2 三月二十四日五時ごろより終日。

「実は、知り合いの美人の山姥が隣町で美容室をやっております。早速で申し訳ないのですが、その山姥のところに、頭蓋骨の代替をつくりに行きたいのです」

 死体少女の千秋ちゃんがそんな提案をしてきたのは今朝、僕が朝のシャワーを終えて一息ついたタイミングのことだった。


 結局、昨晩、眠りについたのは午前三時過ぎ。世話をしていただきたい、という千秋ちゃんからの申し出を案の定、先輩は前のめりに承諾した。勢いで承諾した後にしまったといった表情で『私が賛成なのだから、君だって賛成するだろう? ね? いいよね?』そんなちょっと弱気な視線をこっちに投げかけてくるものだから、僕はもう承諾するほかなかったのだ。

 何せ、僕は先輩のお願いを叶えるためにいるのだから。

 それにしても、本当に、庇護欲をくすぐるのが上手な人だと思う。いちいち僕の愛を試してくる。譲歩しているのはこちらのはずなのに『ああ、そんな不安そうな顔をさせてしまった』『どうして、僕は先回って承諾できないのか』と申し訳なくなるのだ。

 そうして、僕からの了承も得た先輩はあれやこれやと千秋ちゃんの世話を焼き、その後は自身はベッドに腰かけ、おしゃべりを続けていると思ったら、二時を過ぎたあたりで、電池が切れたようにかくんと眠ってしまったのだ。

 良くわからない関係のまま二人きりになった僕らは会話も少なに、それじゃあ、寝ようか、という流れとなった。すると、千秋ちゃんはソファーに座ったままで眠るというものだから、僕はキッチンの椅子に腰かけたまま、いつものように一人眠ったのだ。疲労感と素っ頓狂な状況への若干の興奮はあったが、比較的すんなりと眠りにつくことはできた。それでも、熟睡とはいかず、目が覚めたのはまだ五時過ぎ。こんな状況でも普段通りの時間に目を覚ましてしまう自分に驚きながらも、そういえば、と目をやれば、薄暗い部屋の中でばっちりと起きている千秋ちゃんと目が合った。

 どきり、とした。

 美少女というのにも、悪い部分はあるらしい。欠損してなお美しい少女は、カーテンの向こうからかすかに漏れている明滅する街灯の光に照らされていた。美しいからこそ、どこか不気味で、瞬きも碌にせず、こちらを真っ直ぐに見つめる単眼は、まるで僕を監視しているようだった。

 少しだけ、千秋ちゃんへの警戒度を上げる。もしかしたら、危険な存在なのではないだろうか。そう思いつつも、先輩を起こさないように小声で眠らないのか、と聞いてみる。千秋ちゃんから返ってきた言葉は『心配させてしまったでしょうか。実は正直、この状態では眠ろうにも眠れないのです。眠る機能が現在、停止中、というのが正しいでしょうか。目をつむっているだけでも、多少、休めますので大丈夫ですよ』と苦笑が返ってくる。そんな話を聞いてしまえば、自分だけが二度寝するのもなんだか申し訳ない気持ちになる。眠気覚ましのコーヒーをすすりながら、ぼんやりとした頭で年齢やら趣味やら好きな食べ物やらと何とか話題を探して語りかける。『十五才です。誕生日というものがないので、数え歳で、ですけども』『いろいろありますが、一番の趣味は読書でしょうか』『最近はラーメンと甘いものが好きです。たくさんの種類があって楽しいです』などと会話が返ってくるものの上手く続けることができない。

 結局、間を持たせきれず、ハッキリしない頭と気まずさを少しでもごまかすためにシャワーへと逃走したのが午前六時前。

 熱めのシャワーで目を覚まし、仕上げに冷水を浴びる。そんな風に手早くシャワーを済ませ、四時間程度しか干していない生乾きのバスタオルで体を拭う。部屋に戻れば朝焼けで白んだ光が差し込んでいた。暗闇に慣れた目は真っ白に染まる。

 細めた目に最初に映るのは黒髪、朝焼けに溶けだしそうな白い肌は逆光でかすかに影がさすことで辛うじて輪郭を残す。バスタオルで包み隠された頭部の欠損も、片目だけでこちらを見つめる瞳も。汚らわしさが浄化されて、ただ何か大切なものが壊れてしまった切なさを残して、そこにある。

 意見をくるくるとひっくり返すが、なるほど顔が良いというのは得である。暴力的な美しさで、信仰を勝ち取り得る。どうかご命令を、神託を僕に、女神様。

 先輩に惚れていなければ、うっかり彼女を崇めたてていたかもしれない。

 儚さの具現のような姿を見せられて、ただでさえ眠い僕はふわふわと夢の中にあるようだった。そんなうすぼんやりとしたままの頭で僕は何かしてほしいことはあるか、と聞いた。

