3 三月二十五日六時ごろより終日。
マヤさんの店へ行った日の翌朝。
今日も天気は悪くない。朝日が明るく部屋を照らしている。
漂うのはコーヒーの芳香。
昨日はバタついていて、インスタントで済ませてしまったが、朝のコーヒーは可能な限り、きちんと淹れると決めていた。別にコーヒーの味が分かるという訳ではない。どちらかというとモーニングルーティーンという奴だろう。
古びたドロップ式のコーヒーメーカーで抽出されているコーヒーの雫を眺めながら、僕は考え込む。
眼球を探すと決めた訳だけれど、いったい何から始めたものか。
瞼を閉じる。
そこには暗闇があるだけで、今は何の映像も浮かんではこない。今、直前まで見ていたコーヒーメーカーにかすかに反射していた光の残像が残るのみ。やがて、瞼の向こうにかすかに光を感じる。丹光か、光視症か、単に瞼を貫くわずかな光を知覚しているのかは知らないけれど。
とにかく『混線待ち』とマヤさんが表現した通り、こちらから探して回るには情報が不足している。
眼。
どこに在るのか。探すとすれば、まずは当然、千秋ちゃんの墜落現場からか。
「どうしようねえ」
問題はそれで見つかる気がしない、という事だった。
先輩は眼球探しをする気満々のはずだから、僕もどうにかして探し当てたいとは思う。ただ、その手法がない。地図すらない宝探しのようなものだ。
心がしゅんとしそうになる中で、マヤさんのさりげない一言を思い出す。
『頑張りなさい、応援してるわ』
あまりにも先輩と一緒にいた僕にとって、理由なく他人に応援される、というのはもしかしたら初めての経験かもしれなかった。なるほど、なかなかにやる気が出るものだ。
まあ、応援されてやる気を出したところで何をすべきかわからない状況には違いないのだけれど。
小さくため息を一つ、目を開けて、使い終わった手挽きのコーヒーミルを小さな刷毛で清掃する。ミルの筋に残ったコーヒーの粉末をかき出しながら、まだ見ぬ千秋ちゃんの左目に思いを馳せ、想像する。
千秋ちゃんの目は何を見ているのだろう。
路上に転がり、空を見上げているのだろうか。
あるいはどぶ川を流され、海に至ったのだろうか。
もしかしたら、眼球は空を泳いでいるのかもしれない。オカルトの世界では何が起こるかわからない。最初は、風船のように浮かぶだけで風に流されていた眼球が、やがて眼神経をおたまじゃくしの尾のように使う事を覚える。ぷかりぷかりと泳ぐ術を身に着ける。そこから、見える視界はきっと散歩しているように穏やかな世界だ。眼球は、身をよじりながら、世界を旅していく。
いや、あるいは。
眼球は、宇宙からこちらを見つめているのかもしれない。
人工衛星のように、青い空の向こう。地球周辺を回りながら、僕らを見ている。周回軌道だ。しかし、その輪も徐々に小さくなり、やがて重力圏へと捕まる。眼神経に流れ星の尾をまとわせながら、大気圏へ突入する。そうして摩擦熱で燃え尽きようとする中、最後の力でこちらを凝視する。
日本の、東北の、僕らが暮らす田舎町。県庁所在地の衛星都市。
クラスの半分はやがて大学に進学し、そのまま町へ戻らない。そして、残りの半分はそのまま就職したり、近隣の専門学校に通ったりして、この土地で大人になる。そんな何処にでもあるゆるりとしていながらも、どこか閉鎖的な町。田舎ではあるが本当のど田舎とは言い難い。
ほとんどが山と、林と、田畑で緑色の町を超高空から眺める。まず目を引くのは、郊外の無駄に駐車場の広いショッピングモール。そして、その周囲にだけ見られる、車の連なり。隣接して設置された駅からは県内でも数少ない遊び場へ向かう学生たちの群れ。
次いで、見えてくるのは、市内に複数個ある各種小中高校だろうか。さらに燃え尽きそうになりながら、突き進めば、市庁舎や、市街地の様子が少しずつ見えてくる。
その外れ。
古びた市営団地、その構造体を透過して、僕らを、凝視している。
そこまで考えて、苦笑した。
我ながら、清々しい春の朝には相応しくない奇妙でグロテスクな妄想だろう。そして、ホラー映画の如く眼球探しをしなきゃならない現実には相応しくない、メルヘンでファンタジックな幻想だ。
ミルの掃除を終えた僕は、再度、瞳を閉じる。
何も見えない。
暗闇の中、深呼吸を一度。
感じるのは淹れたてのコーヒーの香り、僅かに開けた窓から入りくるまだ冷たい春の風。
そして。
安らかな寝息が二つ。
かすかにも乱れがない寝息が、千秋ちゃん。彼女も今日からは横になっても迷惑が掛かりにくい、と二人一緒にベットで眠っているのだ。もっとも、体は相変わらず寝返りも満足にうてないらしい。横になった状態で動かせるのは、首を捻る程度との事だった。
対して時々、小さなため息のような声が漏れるのが先輩。千秋ちゃんの隣で横向きに、自らの手首を重ねるようにして、眠っている。
視覚だけではなく、聴覚でも先輩の存在を感じられることにちょっとした満足感を覚える。
朝の六時、世はなべて事もなし、だ。
色々と、良くわからない状況で、悩みは尽きないけれど、生まれて初めて、という程、安らぎを感じているかもしれなかった。先輩が安らかに眠っている、普通の朝がこんなに愛おしいとは。
勿論、わずか一日で先輩と同衾している千秋ちゃんにかすかな嫉妬心を抱かなくはない。けれど、それ以上に先輩が安らかに眠っていることが嬉しい。
それに、と。
言葉にしてしまえば随分と邪悪な内容だけれど、先輩が千秋ちゃんに心を許しているのには理由がある、と思っている。それは、僕と同じように、その関係性において、先輩が圧倒的上位にあるということだ。
先輩への激情に焦がれ、先輩に捨てられれば消えるしかない僕。先輩に世話を焼かれなければ生きていけない美少女である千秋ちゃん。共に、先輩の思惑一つで吹き飛びかねない存在だ。
別に先輩も自身の奴隷を増やしたいというわけではないだろう。そこまで性悪な人間ではない。性格が良いとも思わないが。
ただ、怖がりな先輩が安心して、他者と付き合うには、そのくらいの優位性が必要なのだ。先輩にとっては千秋ちゃんと僕は同じおもちゃ箱に分類されているはずだ。そう思えているからこそ、強い嫉妬心に駆られずに済んでいる。
『僕らの恋はまるでおもちゃさ』なんて、いつか古びた喫茶店で聞こえてきた歌をふと思い出す。
「我ながら小さい男だねえ」
声になっているかも定かでない程の溜め息のような独り言を漏らしつつ、コーヒーをすする。
そうしているうちに、今までより少し大きいかすかに漏れた吐息のような声と、身じろぐ音が聞こえる。
朝、一日が始まる瞬間というのはこんなに愛おしいものなのだろうか。
寝ぼけ眼の先輩とぱっちりと目を覚ました千秋ちゃんがいる。
「おはよう、先輩。千秋ちゃん」
平和な朝に、ちょっと涙が出そうだった。
目覚めた二人が朝の準備を済ませる間に、僕はサンドイッチを作っていく。
ほんの少し前に交わされた会話が理由だ。
「行く当てがないというのであれば、何かの電波塔が良いかもしれません。思考は、思念は、呪詛は、祈りは電波に乗るのです」
「ああ、なるほど。よし、それじゃあ、今日は山の上までピクニックと行こうじゃないか。可視光線の向こう、赤外線の先、電波の世界を見に行こうじゃないか」
という二人の会話が元となり、僕らの今日の予定は近所の山の上の公園までピクニックとなった。
別にサンドイッチくらいなら、途中のコンビニで買えば良いと思う。ただ、そう提案したところ、なんとなく、先輩が寂しそうな顔をしたのだ。気持ちはわからないでもない。ピクニックだと言っているのだから、お弁当を持っていきたいのは理解できる。問題はそれを作れるのが自分しかいないということだ。
