期まで即身仏になろうとするお坊さんも多かったような土地柄でねえ。その気になって探せば、今でも出てくるんじゃないかな。明治の頃、墳墓発掘禁止令が出た前後で、掘り起こされた記録のない即身仏も多いらしいから」
「そういうのって、探さないんですか?」
「十年くらい前に近所の大学の協力の上で、明治ごろの記録が残っているお寺が掘り起こした事例はあったわね。比較的質のいいミイラが出てきたみたいで、そのお寺が祀ってはいるけど。まあ、正直、即身仏が出てきたところで、なかなかお金にしづらいしねえ。そりゃあ、ちょっと珍しいものだから、少しは人を集められるかもだけど。客寄せパンダのようには扱えないし、そもそもパンダほど可愛いものではないよねえ」
「また、お金ですか」
「そ、お金だよぉ。真田の六文銭や、羅生門の老婆ではないけれどね。死ぬのもただじゃないのよ。生きるのに金はかかるし、死ぬのすら金がかかるの。それでも一時期より安くなった気がするけどねぇ」
「仏さんたちにとっても、飯のタネにされるよりは、土中で平和を祈ってる方が幸せだろ。さらに言えばこのあたりには霊山も、神山もあれば、古い信仰もぼちぼち残っている。平たく言えば、オカルト的にそこそこ上質な素材がゴロゴロ転がってる土地なんだ。それこそ、上手くミイラ化できた即身仏を掘り起こせたら、そこそこ優秀なオカルティックな道具にもなる。
で、お前んとこに転がり込んでるお姫様が絡んでる一件で、いろいろと活性化してるんだろうな。墓泥棒も、墓の主たちも。
公共工事で掘り起こせば工事を止める厄介者として扱われ、博物館や寺社で好奇の視線に晒され、ならず者たちにはその亡骸までも貪られ――死ぬときは何も残すべきじゃないな。灰すら残さず蒸発するくらいでちょうどいい」
最後は妙に芝居がかっていてなにかのセリフを読みあげるように、ヒロは語った。
「なんだい、それ?」
「兄貴の口癖」
そんな話をしている最中だった。
ぽーん。
スマートフォンが鳴った気がして、確認する。通知はない。
左目が、熱を持つ。
「あ」
口から意味のない言葉が漏れた。ヒロが怪訝そうな顔をして、こちらを向いている。
そんな風景がかすんで、左目に意識が引き込まれる。
山中。
少女が走っている。
僕はそれを追いかけている。
殺意。郷愁。悪意。寂寥。
それは僕のものだ。
僕の一番大切なものだ。
僕が僕であるために必要なものだ。
逃げるくらいなら殺してしまえ。
奪われるくらいなら奪いつくして。
僕の。僕の。僕の。僕を。僕の。僕を。
僕を。
僕を見て。
僕を愛して。
僕だけを愛して。
だって僕がずっと一緒にいたんだ。
僕は、君の為に。僕は君だけの為に。
どうして。
「ああ、もう」
痛々しい感情が伝わってくる。
「あらあ? もしかして、視えちゃってるのお? 少し感度上がった? でも、見えているのはどれなのかしらね?」
クスクスとトキコさんは笑っている。
僕はこの人のこういうところが苦手なのだ。
千里眼、魔眼、邪眼。そういった類の能力。本来、見えぬはずのものを視る霊視者。
それが、オカルト世界におけるトキコさんの立ち位置だった。
ヒロと同じような力を持っていたヒロの兄がオカルト殺しにおける超火力であるならば、トキコさんはその観測者だったのだ。
トキコさんが僕の右目をサングラスの奥から射貫くように見つめている。
「だから、いつも言ってるじゃない。君はドライだって。君は、その気になれば、このくらい視えるのよお? 君が視ようとしていないから、視えないだけで」
相変わらず、くすくすと笑っている。
昨晩の先輩のにたにた笑いを思い出す。ヒロとの一年くらいの付き合いで、一つ思ったことがある。僕がたぶん、ヒロとの盟約に全幅の信頼をおいているのは、想いを寄せる相手がなんとなく似ているからだろう。先輩が成長して人間としてのスペックと悪辣さに磨きをかけたらこの人のようになるのじゃないだろうか。
さておき。
「ヒロ、女性が追われてる。たぶん、この近くだ。なんだろう、道じゃない。森の中を走ってる」
「おい、見せろ」
左手首をつかまれる。
間は一瞬。
「義姉さん、降ろしてくれ。俺たちがやる」
ヒロの決断は早かった。
「そうね、俺たちがやる、なんてかっこつけないでもやるとしたら君たちだけだよお?」
トキコさんは仕事以外で極力、オカルトに触れようとしない。それが誰かの生命がかかっていようともだ。やっぱり僕よりよっぽどドライな気がする。