 そして、その回答が『山姥のところへ頭蓋骨を作りに行きたい』という希望だったのである。

「なんて?」

 思わず聞き返したのは、眠い頭のせいなのか、それとも情報量の多さ故か。

 千秋ちゃんは再び困ったような苦笑を浮かべる。

 彼誰時の一瞬の澄んだ夢は去る。神秘的な儚さを醸しだしていた少女は、ささやき声ではあるけれど、死んでいる割に随分と快活にお話をする美少女へと変貌する。それはそれで奇妙な夢かもしれないが。

「眠ければ、眠ってしまえばよろしいですのに」

「そうも行かないでしょ? 先輩がいつ起きるかもわからない、君を一人ぼっちにしておくのは気が引ける。となれば、起きているしかない」

「お優しいのですね。じゃあ、私も、その優しさに甘えさせていただきましょう。お話しを聞いてくださいな。あのですね」

 少し距離を開けて、千秋ちゃんの隣。ソファに座る。

 楽し気な声で、千秋ちゃんは語り始める。

「隣町には、山姥がいるのです」


 その山姥の齢は五百を優に超えています、まさに大妖怪。なんでもその齢も数え始めたのは、人間と共に暮らし始めた頃からだというから驚きですよね。

 けれど、このお話の一番の驚きは、別のところにございます。これから話す山姥の起源。そんな何百年も前のお話、一時期は口伝民話にもなったというこの話が、非常にモダンな展開であるという部分なのですよ。

 物語はありきたりにむかしむかし、から始まります。

 むかしむかし、あるところに何某という男の子がおりました。この子には祭りのための餅をついていたら生まれただの、神様が力試しに折った木の根本から生まれただの、やたら縁起の良い異常誕生譚が付加されたバリエーションがあります。しかしながら、結局のところ、周りよりかは体躯の良いこと以外は何か特別であったわけではない、普通の子供だった、とのことです。どのお話もこの少年に特別な固有名詞を与えてはいないのですが、餅から生まれたということで、餅太郎、という仮名を与えましょうか。

 どういたしました? 私、何か変なことを申し上げましたでしょうか? ……とりあえず、続けて、ですか。

 それでは、さてはて、餅太郎はすくすくと育ったわけですが、ちょうど、そのころ、山を三つ程、超えた先の谷に山姥が住み着きました。

 山姥は周辺の村々に生贄を要求したそうでございます。なんでも一つの村につき、毎月一人の生贄を寄越せと要求したそうです。山姥本人曰く、生贄なんか貰っても困る、生贄を要求するのは山姥なんかよりもっと偉大で、もっと理解できない存在だ、とのことですが、とかく伝承の上では山姥が生贄を要求したと、そういうお話でございます。

 周囲の村々は困り果てた。中には生贄を断った村もあったそうですが、そういった村は山姥が降りてきて、すべての村人を殺して、食べてしまったそうです。山姥曰く、これも現実とはだいぶ違うそうですが、さておき。

 そんな山姥に困ってしまった村人たちと餅太郎の両親。

 餅太郎は山姥退治を誓って、村を出ます。

 山を、一つ越え、二つ超え、三つ超え、餅太郎は勇ましくあゆみ、山姥のところへ向かいます。

 この餅太郎により、山姥は討たれるわけです。

 最後に餅太郎は捕らえられていた娘と結婚したとか、侍になったとか、こちらもいくつかのバリエーションがありまして、とにかく、めでたしめでたし、で終わる訳でございます。

 そして、この物語に登場した山姥が隣町で美容室をやっております。彼女のところに行きたいのです。彼女であれば私の頭蓋の代わりを作ることができますし、こんな状態の私にも少し出来ることが増やせるはずなのです。


「というお話でございます。何か仰りたいことがありそうですね?」

「討たれていないじゃないか、というのが一番かな」

 昔話で討たれたはずの山姥が、現代にいたるまで生き延び、隣町で美容室をやっている。つまり、それは討たれたというのが虚構であるか、その美容師が山姥だというのが虚構であるか、のいずれかだろう。

「そうです。討たれておりません。二番目は?」

「どの辺がモダンな展開なの?」

「それはご本人にお会いした時に聞いていただく、ということで如何でしょうか? 最近では惚気られる相手も減ってしまった、などと嘆いておりますので、お話相手を探しているご様子でしたし。それにご本人もまだまだ若々しいお方ですよ。先日、お会いした時は先の世界大会に触発されて、BMXとスケートボードを始めたと仰られていましたね。彼女に会うことはあなたたちにとっても実入りのある話だと思うのですが」

 確かに、面白そうな話だった。

 僕と先輩はこの一年、いろいろな幽霊や、妖怪や、神のような何かや、あるいはそれ以外に出会ってきた。けれど、山姥には今のところ出会ったことがなかったし、何より、御年五百を超えてなおBMXとスケボーにハマる随分とクレイジーでイカしたババアに出会ってみたいのは確かだった。

 けれど、心配がないこともない。

 そもそも、千秋ちゃんをどう運ぶかという問題がある。当然のごとく、車はない。運転免許もない。怪我、と呼ぶにはあまりにも大きな欠損部位は隠していくにしろ、流石に背負って歩けば目立ちすぎるだろう。壊れた玩具を修理に持っていくのとは違うのだ。