もっとも有るもので作れるとすれば、たまごとハムくらいなので、時間も大して必要ない。作業内容としては、ゆで卵を剥く作業が面倒くさい、ということくらいだ。
少し悩んだ末、サンドイッチは三人分作る。千秋ちゃんは、まだ食べられないとは思うが、完全に用意しないのも千秋ちゃんに失礼な気がした。それにサンドイッチくらいなら、一人分残ったところで、先輩と僕とで食べられる。
そんな僕の後ろ、先輩と千秋ちゃんは雑談交じりにせっせと着替えをしている。
「それにしても、思いは電波にのる、か。こう、音楽の歌詞みたいだ」
「そのくらい、普遍的な考え方であるとも言えるかもしれませんね。かつて日本に電話や電報が登場して、電線が架けはじめられたころ、そこに荷物をかけた人がいたそうです。電報が送れるのだから、荷物だって送れるだろうという発想。それと考え方はさして変わりません。
声が届くのであれば、想いだって届くはずという発想。想いが届くのであれば呪いだって届くはずという発想。むしろ、電話で、無線で、SNSやメール、インターネットで人々がより親密につながる以上、昔より、電波とオカルトは親和性を増しているのかもしれませんね。目に見えずとも確かにそこにある繋がり。ほら、これなんかも歌謡曲では比較的歌われるものじゃないでしょうか」
「ふむ。最近だと、電波に乗って病原菌やウイルスが拡散されるなんて話もあったね。見えない、わからないというのは想像の余地があるということだからねえ。
かつて、地震という訳の分からないものへの解答として大鯰や大蛇が原因だと理由付けされたように。かつてあまりにも安いハンバーガーの価格という不気味さへの解答としてミミズ肉を使用しているからだ、という回答があったように。
想いを伝える電波という目に見えないものと、オカルトは親和性が高い、と」
そんな二人のオカルト談義を聞きつつ、三人分のサンドイッチをアルミホイルに包み終わったころ、先輩と千秋ちゃんの準備が出来た。
先輩は白いジャンパースカートに薄水色のブラウス、千秋ちゃんは真っ白なワンピース。二人で色違いのニットカーディガンを羽織っている。顔つきが似ていないことを除けば、仲良し姉妹のようだった。
何より先輩が良い。僕と一緒にいるときにはあまり出てこない優しいお姉さんとしての一面が服装にも出ている。
そんなことを思いながら眺めていたら、そんなにじろじろ眺めるものではないよ、とたしなめられてしまったけれど。
二人とともに向かう今日の目的地は標高三百メートルもない、近所の小山だった。ここは近隣住民の憩いの場、散歩スポットとしてよく使われている。街の真ん中に浮島のように存在している山のふもとには神社もあり、地元の祭りの際には麓に作られた人工池を中心とした親水公園が会場となる。人工池には噴水があり、池を周回するように遊歩道が備えられている。その親水公園部分を抜けると、散策路が山上まで伸びており、山頂部は整備された広場となっていて、こちらも時折、イベント会場として使われている。
そんな山頂の広場の隅に、携帯の基地局の鉄塔がある。今日の目的地だ。
千秋ちゃんの車いすを押し、僕らは街に出る。
***
もう少しで花開くのであろう、桜の蕾でかすかに色づく春の小山。
麓を見やれば親水公園で散歩する人々。池の周りで犬の散歩をする女性。
遊びに来た幼稚園児たちは楽し気に走り回り、保育士たちはずいぶんと忙しそうだった。
振り返れば山頂の広場で運動している大学生と思わしき集団。
老夫婦はベンチにかけ、時折、何かをおしゃべりしている。
この町ではこういった空間は貴重だ。代わる代わる人は訪れ、去っていく。
基地局の鉄塔は、そんな空間の隅っこに、変に目立つこともなく、ひょろりと立っている。その鉄塔の下、僕らも特に隠れているわけではなかったけれど、ひっそりとピクニックを楽しむ。
僕は木製の柵にもたれながらサンドイッチをほおばっていた。
「しかし、幽霊が電波に乗る、か。サーフィンでもしてるのかね」
「信じられませんか?」
「ああ、いや、そういう訳ではないんだけどね。なんというか、ちょっと想像してみると面白いな、って」
「確かに、ちょっと楽し気な雰囲気はあるかもしれませんね。でも、来る前にも話しましたが、電波に乗るオカルトは意外とたくさんあるんですよ。例えば、メリーさんの電話の都市伝説なんかもその典型例ではありませんか。あれは各家庭に固定電話があった時代ならではの自宅がばれる恐怖だと、聞かされたことがありますが」
千秋ちゃんの言葉を受けて、なるほど、と先輩も話し出す。
「そう思えば、昔あったという呪詛系のチェーンメールなんかも、電波に乗るオカルトに含まれるのかな。最近はウェブメールという手段自体が個人においてはだいぶ廃れてしまったというけれど。
いや、そもそも、チェーンメール自体がもともと不幸の手紙で送られていたものが、変質したものか」
ああ、なるほど。
僕も一つ、思いついた。
「変質した、と言えば、呪いの動画の媒体がVHSから、ウェブ配信の動画に変えたのも似たようなものですかね」
「結局、伝わる、わかるというのが大事なのですよ。いかなるオカルトも、所詮、人間の妄想、幻想、想像が力を持ってしまったものに過ぎないのですから。
例えば、怖い話になりがちな『何かわからない恐怖の存在』彼らですら対峙した相手に恐怖を伝えることは出来なければならない。なにもかもわからない、けど怖いことだけはわからなければならない。
完全なる無理解は、存在しないのと似ているのです。だから、概念として理解しにくいもの、直観的ではないものはオカルトとしても廃れていくのです。昔――と言っても、私の一族の感覚の昔ですから、一体何時代の話なのか定かではないですが――昔はそれこそマヤさんのような存在もそこら中にいた、そしてマヤさんより理解しがたい存在も同じくそこら中にいた、と聞いています。オカルト世界においても、人間の理解しやすいようにオカルティックな存在は定義され、統合され、変更され、削除されてきたわけです。そして、理解しがたいものは消えて、廃れていく。
だから、不幸の手紙は、手紙というものが廃れるにつれて、チェーンメールにとって変わりますし、ビデオテープに馴染みがなくなれば、自然、呪いのVHSは呪いのMP4に変わるのですよ」
「ああ、そうかもしれないね。そもそも、ダビングと言われても、私も君も映画を最初に見たときにピンと来なかったじゃないか。もはや、日本の一般家庭において、発せられるダビングという言葉の殆どは彼女関係なんじゃないのか? そもそもが動画コンテンツの多くがネット配信の形をとっている以上、わざわざそれをコピーするという行為をすることをしない」
なるほどなあ。
先輩と見た怖い話に少女の声が入ったカセットテープというものがあったことを思い出す。CDから取り込んだカセットテープの音楽データに元の曲にはない少女の声が入り込んでいたというものだ。それが学校で話題になり、カセットからカセットへダビングするのだけれど、そのたびに内容が変わっていき……というものだ。
これも、音楽データをカセットテープで共有するという文化があったからこそ流行った怖い話なのだろう。
「しかし、今ではオカルトは詐欺やコンピューターウイルスというリアルな脅威に圧し負けて、電話でもメールでもあまり活躍できていないように見えるけれどね。住所も電話一本で追跡をかけてくるメリーさんなんていう不思議な存在を仮定しなくても、ネット上で個人情報が拡散してしまうと酷い目にあうということを、すでに私たちは知ってしまっている。