「じゃあ、いってらっしゃい」
わずかに嘲笑が交じっている気がする一言と共に、トキコさんは軽四を停止させた。
僕らは飛び降りる。
ヒロに腕を引かれながら、道なき道を駆ける。
あまりの強引さに少し笑いそうになる。この感覚も嫌いになれない。
僕は進路を全て委ねることにして、目を閉ざす。彼が手を引いている限り、疾走に問題はないだろう。であれば、少しでも視える範囲を増やしてやる。
意識が左目に引き込まれていく。
少女を追う視界のはるか奥、斜面を駆け降りる僕らが視えた。
まだ遠い。仮に目を開けていたとしても真夜中の森の中、人間では相手の姿は見えないだろう。
ただ、獣が走るような音と、かすかに女性の荒い息が聞こえているかもしれない。
ヒロは僕の視ているものから、少女と、それを追う存在の位置を定めているのだろう。ぐいと腕を引かれて、曲がったことを理解する。
「離すぞ!」
「うん」
目を開く。
右目でかすかに、向こう側から走ってくる女性を捉えた。
左目に映る彼女より、少し年上に見える。女子大生くらいだろうか。
僕を置いて、前に出るヒロは倒れかかる女子大生を片腕で抱き留め、異形の何かとの間に体を割り込ませる。
女性の向こう、右目に映るそれは幽霊というより、どこかクリーチャーじみた姿の異形だった。
肥大しすぎた筋肉の塊、それが体を滅茶苦茶に覆っている。人型ですら無い。獣とも言えない。二足で走る、肉の塊。
嫌な予感。
体中の感覚が、左目に奪われていく。腕が、足が、心臓が、呼吸が、香りが、右目が消えて、僕の体が左目だけになってしまうような。
ああ、このパターンは初めてだなあ。
妙な確信を抱く。
視界の中では、女子大生を左腕に抱える形で、こちらを真っ直ぐ睨みつけるヒロがいる。ヒロの右腕がかすかに光る。それは実在しない光。浄化能力を可視化した幻覚。
いやいやいや、本当、嫌味なくらいに主人公みたいな奴だよねえ。
ぶん殴られる。
存在しないはずの激痛。
ブラックアウトした左目。ようやっと帰ってきた右目の視界で女子大生を抱える光っていないヒロを認識して、少しの安心の中で僕は意識を手放した。
***
さて、ヒロとのアルバイトは、先輩とのお茶会以上に、僕の意識が飛ぶのは日常茶飯事である。次に僕が目を覚ました時には、トキコさんが女子大生になにやら話を聞きつつ、ヒロになにがしかを注意しているところだった。
僕はトキコさんの軽四の後部座席に寝かされていた。
こうなると、僕は次の行動を決めていた。
帰るのである。
一日一失神まで、というのが気付くと出来上がっていたルールだった。
ヒロとのアルバイトで言えば、近日中に関連した次のアルバイトがあることもあるし、ないことも多い。ただ、その詳細を説明されない限りは、僕は聞かないようにしていた。
深入りを避けるためだ。自身が必要以上に興味を持ってしまうのも避けたい。
そうなれば、先輩も巻き込んでしまいかねない。
軽四を降りて、相変わらず何事かを話し込んでいる三名に帰るよ、とだけ伝えて、夜道を歩き始める。
ヒロもトキコさんも慣れたもので、お疲れ様、と見送られる。ちらと見えた女子大生は酷く憔悴しているように見えた。
それにしても、想像以上に遅くなってしまった。
金を稼ぐには時間が要る、先輩と過ごすのにも時間が要る。ままならないものだ。
市内とはいえ、五キロ以上ある道のり。駆け足でも三十分近くかけて帰るはめになる。家に着くころには二時過ぎていた。
先輩と、千秋ちゃんはもう眠っているようだった。
僕はシャワーを手早く浴びると、マグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジに入れた。温めのボタンを押す。温め終わりの電子音を避けるために、三秒前に取り消しを押して、取り出す。
そのままベランダに出た。
田舎町の夜とは言え、よっぽどの郊外にでも行かない限り、それなりの明かりはある。満天には程遠い、ぽつりぽつりと光る星たちを眺めながら、ホットミルクをすする。
考えなければいけないことがいくつかあった。
明日は、どうしようか。
先日得た無数の写真たちの精査はおおよそ終わっていた。
イグジフ情報による座標が集中している場所がいくつかあり、それを頼りに探してみるか。
いや、それよりも喫緊は朝から機嫌の悪い先輩の事である。