 隣町、となると電車で三十分程度だろうか。ある程度の余裕は家計に無いわけではないけれど、タクシーを使うとなるとやはり結構な金額がかかってしまう。それにタクシーの運転手に、怪しまれてしまうのも避けたい。

 そんな風に悩みこんだ僕を、まるで見通したように楽し気に千秋ちゃんは言う。

「彼女は、あの先輩さんは退屈しているのでしょう? 後輩さんの頑張りどころ、なのではないでしょうか? 後日、諸々の費用はお支払いいたしますので」

 僕は一つ。これ見よがしにため息をついた。

 理由は二つ。

 どうやら僕と先輩の関係は、この少女にはたった十二時間で察せられてしまったらしい。そうして、からかいながら、僕の選択肢が最初から一つしかないことを突きつけてくる。いくら悩んだところで、先輩が起きて、この話を聞けば興味を示すに決まっている。そうなると、僕にはどうにかしてその美容室まで連れていく、という選択肢しか無くなる訳だ。金がないのは後日ではなく今なのです、とは思うけれど。

 もう一つは、あっという間に懐柔された自分自身に対して。この奇妙なおしゃべり死体の少女を、既に僕は信用しつつある。

「わかったよ。わかりましたよ。そうしましょう」

「ご賛同、ありがとうございます。よろしくお願いいたしますね」

 からかいが残る微笑みを浮かべながら、千秋ちゃんはそう言った。短い付き合いだが、本当によく笑う子だ。そして、それが似合っている。

 きっとこの子は悪い子ではないが、自信の笑顔が武器になることを知っている強かな子なのだろう。そして、たぶん。

「千秋ちゃん、君結構、いじわるだし、ずるいね」

「ええ、狡賢さは生きていく知恵ですよ。何より、人生は短いのです。言い残した、とか、やり残した、とか、御免ですから」

 すごく優しくて、すごく大人だ。

 千秋ちゃんの口の端から、血がこぼれはじめていた。喋る言葉にも喘鳴のような音が混じっている。聞いているだけで随分、辛そうだ。

 この雑談を望んでいたのは、どちらかと言えば沈黙に耐えられない僕だった。そんな僕を察した上で、千秋ちゃんは無理して喋ってくれていたのだろう。

 タオルで口の端の血を拭う。

「ごめんね。無理してしゃべらなくていいよ。僕は元々、おしゃべりな方らしくてね。独り言も多いんだ。僕に合わせる必要はないよ」

「こちらこそ、ごめんなさい。ありがとうございます。けれど、昨日もお伝え致しましたが、言うほど苦しくはないのですよ。ただ、あんまり血の処理をさせるのも申し訳ありませんね。だから、良かったら今度は後輩さん、あなたがお話してくださいな」

「なんの話を?」

「なんの話でも結構です。ただ、そう、茶化すのではなく、たぶんあなたが話しやすいのは、先輩の話で、恋とか愛の話じゃないでしょうか」

「恋の話ねえ」

 そうだなあ。何を語ろうか。

 僕は殆どの時間を先輩と二人きりでいるから、僕らの事を誰かに語るというのは数少ない経験だった。

 そんなことを思いながら、朝の日差しの中、僕は語り始める。


 これは比喩なのだけれど、アダムとイブは恋をしていただろうか。

 世界に二人きりの世界で男女は恋をできるのだろうか。

 おそらく、愛することはできる。だけれど、恋をすることはできるだろうか。例えば、とてつもない恋物語の末に愛が結実したカップル――誰でもいいよ、達郎とカオルでも、ミニョンとユジンでも、瀧と三葉でも。ああ、ほとんどわからない? それはごめん。

 とにかく、彼らを二人きりで世界の中心に置いたときに、ちゃんと恋をできるのだろうか、という話なんだ。

 どうも世の中の人々は恋と愛とで比べると、愛を上位に置きたがる訳だけれど、結局、好意の種別を人間が使いやすいように定義しただけに過ぎないわけだ。

 たぶん、それはたいていの場合『自由と放蕩の違い』『正義と悪の違い』の様な立場によって見方が全く異なる曖昧なものなんだ。定義に個人の感情や想いが入るものを、自分の心地良いようにばっさりと線を引く、身勝手な仕分け。そう呼ぶと自分とその周囲の人が気持ち良くなる部分で線引きをして、言葉を定義したに過ぎない。『生徒よ、君たちは自由だが、放蕩であってはいけない』『我々の殺戮は正義であり、お前たちの殺戮は悪である』といった感じで。だから、その線引きは何時だってずれるし、変わるし、それぞれにそれなりの正統性を持つ。だから、愛の物語、自由の物語、正義の物語は時代と場所によって無限に語られるんだよ。いくらでも語り得るから。

 そんな、曖昧であるからこそ、無限に作られる恋と愛の定義。『恋とは下心、愛とは真心』『愛とは見返りを求めぬこと』『愛の反対は無関心』などなど、各々皆様方勝手に定義をしているわけだ。