あるいは、SNSでまるで死者が参加しているようなアカウントがあっても、それがホラー映画や遊園地のお化け屋敷のPRであることを悟ってしまう。それよりも、うっかりと下心満載の男性や、良くわからないマルチのアカウントや、違法薬物の売買、いわゆる闇バイトに関わってしまう方が恐ろしい。オカルトファンとしては悲しい限りだけれども。もう少し夢を見させてくれても良いのに」
「そうでしょうか? たぶん、オカルトが流行りじゃない、というのと形を変えているというだけですよ。例えば、二十年前、こぞって心霊番組をテレビで放送していたころには、私の遠戚もオカルトタレントとしてそこそこテレビに出ていたそうです。もちろん、今では姿も見かけません。
逆に現代においても電話番号一つで呪いをかけます、なんて凄腕の呪術師もいます。曰く『髪の毛や、顔写真なんかより、よっぽど扱いやすいパーソナルなものだから呪詛の指向性を与えるのが楽』だそうです。姓名診断のように、電話番号診断、マイナンバー占いもあるんだとか。私の知り合いの占い師は無駄に個人情報を知ってしまって管理が面倒くさくなるのと、姓名判断と違って変更がより難しい、と対応策をどうするかと悩んでましたね」
「なんというか……オカルト世界でもコンプライアンスって大事なんですねえ。それにしても、機械的かつランダムに与えられている電話番号やマイナンバーにオカルトを見出すのはなんだかちぐはぐな気がしますけれど」
「いやいや、例えば誕生日だって、所詮はランダムな数字に違いませんし、数秘術なんて技術もございます。出来過ぎた偶然に神を見出すのは人類の得意技ですよ。
それに誰だって、流れ星に願いをかけてみたり、恋が叶うおまじないをしてみたり、吉日に宝くじを買ったりするでしょう? 全人類が全知全能にならぬ限り、どんなに技術が進化したとしてもそこにオカルトは介在しえるのです」
街を見下ろす。
試しに、イメージしてみる。
眼下に広がるこの街には、無数の電波の発信源がある。人間には不可視の波が溢れている。そのそれぞれは、それぞれがほんの少しだけ、些細な世界の振動だ。震えながら、想いを、祈りを、呪いをどこかに伝えようとしている。
けれど、その小さな振動はその量によって、怒涛となる。広大な海も、無数の水の分子で構成されているように。
僕らの想いは、言葉は、声は、画像は、一度機械語に翻訳され、秒間に一億を超えるゼロとイチとに分解され、荒れ狂う海のように打ち寄せる。電波に乗った僕らの想いはそこらじゅうを走り回り、満ち満ちている。
その無数の発信源の一つとして、千秋ちゃんの眼球が落ちていて、僕らに発見されるのを待っている。SOS信号のように、映像を送り続けている。けなげにこの世界を振るわせている。
それをきっとこの基地局が受け取ってくれているのだ。見上げれば、太陽が目に入る。酷く眩しかった。
そして、基地局が受け取った眼球からの電波を、次は僕が受け取る。鉄塔を見上げたまま、目を閉じた。
残念ながら、眼球の裏には何もない。真っ暗な闇しか見出せない。
やがて、僕らはたわいもない話に興じ始める。
帰りには千秋ちゃんの落下地点を見に行こうなんて具体的な話をしつつも、ほとんどが下らないおしゃべりだった。
先輩が千秋ちゃんに着せたい服がいっぱいあるだとか。
千秋ちゃんが今までに視てきたオカルト話だとか。
対して、僕らが視てきたオカルト話を千秋ちゃんに解釈してもらったりだとか。
柔らかく、暖かい日差しの公園。それにはどうも似つかわしくないオカルト談義ばかりになってしまうのは、いかんともしがたいところ。それでも、実にピクニックらしい、のどかな時間ではあったと思う。
唐突に、それが訪れるまでは。
なんだかんだと随分おしゃべりに花が咲き、時刻は二時過ぎにもなろうということろだった。
そろそろ帰ろうか、なんて話が出始めたころだ。千秋ちゃんの落下地点を確認して帰ると、おそらく家に着くのは夕方過ぎになる。
「え」
先輩が小さく悲鳴のような声をあげて、動きを止めたのだ。困惑するように突然、あたりをきょろきょろと見回す。
「どうしました、先輩?」
「ダメだ、結構きつい」
僕は慌てて、先輩の手を取る。これは過去の心霊スポット巡りで得た知見の一つだ。どちらかだけがオカルティックなものを視認した時の対応策。見えていない側の人間が直接、見えている側の体に触れることで同じものを見る可能性が飛躍的に高まる。マヤさんの言葉を借りるならば、これもチューニング、なのだろう。
一瞬、何も起こっていないじゃないか、と思った。先輩には何が見えているのか。先輩が見えているものを探す。いったいなんだ。
気付いて、声を失った。
こちらを向いている。
視界に映る、何人もの、何十もの人々が、無遠慮で無感情な視線を、こちらに向けてきている。
まるで僕らが朝礼の壇上にでも上がったときのように、人々の顔が僕らを見ている。
広場で運動をする人々も、親水広場で散歩をする人たちも、ベンチで会話する老夫婦も、母親に抱かれた乳児も。皆皆が、一様に僕らを眺めている。
散歩で遊びに来ている幼児の群れは、歓声をあげ、無邪気にじゃれ合っている。それにも関わらず、首だけがこちらを向き続け、視線を送ってくる。
学校終わりか、部活なのか、同じ色の制服やジャージをきた小中学生が笑いながら、走り抜ける。こちらを真顔で見つめたまま。
やがて、妙な確信を抱く。
視られている。
これは、幻視だ。僕らが視られている、監視されているという幻視だ。
麓の親水公園よりまだ向こう。僕らの眼には点にしか映らないはるか遠くの人々もこちらをまっすぐに視ている、という確信がある。無表情な顔で。鉄塔にあつまる電波に乗って。こちらを見ている。
鉄塔、そうだ。
どうしてこちらからの一方的な受信だと、単方向通信だと思い込んだのか。双方向通信だ。
深淵と同じく。こちらが覗こうとしている以上、向こうも
「ここから離れますよ」
先輩の手を握ったまま、僕は千秋ちゃんの車いすに近づく。
先輩は弱弱しく、握り返してきた。千秋ちゃんは何かが起きていることを察した様子で、真剣な顔でこちらを見ている。無機質ではない、その視線に少しだけ、安心する。
千秋ちゃんの目の前、車いすの裏に回ろうというタイミングで。
左目が零れ落ちそうな痛みを感じた。
入った。そう感じる。受信する。見られている以上、僕にも見える。
いけない、慌てて先輩の手を放す。先輩に逆流させかねない。
くらくらする。瞬く。
暗転にあわせてザッピングするように視界が切り替わっていく。
親水公園、山上広場の風景が次々と切り替わる。
その視界の隅に、中央に、鉄塔と僕らが入り込む。
広がる。受信範囲が広がっていく。
ラーメン屋、ファミレス、食事中の人々、見慣れた街の風景。
白い天井、黒い扉、青い壁、見知らぬ誰かの部屋。
寂れた商店街を歩く、小さなスーパーで買い物をする、大きなショッピングモールをぶらついている。
無人駅で、一人ぼっち。人気のない教室で二人ぼっち。
まだまだ、広がる。
地を這うように動く、白黒写真に淡く色ついたような視界。
同じような色でパノラマで三百六十度を見回すような視界。
色相環が壊れたようなド派手で拡大された花で埋め尽くされた視界。
似た色合いの高空から地を這う虫やネズミをしっかりととらえている視界。
広がりきる。
三方に載せられた白鞘の短刀を眺める視界。
周囲は無数の猫が取り囲んでいる。
遠くから双眼鏡で僕らを眺めている視界。