二週間程度の春休みも、もう半分を切っている。春休みが終わる頃には、先輩と一緒にいるのも難しくなりそうだった。まだ、始まったばかり、と認識する方が正しいのだろうが、僕には時間がないのだ。春休みが終わる前に可能な限り、逆転の可能性を高めなければ。
「さて、どうしてものかねえ」
ぼやいてミルクを一口すすったタイミングだった。
ベランダの扉が開く音が聞こえ、僕は振り返る。
驚いた。
先輩だった。
どこかむすりとしたまま、僕の隣に立つ。
「起こしちゃいましたか? 申し訳ないです」
「いや、気にしなくていいよ。ちょっと眠れていなかっただけだから」
そう言って、先輩は僕の隣に立った。片手には僕と同じようにホットミルク。
「ああ、ごめんなさい。てっきり、付いてこなかったのもあって、千秋ちゃんがいるから大丈夫なのかと」
「君なあ……まあ、いいや。今日はどんな仕事だったんだい?」
「どんな仕事……と言われると、困るんですけど。しいて言えば、墓掃除、ですか」
僕は今日あったことを先輩に話す。
ふうん? と、探るような視線で僕をまじまじと見つめてくる。何かおかしなところでもあっただろうか?
溜息。
やがて、先輩はふふと挑発的に笑った。
「なるほど? せっかくの夜だから、多少、官能的な話でもしようか」
「官能的?」
そう。彼らと生命の終わりを語ってきたのならば、私とは生命の始まりを語ろうじゃないか。
そうだな。話の始まりとしては、命とはどこから命で、どこまで命なのだろう、というところからだろうか。精子は、卵子はまだ命ではないのだろうか。では、受精した卵子は生命だろうか。堕胎が許される妊娠二十二週目までの胎児は、命ではないのだろうか。法律的に人として扱われる出産を迎えて、初めて命なのだろうか。あるいは、七歳までは神のうち、の言葉のように、それを命と認めなければ命ではないのだろうか。
例えば、未来で仮に人類がプラナリアのように、体の一部から全体を再生できるようになったとして、どこまで生命なのだろうか。私の体から剥がれ落ちた角質は命ではないのだろうか。あるいは零れ落ちた私の肉体を命としないのであれば、私の命は脳髄にだけ存在するのだろうか。
たぶん、これは普遍的な疑問なんだよ。例えば、力太郎という昔話の主人公が老夫婦の垢から生まれたように。あるいは、錬金術の世界でゴーレムの素材には精液が使われたというように。大昔から心のどこかで、何処から何処までが命なのか、という疑問を持っていたのだろうな、という形跡がある。
人類は二度生まれる。一度目は存在するために、二度目は生きるために――そう、ルソーだね。
そして、人間は二度死ぬ。一度目は死んだとき。二度目は忘れられたとき――そうだね。これは出典が複数あるらしい。
勿論、これらは比喩的なものであるけれども、意外と私たちは死から蘇るという事象や、命が複数あるという理性的ではない言葉を違和感なく受け入れている。
これらも、結局、どこまでが命と呼ぶべきかがわからないからこうなるんだろう。
生命というものがもう少し、不変性を持てばこの話はいくらか簡単になったのだろうけれどね。生命はおおよそ変化する。変化するからこそ、これが命だ、というものを規定するのが難しい。
フェニックスは知っているね? そう、その通り、不死鳥だ。けれど、その伝説において不死鳥は不死ではないんだよ。
不死鳥はその時が来ると、自ら香木を積み上げて火をつける。そして、その炎で死んで灰になり、そして蘇る。
不死とは死なないことではない。死んでもなお生きる。死を超越することだ。
結局、この感覚なのだと思う。
私たちの体の中で、毎日数千億個の細胞が生まれ、同じくらいの細胞が死んでいく。
昨年までの私、昨日までの私、一秒前の私と今の私は確かに何かが違うんだよ。
究極のところ、私たちは常に死に続けていて、常に生まれている。常に形が変わる私は、私自身には私が何かを定められない。
例えば『コギトエルゴスム』われ思う故に我あり――そう、デカルトだね。彼のように思考を進め、割り切れば良いのかもしれない。
この間、愛と恋の違いを彼女に語ったそうじゃないか。
二人きりの世界で恋は成立するのか? という話だったね。
それにも似ている話をしよう。アダムは生きているといえるだろうか? 世界最初の一人きり。あるいは、世界最後の一人ぼっちは生きているといえるだろうか?