 例えば、坂口安吾という人の恋愛論という本がある。

 ――ああ、坂口安吾は知っているんだ。でもごめん、僕は特別に彼の本が好きなわけではないよ。恋や愛を考えようとしたときにインターネットで引っかかっただけなんだ。

 さて、この作品には『惚れたというと、下品になる。愛すというといくらか上品な気がする』という表現から始まる一連の文章がある。その中には『日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ』ると書かれている訳だ。そして『ただ、すきだ、ということの一つなのだろう。すきだ、という心情に無数の差があるのかもしれぬ。その差の中に、すき、と、恋との別があるのかもしれないが、差は差であって、雰囲気ではないはずである』としめられる。

 こうした立場で、坂口安吾という人は恋とは何かを論じていく訳だ。 

 だから僕も先人を真似て、好きと愛と恋との差はどこにあるかを考えてみることにしたんだよ。ただし、僕は偉大なる先達とは違って僕が納得できるなら、雰囲気による曖昧な定義でも構わないんだ。僕が知りたいのは、例えば『饗宴』で語られるような、真の愛なんかじゃない。真の恋とは何か、真の好きとは何か、じゃなく、もっと、ごくごく普通の話なんだ。

 簡単に言ってしまえば、僕は先輩が大好きで仕方ないわけだけれど、それはちゃんと恋をしているのだろうか? という疑問が常にある。

 僕はある日、玄関の扉を開けたらそこに立っていたように、最高で絶対の存在である先輩に出会ったのだけど。

 ――ああ、ごめん。どうして、最高で絶対なのかは、語りつくせないし、時間がいくらあっても足りない。けど、そうだな。じゃあ、最高で絶対(仮)にしよう。なんなら最高で絶対(暫定)でも良い。最高で絶対であることが真実であるかどうかは、今のところ、そこまで重要ではない。今、僕の中で先輩という存在が絶対的である、ということが重要なんだ。

 と、いうのも、僕にとって、どうやら恋の本質というのは『比較すること・比較されること』にある気がするんだよ。

 それは僕が読んだ恋物語の多くが『恋か、それ以外か』ないしは『この恋か、あの恋か』の選択が常に付きまとうからだと思う。対して愛は絶対的なんだ。愛の物語は『その障害を、愛を以ていかに突破するのか、あるいは愛が敗北するのか』の物語になる。

 だから、僕は僕の中の身勝手な定義で、僕の雰囲気的なものとして『愛は絶対的で、恋は相対的』と設定しようと思う。『移ろう心が恋で、移ろわないのが愛』としても良い、あるいは愛は定義が広すぎるから移ろった先にも愛はある、と言えるのかもしれないけどね。

 さて、こう定義したときに、僕は先輩を愛してはいるが、先輩に恋をしていないかもしれない。先輩に対しての比較対象を僕は持っていない。ヤンデレって分かるかな? こっちはわかる。オーケイ。ヤンデレさんのように、身勝手で、自分勝手な感情であっても愛することは出来る。けれど、恋するには比較対象がいる。

 世界から愛する人と自分以外を排除するヤンデレさんは想い人を愛することはできても、恋は出来ないんだよ。

 愛するのは一人でもできる。愛は絶対的だから。

 けれど、恋は一人ではできないかもしれない。もしかしたら、二人でも出来ない。恋は相対的だから。

 そう思うと、だ。

 僕は先輩を愛している。今は愛のレベル上げに励む日々だ。

 けれど、恋はしていないのではないか?

 もっと平たく言おう。

 僕は、仮に先輩より優先すべきことを見つけた時に、それでもなお、先輩を好きでいられるか?

 先輩と何かが天秤の上に乗ったときに、躊躇わず先輩を取ることができるか?

 未来がわからないこの世界において『それでも、先輩が好きだよ』と囁くことができるかどうかの一点なんだ。

 話を最初に戻そう。

 余りにも突然に、完璧なまでに好きな人が出来てしまった僕は、この好きが絶対的過ぎて他の価値観を持てずにいる。

 アダムとイヴの恋。いわゆる解釈、ないしは妄想という奴でその物語には登場人物を増やすこともできたりもする。

 アダムの最初の妻ともされるリリス。その夫とも言われるサタン。

 そのサタンやリリスの化身としての蛇が、イヴを唆して禁断の果実、知恵の実をアダムとイヴは口にする。そして最終的にエデンの園を追われるのがいわゆる『失楽園』な訳だけれども。もしかしたら、アダムの肋骨から創られ、アダムを愛するように創られたイヴは恋を知りたかっただけなんじゃないだろうか。