悶絶する僕自身と目が一瞬あった。
鏡の前でハンギングノットにネクタイを絞める視界。
涙しながら、笑っている。
地中から円形の窓越しに僕らを眺めている視界。
無音の罵声、溢れ出る怨嗟。
女性をひたすら追跡している視界。
どうして、どうして、どうして。
繰り返される映像。その中で、ひときわ違和感のあるものを見つける。
ぎっしりと詰まった人々。それは満員電車や、音楽ライブの比ではない。上下左右、一切の関係なく、ぎちぎちに、みっしりと、部屋に詰め込まれた肉体。
そんな部屋が一定間隔で並ぶ……教室だ。これは学校だ。
その箱詰めの肉体たちを脇目に、わずかに上下動しながら一歩一歩、ゆっくりと進んでいく視界。
並んでいる。
廊下にも老若男女関係なく、肉体が並んで、教室に入るのを待つように並んでいる。
やがて、一人、また一人と、教室に、飲まれていく。
暗い闇に飲まれていく。
***
瞼の向こうに光を感じる。
頭を撫でられる感覚。
「おい、君、大丈夫かい?」
いつもより優し気な僕を呼び戻す先輩の声。
「おはようございます。先輩」
目を閉じたまま、答える。わずかに頭痛が残っていて、目を開けるのが億劫だった。
正直、お互いに慣れっこだった。初期の誰彼のお茶会で、心霊スポットに行った際には二人のうち、どちらかが踏み込みすぎて、失神まではいかないものの、良くこうしては呆けていたものだった。
「起きたなら、悪いが離れてくれないか。さっき、ちょっと目立ってしまったから、その、恥ずかしい」
「ただのイチャついてるカップルということで納得してもらう方向性は?」
「無いな。ほら、立ちたまえ」
しぶしぶ、僕は目を開けて、先輩の膝枕から立ち上がる。後頭部に当たっていた程よい柔らかさの太ももが名残惜しい。やっぱりこれは欠点なんかじゃないと思う。というか、先輩に欠点なんかないのだ。
鉄塔から少し離れた木陰に僕らはいた。さっき、ちょっと目立った、というのはたぶん、先輩が僕をここまで引っ張った時の話だろう。
「大丈夫ですか? 後輩さん」
千秋ちゃんが先の真剣な表情とは変わって、穏やかに微笑みながら、こちらを気遣ってくる。その笑顔はおそらく、僕が大丈夫だと判断したからこその微笑みだろう。
「大丈夫だよ、ありがとう。僕はどのくらいこうしてた?」
「十分も経っていませんよ。思ったより打たれ弱くて少し驚きましたが。立ち直りの早さは流石ですね」
内容は随分と横柄で嫌味のように聞こえるが、声色的には事実を述べているだけ、という様子だ。
「流石、プロは違うね」
「プロ?」
「マヤさんがそう言ってたのさ」
「私ごときがプロフェッショナルでしたら、この世はプロフェッショナルばかりになってしまいますよ。私は確かにオカルトが生業ですが、その血筋によって、この地位にあるだけなので。そういう意味で生粋では在るかもしれませんが、プロと言われてしまうとどうなのでしょうね?」
これもまた、どこか尊大である。けれど、たぶんこれも彼女にとって、謙遜の言葉なのだろう。僕らとしても素直に受け取ることが出来るほど、穏やかな嫌味のない口ぶりだった。
なるほど、これが生粋であるということか。
それは先輩も同じようで、苦笑を漏らしながら、口を開いた。
「生まれねえ。そういえば、千秋ちゃんはどんな生まれなんだい?」
「まだ、内緒です。現実的な話としては万が一にでもお二人に累が及ばぬようにする為、というのもあるのですが。実は、そうですね。出来れば、お付きの者の紹介と一緒にしたいのです」
千秋ちゃんは、急にえへへ。と、年相応の照れたような顔を見せる。
昨日も随分と自慢げに語っていたそのお付きの者とやらを紹介されるとき、僕らはどれだけ惚気られるのだろう。
先輩も同じように思ったのか、苦笑していた。
「じゃあ、その話はいったん置いておこう。生粋のオカルティストに、今、私たちが経験したことを聞いてもらおうじゃないか」
僕らの話を一通り聞いた千秋ちゃんは一つ頷いて、まず先輩さんの見たものから解釈を致しましょう、と話し出した。
まずご承知だとは思いますが、最初に申し上げます。詳しいことは、分かりません。よくわからないものであるからこそ、オカルトなのですから、多分に私見が混ざります。
そのうえで、おそらく、先輩さんが視た光景は周囲の人々の視界情報を受け取り、それの処理を脳が上手く行えなかった、というのが順当なところかと思います。ある種、ドッペルゲンガーの原理と似ていますよ。ええ、見たら死ぬ、ドッペルゲンガーですよ。
ドッペルゲンガーは自分にそっくりの存在があらわれた、という話ですね。ドッペルゲンガーを見ると死んでしまう、なんて話もあります。
あれは、霊的、オカルト的な原因か、なんらかの疾患によるものかはともかく。ドッペルゲンガーなどと特別な存在が在った訳ではなく、どこかの誰かの視点で、自分自身を見てしまったというだけの話もあるのです。ええ、例えば、オカルト的解釈をすれば幽体離脱。あるいは統合失調症をはじめとする精神疾患によって、他人を自分だと認識してしまったというパターン。
もっとも、そんな状況に陥る事自体、レアなことではありますし、そんな状況でありますから、適切な処置を受けられなかった当事者が死んでしまうというのもある意味、当然なのですが……少し話がそれましたね。
おそらく、先輩さんに入った情報は、この近隣の人々の視界でした。そして、その中には先輩さんがどこかに映りこんでいた、と推測されます。後輩さんと、たぶん、私もですが、私たち二人が増幅器のような役割を果たし、私の左目からの情報を探している中で、最初に影響が出たのが先輩さんだった。この近隣の人々の視界情報は、私の左目の視界情報と一緒に入り込んでしまった、というのが正解に近いと思います。ノイズ、と表現すべきでしょうか。
けれど、先輩さんの脳がこの情報を処理できなかった。その結果、見られているという情報だけが脳に入った。その結果、そこら中の人々の顔が全て先輩さんを眺めるという幻視で処理されたのでしょうね。先輩さんの幻視は、いわば、貰い事故のようなものです。
対して、そのあとに後輩さんの視た映像。それらは他者の視界情報、ほぼそのものかと思います。それはもちろん、眼球が受けた刺激が同じだったとして、それを映像として組み立てている脳が違うものである以上、本当に同じものであるか、という哲学的にもオカルティズムとしても重要な話題はあるのですが、こちらはとりあえず置いておきます。
さて、ほぼ静止画、あるいはコマ送りのような視界でいろいろなものを見たとのことですが、それらが私の眼球の視界であるかは分かりません。
ただ、一つ言えるのは、おそらく後輩さんの眼球はマヤさんのチューニングによって、私の視界情報を拾いやすくなっているはずです。ですから、見えた映像の中に私の眼球から送られたものが含まれている可能性や、その近くに眼球が存在する可能性は低くないとは考えられます。
そう考えると、後輩さんが視た風景を探してみる価値は無くはないな、と思います。
なるほど、興味深い。
だが、困ったことが一つ。
「問題は、僕が視た映像がすぐにはどこかわからないことだなあ」
例えば、一番印象的であった学校の映像だけでいえば、ヒントはいくつもあったように思える。
廊下から視えた風景。教室の数。もしかしたら、黒板や掲示物のどこかには学校名が書かれていたかもしれない。近隣であるならば、学校の数もそんなに多くない。だから、最低限の情報で絞り込めるとは思う。
ただ、その最低限すら思い出せるか否か。正直なところ、自信はあまりなかった。