神々の楽園で神々の玩畜であった彼が世界に与えられる影響など本当は何もなかったのだろう。
あるいは、世界最後の人間を保護しているオーバーテクノロジーを想像してもいい。外界からの影響を防ぐために、真っ白な部屋に閉じ込められた世界最後の一人ぼっち。彼女はありとあらゆるものから守られていて、何一つ不都合・不愉快なく、一生を終える。けれど、その事実を知る者もいなければ、彼女がいたことで変わったことは何もない。
彼らは生きている、あるいは生きたといえるだろうか。
そうだね。確かに哲学的とも、禅問答とも言える内容だ。
けれど、君の愛の話と一緒なんだ。難しい話をしたいのではなく、これは非常に私の感覚的なものでね。
私は常に死に続けて、私は常に生まれ続けている。言いかえれば、変化すること。私は、流動する水のようなもので、器がいるんだ。
何が私かわからない。私だけではどこまで命か、分からない。私だけではどこから命か、分からない。だから、私は、どこまで私か分からない。
言い方を変えるなら、私の形を定めているのは君なんだ。君の存在を私が定めているように。
私の話を君が聞いている、それが生きているということなんだ。
さて、話を元に戻そうか。
全てはこの話をするための前置きだったわけだけれどもね。
プチモルト、フランス語で小さな死という意味だけれどね。これはオーガズムの後のうたたねのような余韻を指すそうだよ。自分と相手との境界が分からないほど溶け合って。どこまでが自分で、どこまでが相手か、分からなくなって。それを小さな死と表現したのだとしたら、素敵な話だと思わないかい? そして、そのあとには、小さな生があるんだ。さっきまでの自分の中に相手が少しだけ混じってしまった小さな生が。
しかし、なるほど。確かに、淫靡な、エロスに関するエロいお話だ。
「それで、もしかして先輩は僕を殺してくれるんですか?」
「ばーか。君は本当に情けないな。君が自信をもって私を殺せるのなら、何時だって」
口の端を彩る微笑に少しだけくらりときながら、それにしても、と、朝から気になっていたことを聞いてみる。
今の雰囲気なら聞ける気がした。
「どうして、朝、機嫌悪かったんです? 何かやらかしているんだったら、謝りたいんです」
先輩の顔が一瞬、真顔になる。しまった。
けれど、すぐに苦笑気味に、呆れたような声色で話してくれた。
「君は本当に風情に欠けるなあ、私が忘れてあげようとしたタイミングで……スマホ、見てみるといいよ」
そういわれて、もしかして、先輩からのメッセージを見逃しているのかもしれない、と思い当たる。
しかし、先輩から来ていたメッセージは一昨日、千秋ちゃんを連れて帰ってきた時の者が最後だ。
「本当に気づいていないのかい? メッセージアプリ、開いてごらんよ」
開いたメッセージアプリの中身。
よく見ると、先輩以外の通知が来ていた。
「ああ、これは」
僕はどうしてこんなものを見落としていたのだろうか。
大収穫じゃないか。そりゃあ、先輩もイラつくというものだろう。
「気付いたかい?」
「ええ。先輩。明日のお茶会は久しぶりに真剣にやりましょうか」
先輩は少し面食らったような顔をした。
ようやっと眼球探しの具体的な一歩がすすめられそうだった。
きっと先輩も喜んでくれるだろう。
「なあ、君」
「大丈夫ですよ。今日も、先輩が眠れるまで起きていますから。久しぶりに、眠れるまで手でも握っていましょうか?」
先輩はきょとんとしたあとに、ふいと顔をそらした。
しまった。予期せぬ進捗に、思わず軽口を叩いてしまった。少し、調子に乗りすぎただろうか。
けれど、それは杞憂だった。
「じゃあ、せっかくだし今から握っていておくれよ」
そう言って、先輩は僕の手を握ってくれた。
冷えた手のひらが僕の手を包み込む。
そのまま、僕らは星空を見ながらその後たわいない言葉をかわし、ホットミルクを飲み干した。
先輩はベッドに入り、眠りにつくまで、僕の手を握っていた。
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