 解釈は自由だ。知恵の実が意味するところ。それはイヴがサタンに抱かれたのか、リリスにアダムを馬鹿にされていイヴが逆上したのか。

 そこまでは知らないのだけれど……


   ***


「おーい。君、愛しの先輩が目を覚ましたのだから、目を覚ますと良いよ」

 先輩が僕を呼んでいる。聞くだけで、僕の思考を全て占領する先輩の声が。

 普通であるならば、ある意味、僕にとって最高の目覚めであったかもしれない。けれど、そんな思いは吹き飛んだ。

 がばりと身を起こす。時計は八時過ぎを指していた。

「嘘だろ?」

 そんな声が僕の口からもれた気がする。まさか、そんな。僕が先輩より遅く起きるなんて。

「嘘なもんか。随分とまあ、一晩で仲良くなったようで」

「え?」

 隣には、少し距離を開けて座っていたはずの千秋ちゃんが僕の方へと倒れこんでいた。

「ああ、お目覚めになられたのですね。よろしければ、私も起こしていただいてよろしいでしょうか?」

「もちろんだ。うちの後輩が粗相をしたみたいで申し訳ない。添寝……というにはずいぶん珍妙な体勢だったようだけれどね」

「いえいえ。粗相なんて。穴だらけの理論で恋と愛とを語りつくした最後に『僕はずっと先輩を好きでいられるだろうか』なんて可愛らしい悩みを私に打ち明けてくれましたよ。そのまま、語るうちに眠ってしまって、私のほうに倒れこんできたわけですが」

「君なあ。愛してくれるのはありがたいが、誰にでも惚気るのはあまり得点高くないぞ?」

 そんな茶化しあう二人の言葉を、僕は半分くらいしか聞いていなかったように思う。

 それほどの衝撃を受けていた。

「愛の敗北ですね」

 くすくすと、千秋ちゃんが笑っている。

「先輩さん、後輩さんが寝ているところ、見たことあります? あるいは、先輩さんからの連絡に、後輩さんの返事がなかったことは?」

「……いや、今が初めてだけど」

「折角なので、お伝えいたしますけど。察してあげてくださいね。先輩さんは、後輩さんに結構、無茶させてますよ。たぶん、後輩さんは先輩さんが絡むと眠れないんです。文字通りに。ときどき、餌をあげないと、浮気されてしまうかもしれませんよ。先輩さんへの恋を確かめるために」

「……君は気持ち悪いなあ?」

 照れ隠しにしても、流石にあんまりな言い分じゃないかなあ、それは。


 そうして、睡眠の大切さを千秋ちゃんに滔々と説かれ、二人とも覚悟を決めて、一緒に生きれば解決ですよ、事実、ほとんど同棲しているような物なのでしょう? などとからかわれた後、話の内容は山姥の話となった。

 案の定、先輩は全力で食いついた。

「ぜひ、会いに行こう。どうやってだって? そんなもの決まっているじゃないか。さあ、君、私の家まで車いすを取りに行くといい。昔、私の祖母が使っていたものだよ。外の物置にあるからね。さてさて、出ていきたまえ。女の子には準備というものがあるんだよ。車いすを取りに行ったついでに、一時間ほど、ブラついてくるが良いよ」

 先輩の趣味であろう妙に古めかしい鍵がいくつも連なった鍵束を渡され、部屋を追い出される。

「うわーい、憧れの先輩から合鍵を貰っちゃった」

「合鍵どころか本鍵だ。なくさないでくれたまえよ? 合鍵は家の中にしか置いてないんだから」

 つれないなあ。

「分かってますよ。じゃあ、行ってきます」

 まあ、先輩の家はそんなに遠くない。

 朝の澄んだ空気の中、散歩中のおじいさんや朝のジョギングに励む高校生とすれ違いつつ、誰もいない先輩の家に向かう。

 おおよそ二列四行で並んだ合計九棟のくすんだ豆腐のような公営住宅地帯、それに付随されるように設置されたいまいち整備の行き届いていない公園を抜けると、新しい家は少ない、どれもこれも築二十年、建売分譲ですといった似たような家ばかりの住宅地に入る。さらに、もう少し歩くと、家人の趣味に合わせて建てられたであろう戸建が並ぶようになる。

 その中の一軒。物音はせず、カーテンは全てピタリと閉じあわされたまま、部屋の中から明かりが漏れてくることもない。

「おじゃまします」

 敷地に入る時に思わず、口からこぼれた。

 小さな庭は季節に合わせて野草が芽生え始めていた。その奥、クリーム色の外壁にいくらか錆が浮き始めている二畳程のプレハブの物置がある。先輩に借りた鍵束は、その括りつけられている鍵のうちほとんどがキーホルダーだ。その鍵束の中、比較的現代的なつくりをした鍵二本のうち、小さい方が物置のもの。物置を開けてみれば、古びた自転車やら、スコップやらの中にまぎれて、一台の古い車いすが折りたたまれて、収納されている。

 車いすを運び出す。

 ほこりを被っていて、年季が入っているものの、ひとまず、役割は果たせそうだ。物置の中に放置されていた雑巾を見つける。庭の水道で雑巾を濡らすと、車いすを拭き上げていく。随分と長い間、放置されていたのだろう。ほこりに若干の油分が混じっているのか、しっかり力を入れなければ、汚れが落ちてくれない。