ましてや、ほかの一瞬で切り替わった画像なんて。
「ああ、そういえば、君が横になっている間、随分と通知が鳴っていたけれど。大丈夫かい?」
「僕のスマホ、先輩からの連絡以外、ろくな通知が無いんで問題ないですよ」
言いつつも、念のため、スマートフォンのロックを解除する。
絶句した。
大量のダウンロード完了の通知が並んでいる。
ダウンロードされていたのは、僕が幻視した風景の一部だ。極端にゆがんでいたり、ノイズが走っていたり、妙な拡大が行われていたり。一部、見覚えのない風景も混じっているが、そのほとんどが僕が視たものだった。
覗き込んだ、千秋ちゃんがああ、なるほど、と合点が言ったように漏らした。
「そうですよね。電波を頼りにするというのであれば、その電波を受け取る装置に影響が出るのは当然です。私が普段使っていないので、思い当たりませんでした」
「やるなあ、君。大収穫じゃないか。それに、そうだ。さっきの話で大事な典型例を私たちは忘れていたね。心霊写真――技術の進化に伴ってあらわれた比較的新しいオカルトでありながら、もはやオカルトの古典芸能とも言えるような立場にあるほどポピュラーなオカルト体験。
さらには、それにも関わらず、技術の進化の果て、画像加工技術の発展によって、陳腐化し、既に落日を迎えつつあるオカルトだ。それがこんなにも手に入るなんて」
大収穫だねえ。褒められて、微妙な気持ちになる。自分のスマートフォンが、あるいは僕自身が呪われた、と言っても差し支えないような状況だ。
それでも先輩が嬉しそうにしているだけで、帳尻があってしまう。
そんな自分の単純さがちょっと嫌だ。
***
イグジフ(Exif)情報、というものがある。
以前、僕らが心霊写真にハマっていたころ、先輩が教えてくれた。
主にデジカメやスマートフォン内臓のカメラで撮影した画像に付随して、どのような条件で撮影されたかを記録する為のデータだ。保存されている内容は多岐に渡り、撮影したカメラや使用したレンズ、シャッター速度や絞り、ISO感度といった撮影時の設定が残されている他、撮影日時と、GPSを利用した位置情報、さらには撮影時のカメラの向きなどがわかる場合もある。これが重要だった。
僕の家に帰ってきて、先輩と千秋ちゃんは、僕がクラウドストレージ上でシェアした画像を二人で眺めては話をしている。ダビングではなくて、データのコピーでも呪いは解除されますか? なんて下らないことを考える。もっとも、その呪いで先輩が死んでしまったら、後悔なんて言葉ではすまない程の大事態だけれど。
「それにしても、この写真たちは、このスマートフォンが受信したわけですが、状況だけ見れば後輩さんが念写した、とも言えるような状況ですね。私、こういった機器は詳しくないのですけれど、こちらの写真のデータの送信元が不明ということでよろしいんですよね?」
「そうだね、私も素人レベルの知識しかないわけだけれど、少なくともダウンロード履歴からはデータの出所を追えなかった。となれば、まあ、後輩が作り出したとも言えるのかもしれないな。そうなると、時代に即したサイキッカーであるのかもしれないね」
「そんなデジタルの申し子みたいな能力が僕にあるなら、今、この作業を全部、スマホ上で済ませてます」
先輩はどこか茶化しながら、からかうように話しかけてくる。
対して、僕は同じ姿勢で作業しつづけた結果、凝り固まった背中をぐぐっと伸ばしながら答えた。
僕は図書館の有料サービスで印刷してきたA三で数枚の地図を段ボールの上に敷いて、物理的にピンを打ち、イグジフ情報を書いた付箋を付ける、という作業をしている。地図アプリでもできるのだが、全員が覗き込みやすい、どちらにしろイグジフ情報の中身は手打ちで入力しなきゃならない、一目で確認しにくいという理由で、ひどく地味でアナログな作業をしている。
過去に事故物件の一覧が地図上に表示されるサイトを見たことがあるが、あれも随分と苦労する作業なのだろうな、と思わされる。もちろん、一人で更新をしているわけではないだろうけれど。
「デジタルの申し子ねえ…そこまで行くと、オカルト、というよりSFかもしれないな。電脳世界の住人だ。君にUSBポートでもついていれば、出来るのかも知れないけれどもね。あるいはブルートゥースで接続できないのかい?」
「無茶言わないでくださいよ。どんな性能を僕に求めているんですか」
「そうでもないかも知れませんよ? 事実、私の世話役はSSD? でしたっけ。あれを持ち歩いて、そのままメモ帳替わりとして、使ってますよ」
え。なにそれ。
突拍子もない発言に驚いて、僕は千秋ちゃんを眺める。千秋ちゃんは何かを思い出そうとしているのか、視線は宙を彷徨わせながら語る。
「さらに、演算速度、という意味ではその辺のスパコンを超越している、とかなんとか。現に、私がこうして生きているのも、私の脳構造から、骨格、内臓のすべて。髪の毛の一本から、足の爪の先っぽまで原子レベルで把握していて、そのコピーを二体並列で彼の中で稼働させているのです。私が正で、彼の中にいる私がそれぞれ副と控、というわけですね。こうして、私のこの体が壊れるまではそのコピーは寸分たがわず、私と同じ動作していた訳です。現在は、破損した私からの入力を保留して、そのコピー二体の動作結果をリアルタイムで私の体に反映しているのです」
コピー。思わず、口からこぼした僕の思考を引き継ぐように、先輩が話始める。
「……それは、本当に君なのかい? 先日、マヤさんとも話をさせて貰ったのだけども。うまく説明できないし、とても失礼な言葉かもしれないけれど、君は君なのかい?」
「ええ。私、という自我が停止せず、続いていますので、私、と言って差し支えないかと。少なくとも、私は世話役によって定義されている、存在をあまりにも世話役に依存している状況ではありますが、それでも私は、今、ここにいる私を自分自身だと認識することに忌避感も違和感もありませんので」
大したことでも無いようにさらりと、それどころかどこか妙に自慢げに千秋ちゃんはそんな言葉を口にする。
先輩はいろいろと悩み、考え込んでいるようだった。
「じゃあ、こっちだったら納得しますか? 彼は私で、私は彼なのです。私は彼の力で限りなく彼の一部となっているのです。まるで吸血鬼のように。血を吸われてしまった乙女の私は彼の一部となってしまったのです。だから、彼が殺されなければ、私も死ぬことがないのです。同時に、彼はその能力で私を吸血鬼にし、私にその血液を与えました。私が死ねば彼も死んでしまうのです。私たちは二人の個別な存在でありながら、どこか境界があいまいである、たった二人の群体なのです。
溶けかけのバニラとストロベリーのアイスクリームみたいなものですよ」
引き続き、千秋ちゃんはどこか陶酔するかのように、なめらかな語り口で、そう話す。その酔いにあてられるように、ほんの少しだけ嫉妬した。先輩と、そこまで溶け合えたのなら、きっと幸せだろう。いっそのこと、奪いつくされても、食らいつくされても良い。
思いかけて、一、二度、頭を振った。良くない。甘美すぎる妄想は毒だ。
「どっちが本当なんだい?」
「両方、本当ですよ。今も必死に医学的知識の他、生体物理学・遺伝子工学の知識や、果てはあらゆる魔術的措置を含む、彼の全力をもって私を生かし、活動させてくれている。汎用人型太陽炉心だの、人造擬神ヒルコだの、燃え尽きた男だのいろいろと言われていますが、愛すべきダメ人間です! 本当に早く皆さんに紹介したいのに、彼は何をしているんですかね!」