 先輩は、ためらうことなく千秋ちゃんをこんなおんぼろに乗せようというのだから、わからない。昨日、あれだけこだわってお人形遊びのように綺麗にしていたのに。

 最も、今はこれ以外の手段は無いのだから仕方ないわけだが。

 屈みこんで作業をしていたが、姿勢の辛さに一度立ち上がる。

 ふと、向かいの住宅の見知らぬ主婦と目が合った。主婦はふいと視線をそらし、家の中に入っていく。

 そういえば、と思い出す。向かいの家の主婦は、先輩の母親と同級生だった、とかなんとか。

 勝手知ったるは他人の家の事情。

 素晴らしきかな田舎の相互監視社会。

 あまり、居座るべきでもないだろう。車いすはそこそこ綺麗になっていた。


 自宅に戻ると、先輩は待ってましたとばかりに僕から車いすを回収すると、僕をもう一度、追い出した。入ってきたまえ、と入室の許可が出たのは十分後。

 千秋ちゃんは部屋の真ん中で車いすに腰かけていた。真っ白いワンピースにカーディガンを羽織っている。吹き飛んでいるはずの左頭部には包帯がまかれ、つばの大きな真っ白な帽子を被っている。なるほど、これならば派手にケガをした少女……で通るのだろうか? いかんせん、元の姿を知っているが故に不安にはなるのだが、それなりに誤魔化されているようには見えた。ただ、左目に付けられている青いバラの眼帯は間違いなく先輩の趣味によるものだろうけれど。

 一方、先輩は今日はジーンズを履いて、ずいぶんとすっきりとした服装だった。

「花はきちんと恥じらってこそだよ」

 なんて一瞬だけしょんぼりしながら、言う。

 確かに、千秋ちゃんは可愛い。綺麗だ。けれど、先輩だって十分、素敵なのに。

 そもそも、僕にとってはたぶん二人の戦場が違うのだ。先輩は僕の愛という存在価値を握っているのだから、もう少し自信を持ってほしい。僕が原因ではないしょんぼり顔は僕にはどうにもできないから辛い。

 僕としては、いつものお嬢様然とした服装も、今の軽装もどちらでも良かった。残念ながら、ファッションに詳しいわけでもない僕は、かわいいだとか、かっこいいだとかいった、実にカラカラに乾ききった新鮮味に欠ける意見しか持っていない。だから、僕がなにを伝えたところで、どうも薄っぺらい意見にしかならない気がする。

「良し。それじゃあ、行こうじゃないか。その隣町の美容院とやらへ」

 一人で、おー、なんて言いつつ、手を振り上げる先輩に対して、僕はちょっとだけ戸惑った。実は部屋を追い出されている間に調べていた、隣町へ向かう電車の時刻のことだ。次の電車まで一時間以上ある。駅までは徒歩で二十分ほど。残念ながら駅前で時間をつぶすところなんてコンビニくらいしかない。コンビニで先輩と雑談していれば一時間くらいは簡単に過ぎていくわけだけれど、今の状態を千秋ちゃんを連れてというのはどうだろうか。

「ま、なんとでもなるか」

 ぼやいて、僕は先輩に続く。

 残念ながら、このオンボロアパートはバリアフリーではない。玄関では、既に先輩が困った顔をしてこちらを振り返っているのだから。


 次の電車まで一時間以上空いている、待ち時間はどうしようか、そんな考えは杞憂であると僕はすぐに気づいた。

 僕らが住む町は人口が六万人程度、限界集落とまではいかないけれど、程ほどの田舎町。歩いて二キロ程度先の駅に向かう。車いすを押しながらの移動はなかなかに大変で、歩道の段差や、何気ない石、小さな段差を拾っては車いすが揺れてしまう。本当は体を寝かせられるようなタイプの車いすが良かったのだと思うけれど、残念ながら、そんな機能はない一般的な車いす。固定帯もなく、振動一つで倒れそうな千秋ちゃんを支えて五十分余り。意外とギリギリだった。

 一息つく余裕もなく、電車への乗車に苦労する。ワンマン列車だったけれど、人の好さげな運転手さんが苦戦に気付いて、手伝ってくれた。乗ってしまえば、田舎の電車のすかすかっぷりが幸いして、ようやっと一息つける。三十分ほど電車で運ばれる間、車いすを先輩と僕が交互に支えた。目的の都市は庁舎所在地。駅から出て目的地は一キロちょっと先にある。

 繁華街として栄える東口に背を向け、西口から出ると、五百メートルもしないうちに高層の建物は姿を消し、古い建物が目立ち始める。地元より整備されている道でこそあるものの、気をつけて歩まねばいけないのは変わらない。

 喫茶店を曲がり、裏道を一本入ったそこにあるのはこじんまりとした店舗併用住居があった。小さな張り出しのビニール屋根の下、白い洋風の扉。真鍮のドアノブはすっかり光沢を失い、飴色になっている。使い込まれた色合いに、かつての盛況が見て取れる。

 サインポールの隣、ぼろぼろの看板があがっている。

 理容・美容『髪ふうせん』

 僕は何年もクローズドのままになっていそうな入口のプレートを気にしつつ、その扉を開く。


「ごめんください」

 扉についているベルがちりん、となる。

 まず、視界に入ってきたのは、待合のソファーの良く日の当たる場所で居眠りをする老爺だった。大きな観葉植物に囲まれて、こっくりこっくりと舟をこいでいる。

 次に壁にならぶ三枚の大きな鏡。三枚のうち、髪を切る椅子が残っているのは端の一か所だけで、他の椅子は撤去されていた。代わりに置かれているBMX。

 そのBMXの隣、手と頬を油まみれにして、自転車の整備をしている青年がいた。

「はーい?」

 少し低い声で、二十歳くらいに見える、その青年が立ち上がった。長身のひょろりとした眼鏡の男だ。初見で男、と判断したものの、うっすらと化粧をしているようにも見えるし、長髪をアップにしている姿はスレンダーな女性にも見える気がする。こちらを見て、一瞬怪訝そうな顔をしたものの、千秋ちゃんを見て、驚いたようだった。

「え、嘘? やだ、千秋ちゃん?」

「はい。お久しぶりです。マヤさん」

「一年ぶりかしら? あなたが旅に出る前に、寄って以来じゃない!」

「マヤさんもお変わり無い様で。本当にBMXを始めたんですね。世話役に聞いておりましたが」

「ふふ。良いでしょう? 旦那が最近じゃ、すっかり眠ってばかりだからね。私も今は興味持ったことを少しでもやってみようと思って」

 マヤと呼ばれた人物は、千秋ちゃんに近づくと、目線を落とす。

 そして、たぶん、異常に気付いたのだろう、一瞬だけ、目の端で鋭く、探るような視線で先輩と僕を見た。値踏みするような、視線だけで人を緊張させられる、威圧感がある。

「そんなお顔なさらないで下さいな。こちらの方々は協力者ですよ。昨晩、動けない私を拾って、ここまで連れて来てくださったんです」

「あら、あなたがここに案内するんだもの。変な疑いはかけてないわよ。それにしても随分なものを拾っちゃったとは思うけどね」

 そういうと、青年は立ち上がり、自身の胸に手を当てる。

 確信に近い、もしかして、という予感がある。

「私は山姥のマヤ。マヤでいいわ。今後ともよろしく」

 僕と先輩は予感通りの予想外に何も言えずに、立ち尽くす。

「さて、お話ししたいことは有るけれど、とりあえず、やるべきことをやってしまいましょうか」

 マヤさんはそういうと、一機だけある妙な機械へと向かっていったのだ。


 スタンドドライヤー、おかまドライヤーとも呼ばれるものだね、先輩が説明したそれは本来、ただの多機能ドライヤーであるらしい。

 リクライニングチェアの後ろに、なにやら機械がつながっており、頭の上には可動式のドームがある。使い方としては、椅子に座り、頭をすっぽりと覆う形で機械のドームをかぶるそうだ。ドームの奥から温風が出て、髪を乾かしたり、パーマをかけることができるという仕組みで、最近はハンディドライヤーや、パーマネント液の進化で使われることは減ったのだという。

 パッと見た感じでは、レトロな映画で出てくるマッドな博士の研究アイテムだ。頭にかぶせて捕虜やスパイの記憶を探ったり、弄ったり、あるいは、自身がかぶって入力装置に使ったり、思考速度をあげたりするあれだ。

 今、そのスタンドドライヤーはそんな映画もかくやな使われ方をしている。

 マヤさんがリクライニングチェアに千秋ちゃんを座らせ、機械のドームをかぶせると、椅子の下部からカプセルが展開。すっぽりと千秋ちゃんが覆われてしまった。内部に青みのかかったなんらかの溶液が満ちると、千秋ちゃんはゆるゆると目をつむり、眠ってしまったように見える。

 カプセルの隣、マヤさんは端末に表示された数字をせわしなくタッチパネルとキーボードで調整している。

 そんな千秋ちゃんとマヤさんを傍目で見ながら、僕と先輩は待合のソファーの端で紅茶をご馳走になっていた。隣のソファーでは相変わらず、老爺が静かに眠っていた。今は、体を揺らすことはなく、うつむき、どこか穏やかな笑みを浮かべているように見えた。

 眠る千秋ちゃん。眠る老人。

 巨大な観葉植物と、整備中のBMXにかかる日差しも穏やかに。

 マヤさんがカチャカチャと機械をいじる音が遠くから聞こえる。

 異物だらけながらも、どこか午睡を誘うようなゆったりとした空気だった。

 マヤさんは忙しそうにしながらも、僕と先輩に紅茶を注いでくれていた。その紅茶を口にした先輩がほぅっと、小さく満足げなため息のような呼吸を漏らした。

 僕も紅茶を少し飲む。

「僕が入れたのよりおいしい……」

 思わぬところで、ダメージを受ける。普段、僕が入れる紅茶とは香りも味も段違いだった。素人の付け焼刃だという自覚はあったが、ここまで味が違うのか。茶葉の違いだけとは思えない。