まったく、と口先は怒りながらも、どこか自慢げに千秋ちゃんは笑う。
新情報に混乱しつつも、ひとまず、その世話役さんが特撮にでも出てきそうなオーバーテクノロジーのサイボーグ吸血鬼医師という設定過剰存在であったとしても驚かない心の準備をしておくことにした。
もくもくと作業を続けること三時間は経っただろうか。
「フィクションの幽霊は何故、女性なのか、と考えたことはないかい? もちろん、それは作品としての必要性という話もある。仮に、ベンチプレスの自己新記録へのチャレンジ中に失敗して死んだ無念の筋骨隆々のマッチョマンの怨霊が襲ってくるとして、それは最早、幽霊への恐怖ではなくなってしまうからだ。ハリウッド映画で特殊部隊の主人公が観客すら驚かすような手法で敵を暗殺するシーンとなんら変わりなくなってしまう。いわゆるギャップという奴だね。強い者が強い、では面白くない」
先輩たちは心霊写真観察を一通り終わらせて、その中でも目を引いた写真を見ながらおしゃべりに興じている。僕はそれを聞きながら、相変わらずピンを刺す作業を進めていた。
「だから、フィクションの幽霊のイメージにはどうしても弱き者としての属性が付随する。それはジェンダーであれば女であり、年齢であれば青年ではなく幼児や老人であり、趣味嗜好であれば、明るいスポーツマンではなく内向的な文系趣味だ」
先輩が今、話しているのは僕らが視てきた幽霊の基礎的な話だ。意外にも、千秋ちゃんは幽霊をあまり視たことがないのだという。
その事実に、プロではなく生粋である、と言う千秋ちゃんの立場が示されている気がした。
「けれど、不思議なことにね。私たちが視た幽霊も、やっぱりどこか同じような幽霊ばかりだったんだよ。まあ、幽霊になる――つまりは未練を残すタイプの人間のおおよその傾向がそういうタイプであるというのもあるのだろうし、逆に幽霊を視る側の人間も幽霊とはそういうものだと思っているからこそ、そう見えてしまうというものなのかもしれないが、一体くらい底抜けに面白い幽霊がいたって良いと思うのだけど」
「視る人間によって視え方が違うというのは大いにあり得るでしょうね。何事も、受け取る側が何を受け取るか、というのは発信側には制御できませんから。ましてやオカルトのような胡乱なものであればなおのことです」
「確かに人によって視え方が全然違うオカルトは結構、耳にするね? 惹かれている人間にとっては絶世の美女に見えているけれど、周囲の人間には化け物にしか見えない、だとか。
まあ、とにかくだ。実際、この写真に写っている不思議な存在たちも殆どが陰鬱であったり、怒り、苦しみ、そんな表情を浮かべているものばかりだ。私は一度、快活でマッチョなスポーツマンの幽霊に会ってみたいんだよ。『死んで幽霊になるのも悪くないぜ』とサムズアップしてくれるようなナイスガイにね」
そんな下らない話が聞こえてきたタイミングだった。
ぽーん、と、僕のスマートフォンの通知音が鳴る。
その通知音に少し驚いたのは、先輩と僕だ。
基本的に僕のスマートフォンはミュートにしてある。唯一、音を鳴らして通知を出すのは先輩からの連絡だけ。通知を切れないアプリケーションはそもそも入れていない。それを先輩も十分知っている。
口元を少しだけゆるませて楽しそうな、眉を少しだけ寄せて不安そうな、頬を少しだけ赤らめて興奮しているような、何とも言えない表情で、先輩は口を開いた。
「鳴ったよ。君」
「鳴りましたね」
何かの設定ミスかもしれない。今日はいろいろ有った訳で、設定が変わってしまっていてもおかしくない。
ただ、なんとなく、嫌な予感がした。
「見てもいいかい?」
「どうぞ」
先輩は僕のスマートフォンを手に取り、操作し始める。すぐに表情が曇る。
え。
逆に僕は違和感を抱く。その表情が恐怖というよりは、退屈だとか、拍子抜け。つまらない、不満といった種類のものに見えたからだ。
「君ねえ」
先輩が何かを言おうとしたタイミングで再び。
ぽーん。
「ああ、なんだ。なるほど? うん。君、ちょっとピンを。新しい写真だ」
先輩はすぐに手元に視線を戻してしまう。そして、すぐに僕にそう命じた。
「ピンを指していけば良かったですか?」
「ああ。三時間前。十六時二十八分、経度と緯度は」
三時間前?
山の上の鉄塔で倒れたのが六時間以上前。随分、最近の話だ。
嫌な予感が膨らんでいく。
場所は山上公園近く。
先輩の指示で、写真のイグジフ情報を地図上に反映していく。
場所は僕らがいた山の公園近く。
二時間前。
公園とアパートの中間。コンビニがある場所を指した。
一時間前から十分前はアパートの周りを点々と囲むように。
ピンを刺す作業の途中、ちらと先輩の手元を覗き込む。
黒塗りの写真と、まるで視界の一部分を切り抜いたような写真がそれぞれ複数枚、送られてきているようだった。
「おお、君。これはなかなかすごいよ」
先輩はにたにたと笑いながら、画面をこちらに向けてくる。
撮影時間が、三分前。
開けっ放しになっていたベランダの窓の向こうから、僕らを見ている写真、電気がついている、この部屋の写真だった。
肌が粟立つのを感じる。
「最高じゃないか」
「最悪ですね」
気味悪さを感じながらも、急ぎ、立ち上がり、ベランダへ出る窓へ向かった。外を見回し、カーテンを閉める。何もおかしなものは見えなかったはずだ。
「警戒するねえ」
「当然です」
にたにたと笑いながら先輩がこちらを見ている。
またスマートフォンの通知が鳴る。
「ふふ。すごいよ。いい感じだ。三分後、だそうだ」
再び、先輩が見せてきた画面には、刃物を持った人間が玄関に立っている写真。
さらに追加でもう一枚、操作もしていないのにダウンロードが始まっている。
「ほんと、最悪」
ぼやきながら、先輩の手からスマートフォンを取る。先輩は特に抵抗しない。画面を伏せてテーブルに置く。なんとなく、続きを見てはいけないと思った。
「ダメなのかい?」
どこか寂しそうな、甘えた声色。
「『着信アリ』です。とりあえずの正着はまずは触らないことです。先輩、万が一、ダメそうなら、ベランダから逃げてください。先輩にワンチャンスあるとしたら、それくらいなので」
「逃げるって君ねえ。一体、何処に逃げるって言うんだい? 千秋ちゃんもいるっていうのに」
「いえ、お二人で逃げてくださいな。私は大丈夫ですので。たぶん」
何事かを察したであろう、千秋ちゃんを片手で制して、先輩は相変わらずにたにた笑っている。
「あーあ。死んじゃうなあ。君が頑張ってくれないと千秋ちゃんと私は死んじゃうなあ」
にたにたと笑いながら真っ直ぐ僕を見つめてくる。
その態度に、千秋ちゃんは少し驚いたのかもしれない。わずかに表情が歪んだ。
「最悪」
僕が一言漏らした瞬間だった。
ごんっと、扉を殴る音がした。
その場にいる全員が黙り込んだ。
「来たね」
先輩が漏らした言葉に呼応するように、ごんごんごんごん、まるでドラマで見たヤクザの借金の取り立てのようだ。動けず、息をひそめる。体感は五分以上。実際は三十秒程度だろうか。急に静寂が訪れる。
身を案じて先輩の方へと向きなおれば、目が合った。
相変わらず歪んだ笑いを浮かべてはいるが、わずかに頬が引きつっている。恐怖は感じているし、それも表情には出ているのだ。それ以上に、恍惚としているだけで。
それなのに、こういう時に僕を見つめる先輩の瞳は、妙に優しい。
これはダメだ。全力で楽しんでいる。引く気がない。
つまり僕がどうにかするしかない。
玄関へ向き直る。カタン、と郵便受けが閉まった。
何か、いたか? 僕は何かを、見たか?
わからない。けれど、年齢の読めない真っ黒な目がこちらを見ていた気がする。
何か、武器が欲しい。
これも数々の心霊体験で学んだ知見だ。
人間、武器があれば、反撃する手段があれば強気に出られるし、多少、冷静でいられる。武器が出てくるホラーゲームは、あまり怖くないというあれだ。
そして、強気に出られれば大抵のオカルトはどうにかなるのだ。
一番、破壊力が出そうなのは日々のトレーニングに使っているダンベルだろうか。見様によっては金剛杵に見えなくもない気がする。効果があるかは不明だが。
「筋肉ヴァジュラだ、この野郎」
下らない独り言を漏らすが、緊張は消えない。
息を殺し、すり足でドアに近づく。
ドアスコープをのぞいたが、何も見えない。
塞がれているか――向こうも覗いているか。自身の想像で、背筋が薄ら寒くなりかける。
いけない。強気に出なければ。
「どちら様ですか?」
念のための、こちらの問いに返ってきたのは、再びのノックの乱打だった。
ダメだ。明らかにやばい奴だ。人間か、幽霊か、そのほかのサムシングかはさておき。
――どうするか。
警察への通報。千秋ちゃんの存在の説明と、到着までの時間をどう稼ぐべきか。先輩が取り調べを受けることにはならないか。
先輩との逃走。千秋ちゃんを見捨てることを先輩がどう思うか。先輩が不要な負い目を感じることにはならないか。
逆襲を仕掛ける。僕の勝率はどの程度か。僕の負けが、即先輩への被害に繋がる行動を取るべきなのか。
考えるうちに、ノックがまた止まった。
覚悟を決める。
チェーンを外し、震える指で鍵を回す。
音を鳴らしてはならない。不意を突くのはこちらでなければ。
大丈夫、この程度の恐怖であれば、今までに数回経験している。
相手がオカルトであっても、人間であっても、だ。
オカルトであるか、人間であるか。どちらをより覚悟しておくべきかを考える。
おそらくはオカルトだ。こんなにタイミングよく人間が襲撃してくることはないだろう。人間であったとしても、オカルトに関連する人間だ。
出来ればただのオカルティックな何かが良い。人間を襲えるオカルトなんてそうそうにいない。大抵は脅かすだけで精いっぱいだ。
大丈夫。おそらくは、ただの三下お化けだ。
襲撃される恐怖、逃げられない恐怖。それ以上はない。大丈夫。自分に言い聞かせる。
震えそうになる呼吸を殺す。
どうせ、扉の向こうには何もいなくて、それで終わりだ。
指に力を込める。
急に、ドアの向こうが騒がしくなる。怒声、罵声、何かがぶつかる音、くぐもった悲鳴。
驚いて、指が震え、鍵が回った。
カチと音がしたが、ドアの向こうの喧騒にかき消されたように思う。その喧噪もやがて落ち着く。
少し空いて、足音が聞こえて、インターホンが鳴った。
ドアスコープをのぞく。誰もいない。
どうするべきか。
状況を打破するとしたら、ここがチャンスのような気がする。
「おい、俺だ。開けろ。いるんだろ?」
突然、聞こえてきたのは聞きなじんだ男の声だった。
一気に、緊張が抜ける。
「開いてるよ。入って」
それでも、しっかりとダンベルは握りしめておく。
知り合いの声真似はホラーの定番だ。
「おー。マジか。お前、何してんだ?」
ドアノブを開けて、入ってきたのは金髪ヤンキー。耳にはピアスがごりごりに開いている。ジーンズにパーカー姿の少年を、十字架のネックレスやら梵字の指輪やら数珠のようなブレスレットやら、アクセサリーが無節操に騒がしく飾り立てている。
もともと、生傷が絶えない奴ではあるけれど、両の拳に血が滲んでいることと、左目の下、瞼のところに四センチほどの新しい傷があるのが目立つ。
今度こそ、完全に僕は緊張を解いた。
入ってきたのは、僕の数少ない友人だった。
さて、先輩が大好きで、その時間のほとんどを先輩に関わることに費やしている僕にも男友達の一人くらいはいる。
この友人が変な奴で、僕たちの誰彼のお茶会なんて鼻で笑えるくらい、幽霊や不思議なことにどっぷりと浸かっている奴だった。
なにせ、高校生にして心霊屋を営んでいる。
心霊屋とは何か、と聞けば『心霊にかかわる何でも屋』と返ってくる。心霊屋の中にも色々と横のつながりがあり、それぞれに得意不得意があるらしく、相互に仕事を都合・補完しあっているのだという。
それで、得意な仕事が何か、と聞けば、返ってくる答えは『祓い、ないしは戦闘系』なのだ。祓うことしかできない、ただし、祓いであれば荒事もやる、と。
実に主人公である。実に英雄である。
ついでに名前も蒼土(ヒロト)という。
だから、僕はこの友人をヒロと呼んでいる。
千秋ちゃんと出会ってから、今日までの三日間の話をヒロにする。したところ、ヒロは頭を抱えてしまっていた。
「毎度毎度、お前らはさあ……こう、変に向こう見ずというか、ブレーキついてないというか」
このヤンキーは外見は、いかにも不良といった体である。だが、それはあくまでも、その荒事歓迎の心霊屋としての面子を保つ為なのだという。
正直、その目論見は半分成功半分失敗と言ったところか。
金髪やピアスといった派手な装飾、本人の場慣れした雰囲気もあり、見ようによっては強者の圧のようなものが無くはない、けれど、見ようによってはただの不良高校生だ。
もっとも、ピアス以外のアクセサリーは本人曰く『実は仕事用の本物』とのこと。
その本質は良識のあるお人よし。そんなだから、僕に巻き込まれてしまうのだ。
罪悪感はなくもないが、僕とヒロはとある約束を交わしている。
僕は先輩に関わるときに限り、無制限でヒロを頼っても良い。
そして、ヒロはある二人の人物が関わるときに限り、無制限で僕を頼っても良い。
そんな盟約があった。
「初めまして。俺はヒロ、青木蒼土と言います。まだまだ新参者ですが、心霊屋をやってます。もし、何かございましたらぜひごひいきに」
「ええ、よろしくお願いいたしますね。ヒロ」
ヒロにも、千秋ちゃんにも、その態度に違和感を感じた。
ヒロは妙に腰が低く、千秋ちゃんも千秋ちゃんでその声色に不遜さのようなものを滲ませている。これも千秋ちゃんが生粋であるがゆえなのだろうか。
何かを察したように、ヒロは僕に小声で伝えてくる。
「たぶん、知らずに一緒にいるんだろうが、オカルト世界のお姫様の一人だ。本人が説明しないことを俺が説明できるはずもないから、俺には詳細を聞くなよ? ただ、いろいろと気を付けとけ」
聞こえているのか、いないのか。千秋ちゃんはにこりとほほ笑むだけ。ヒロと千秋ちゃんに変な緊張感がある。なるほど、つまり今、この瞬間、意図せずこの場は英雄がお姫様に謁見する玉座になっていた訳だ。
もっとも、いきなりお姫様と言われてもピンとこない。まあ、美少女であるのは確かなのだけれど。
僕はとりあえず、いままでどおりに動くことにする。
「そういや、何しに来たんだい?」
「ん」
少々、間があった。
「俺の用事はいいや。ちょっと頼みごとがあったんだけど、今は無理だろう。
他にも、近々、少し仕事付き合ってほしいってのと、ついでにツレがいないなら飯行こうぜ、とか、あといくつかあったんだが……あとで連絡する」
「了解。仕事ならいつでも歓迎だよ」
そう答えると、ヒロは満足そうに笑い、千秋ちゃんに一つ頭を下げて、出ていこうとする。
ああ、そうだ。聞いておかなければ。
「そういえば、外に何かいた?」
「……ん? なんの話だ?」
「ヒロが来る直前まで、滅茶苦茶大きな音してたんだけど。人外か、人間か。祓ったのか。追い払ってくれたは知らないけれど、ヒロのおかげなのかなってね」
僕はこの友人に、その程度の信頼はおいている。けれど、ヒロは全く思い当たる節がないのか、口元を手で覆い、少し何事かを考えた様子だった。
「すまん、分からねえ。確かに、何か祓った気がするけど。俺自身、何を祓ったのかも分かってなかってねえな。たぶん、俺を歓迎したくない連中を連れてきてたんだろ。いつものだ。たぶんな」
ヒロは自分自身を良く害虫駆除剤に例える。普段、清掃されていない場所に害虫駆除剤を何の準備も無く撒いてしまうと、害虫が一斉に逃げ出し、阿鼻叫喚の図になってしまう。それと同じように、ヒロ自身がオカルトに対し、良く効くからこそ、近づくだけで、逃げ出したり、最後の抵抗を試みたりする存在がいるのだという。
もっとも、本人は効果は高いものの、ほとんど視えないという体質のせいで、自信が引き起こしている大騒ぎに気付けていないことも多いそうだが。
「中、ねえ」
「なんだよ。引っかかる言い方だな? そもそも、ろくに視えねえ俺に『何かいた?』なんて聞くんじゃねえよ。俺が視えるんだったお前の仕事なんてねえよ」
「ああ、ごめん。今日は一日いろいろありすぎたね。忘れてほしい」
こういった部分でヒロを疑ってはいない。特に今回は先輩が近くにいた。ヒロは先輩が危うくなることだけはしない。それだけはお互い様だ。だから信用している。
少し考えすぎている。気を張りすぎているのかもしれない。
そんな自分を自覚して、溜息を漏らす。キッチンのビニール椅子に座って伸びをする。少しだけ、頭がすっきりした気がした。
ヒロと目が合う。
「お前さ。視るのは結構な精度だけど、強くはないんだから、無理すんなよ……まあ、俺が言えたことでもないんだけどな。さて、もう行くぞ。まあ、変なものがあんまり出るようだったら、早めに俺を呼べよ? お前のツレには相変わらず歓迎されなさそうだけど」
ヒロは僕にそう言い残すと、千秋ちゃんにぺこりと頭を下げ、今度こそ帰っていく。
それを見送って、僕はもう一度、深呼吸のようなため息を一つ。
一体何だったのか。
よくわからない存在が襲撃してきたかと思えば、友人が現れて、よくわからないまま去っていった。言葉にするとそれだけなのだが、一日の終わりに随分とヘヴィーな事件が起きたものだと思う。
「まったく、あの人は何をしているのだか」
千秋ちゃんは憤慨、というよりは戸惑うように、そう言った。
「こういう時は、いつだってあの人が駆けつけてくれたのに。申し訳ありません。まさか、こんなことになるだなんて」
それは世話役への絶対の信頼の形なのだろう。
何があったとしても、きっと世話役は駆けつける。その事実が彼女にとって、あまりに当然のことであるからこそ、怒るというよりは戸惑う。一体、何が起きているのだろうかと。
「まったく彼は何時もいいところで邪魔をするねえ?」
いいところってなんですか先輩。まあ、確かにあいつが出てきた瞬間、気が抜けたのは確かですが。
先輩は普段からヒロが苦手だ。正直、外見も性格もお互いあまり噛み合いは良くなさそうなのは僕にもわかる。もっとも、先輩の場合。たいていの人間が苦手で、ヒロがそのたいていに含まれる、というだけなのだが。
ついでに、今までも僕らが何度か怖い思いをしている時に、彼が颯爽と助けに来てくれたということがあった。それが気に食わないらしい。
「それはそうと、もう見ても良いかい?」
「どうぞ。お待たせしました」
茶化しながら僕が頷くと、スマートフォンを覗き込み、新たに追加された画像を眺め、きゃっきゃとはしゃぎ始めた。
僕はいつ淹れたのかも覚えていない冷め切ったインスタントコーヒーを一口だけすすった。もはや何度目かもわからない、ため息が漏れる。
荒事歓迎のヒロは対オカルトだけではなく、対人間においても、そこそこの強さを持ち合わせている。その友人の拳に血が滲んでいた。つまりは、オカルティックな存在ではなく、実際に悪意を持つ存在がいた可能性も高い気がする。
ただ、僕はともかく、先輩の身に危険を及ぼす選択肢を、ヒロは取らない。それがヒロと僕との関係における絶対律だ。
先輩の身が危険に晒されることは今のところ、無いはずだ。
だから、先輩が楽しかったなら、それでめでたしめでたしなのだ。
「君、これを見てごらんよ」
先輩は素敵な笑顔を疲れ切った僕へ向けながら、楽しげに語る。
「最後の写真。ファイルが壊れてて、見れないんだよ。君が見るなと言った、最後の一枚だけ。いったい、何が映っていたんだろうねえ。オカルトのロマンだねえ」
僕は思わず微笑んだ。
きらきらとした瞳でこちらを見てくる先輩で、散々な一日の帳尻があってしまう自分が本当に嫌だ。
***
その後、僕は一人、スマートフォンを片手に、画像を漁る作業をしていた。既に先輩も千秋ちゃんも、眠っている。
公園で見た幻視。その視界に違和感があるものがいくつもあった。それが気になっていた。
現状、一番気になっているのはどこかホテルのような窓から双眼鏡で、こちらを見ていた視点。あの瞬間、視界の中の僕と目が合った、彼は何者か。
残念ながら、画像には残っていない。だが、田舎町だ。記憶の中で見た風景と一致しそうな建造物は少ない。おそらくは、国道沿いのビジネスホテル。
わざわざ、ビジネスホテルから、公園を双眼鏡で覗く存在。そして、僕と目が合うほどに、こちらを注視していた存在。
それはこちらを監視していたのではないのか?
もちろん、ただのそういった趣味嗜好の持ち主の可能性は否定できない。
美少女と、先輩の女の子二人、まあ、覗き趣味の人間の標的にはなりそうな相手ではある。
――本当にそうか? 比較的人でにぎわっているとはいえ、ただの田舎の公園だ。わざわざ覗き趣味の為だけに、ホテルに宿泊するのは効率が悪すぎないだろうか? さすがに違和感があるのではないか? そいつが、実はついさっき、ここに襲撃をかけようとした存在だったのではないのか?
まだ、ある。
波打つ視界の中、丸く切り抜かれた視界からゆがんだ僕たちを遠方から見上げるように眺めていた風景。こちらは画像が残されている。
これはきっとスネルの窓だ。空気と水の屈折率の違いによって、起こる現象。水中から地上を見上げると、丸い窓から魚眼レンズを通したような風景として見える。では窓の外側はどうなっているのかと言えば、水面で光が全反射し、鏡のように水の中が映し出される。プールのような底を見通せるような水深ではプールの床が反射するし、深い水では反射すべき光がなく、闇となる。
となると、親水公園の人造池の水中から見ていたのか?
それは違うように思う。画像として残っていた写真のイグジフ情報の座標も滞在していた整備された場所とは違う山中となっている。比較的近隣の山奥だった。そこにはスネルの窓が出来るほどの沼や湖がある場所もない。そして、僕らを見上げているはずの視線だが、その場所の標高は僕らがいた山よりもずっと高い場所だった。
つまり、山の土中深い場所から、僕らを何者かが見上げていた、ということになる。
それはいったいどこか。そんな場所から僕らを視るのは何者か。
いや、僕は画像には残っていない、その真実に触れていたのではないか。
写真ではただの真っ黒にしか見えないその窓の外側の闇に、うごめく触手や蔦を僕は視ていたのではないか。それは、実はみっしりと詰められた顔と手では無かったか。蜘蛛の糸に群がるがごとき、地獄の底の無数の亡者を、僕は視ていなかったか。
「良いね。世の中は電波と、オカルトに満ちている。頭にアルミホイル巻かなくちゃ」
今朝の眼球の空想といい、どうも今日は妄想が激しい日らしい。だから、もう一つ、妄想することにする。
先ほど、予兆のように届いた写真の群れ。
真っ暗な何も映っていない写真と、人間の視点を切り取ったような写真。それぞれ複数枚。そして、データが破損した一枚。
きっと、これらの写真こそが呪詛だった。最後の一枚の写真には僕らの死体が写っていて――見てしまえば、正体不明の襲撃者に僕らは写真のように殺されたのだろう。
ヒロが入ってきた瞬間に、何かを祓った、と言っていたのが本当だとすれば、その呪詛を祓ったのではなかろうか。
そんな想像が頭から離れない。
あくびを一つ。
流石に少し眠ろうか。眠気のせいで、妄想に拍車がかかっている気がする。考えもまとまらない。
眠る前、最後に通話アプリを確認する。
先輩とヒロ以外の連絡先が存在しない。
そのヒロからは、彼が帰った直後辺りに連絡が来ており、内容は明日の仕事の詳細だった。すでに承諾の返信を送ってある。
スマートフォンをおいて、眠りにつこうと、キッチンに突っ伏す。ふとヒロがさらりと口にしたことが思い浮かぶ。
『いろいろと気をつけろ』
あれはヒロなりの気遣いだった。危ないから、手を引け。おそらく、そう言っている。
「分かってても引けないことはあるからねえ」
先輩が入れ込んでいる限り、僕はそれに付き合うのだから。
大体、僕はオカルトへ続く、入り口を先輩とともに開けたけれど、僕と先輩をオカルトの大海に引き込んだのは半分はヒロと彼の想い人のせいなのだ。あるいは、彼らのおかげ、とも言えるか。
それに、手を引けと言われているとしても、ヒロを巻き込むことが出来たという安心感がある。ヒロも僕も、お互いに、想い人の為なら一線を超える人間だったし、超えてしまったことのある人間だ。だから、信頼している。
他の事はともかく、先輩を意図的に傷つけることだけは、ヒロはしない。
それだけで十分だ。
僕は、キッチンに突っ伏して、目をつむった。
春とはいえ、床にもつかず、何も羽織らずに眠ろうとする僕が見える。
違和感に、薄目を開ける。
僕は老爺の幽霊と目が合い、僕は僕と目が合った。
ああ、もう。なんて混線だ。祓うのも億劫だ。
目を閉じる僕の背を、見守りながら、僕は眠りについた。
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