「あら、あなたも紅茶いれるの?」

「先輩の趣味で。僕はあまり飲まないので」

「なるほど。けど、それじゃあ、美味しくならないわよ?」

「どちらかというとコーヒーの方が好きで」

 そう答えると、マヤさんは一度振り返り、微笑みながら、軽く首を振った。

「違うわ、少年。君が飲むか飲まないか、じゃない。精神性の問題よ。先輩のために入れるんじゃないの。先輩に喜んでもらう自分のために美味しい紅茶を入れるのよ。真に他人の為に出来ることなんてあまり無いわ。それを自覚して、恥じてこそ、本当に先輩の為に紅茶をいれるということに繋がるの。その思考のほんの少しのニュアンスが紅茶の味も、人生も変えるのよ。昔、マザーテレサも言ってたのよ? 思考に気をつけなさい、ってね。聞いたことない?」

 僕は少しむすっとしてしまったのかもしれない。マヤさんはあなたを応援しているつもりなのよ、そんな顔しないの、なんて言いながらも、指先を端末上で激しく行き来させていた。

「だから、誰にでも惚気るものではないよ。でも、そうだね。君がこんな紅茶を入れられるようになったら素敵ではあるかもしれないね」

 先輩はどこか困ったような顔で、けれどどこか嬉しそうな声色で先輩は僕を見る。何も言えず、僕は紅茶をすする。いちいち拗ねてしまっている自分の幼稚さが惨めになる。けれど、しょうがないじゃないか。だって、僕だって、先輩の為に頑張っているのに。

 そんなことがありつつも、五分ほど経ったころ、おーわり、などという一言とともに、マヤさんは伸びをした。

「しかし、これで千秋ちゃんは生き返るんですか?」

 そう聞いたのは先輩だった。

「生き返るも何も、死んでいないからね。あなたたち、千秋ちゃんをなんだと思ってるの?」

 そういえば。

 確かに僕らは何を拾ってしまったのだろうか。

 よくよく考えてみれば、名前と世話役が来るまで匿ってほしい、ということ以外は朝方の雑談でほんの少し聞いただけ。答えに窮してしまったのは先輩も同じようで、唇に指先をあてながら考え込んでいる。

 マヤさんは怒りとも、困惑ともつかないような何とも言えない表情で眉間に指先をあて、小さく首を横に振った。

「なるほどなるほど。いろいろとすごい状況だとは思ったけれど、思った以上にすごい子たちに拾われちゃったのね。あの子。君たちは向こう見ずというか、他人に対して本質的に失礼というか。お互いにもう少しだけ色んなものに視野を広げて、興味を持ちなさいな」

 さてと、どこから説明しましょうか。

 思案顔のマヤさんはすっかり濃くなってしまったティーポットの紅茶を、自身のカップに少しだけ注いだ。差し湯を注ぎ、ティースプーンで、二度、三度かき混ぜる。

 ゆっくりと、静かに語り始める。


 あのね、千秋ちゃんは、基本的には普通の人間なのよ。そして、生きているから、死んでいないの。

 定義の問題だけれど、死んでしまったら、お終いなの。どうやって生きているかはともかく、死ぬ、というのは不可逆的な状態のことを言うのよ。そういう意味で、彼女は生きている。頭が吹き飛ぼうと、眼球がどこかに行ってしまおうと、内臓がぐちゃぐちゃになっていようと、彼女、という意識が続いている。続いている以上、死んではいないのよ。言い方を変えると、死から蘇った場合、死だと思ったそれは死ではなかった。死の淵にいたのかもしれないけれど、死んではいなかった、とすべきでしょうね。

 医学における死の判定だって、似たようなものよ。

 呼吸の停止、脈拍の停止、瞳孔の拡大を以て、死と決められているけども、生きている人間は誰も死んだこともなければ、死んでしまった人に聞くわけもいかないから、本当にそれが『死』であるかなんて、誰も知りえないのよ。『前例を見る限り、人間がこうなってしまえば意識もないっぽいし、死んだってことでいいよね』という処理を生きている人間がしているだけ、という話。いわゆる脳死なんかもその死に関する判定の基準を新たに作っただけに過ぎないわ。

 ちょっとだけ話を逸らせてみると、例えば、最近、ネットで見かけた怖い話だと、死んだ後も実は意識が続いている、というものがあったわね。遺体になって火で焼かれると熱くて苦しいけど、何もできない。骨になって砕かれる、墓に入れられる。その間も、意識だけは永遠に残る。何もできないまま、永遠に意識は残る。そんなお話。私はそんなことは信じていないけれど、それを完全に否定することができないのがこの話の一番怖いところかしらね。

 とにかく、生と死は、そんな風に線引きされて管理されている。

 そして、千秋ちゃんは死なずに、今も存在が続いている。だから彼女は生きている。

 もちろん、これは彼女の存在や思考を担保してる化け物――ああ、これは比喩で、あくまで人間。千冬ちゃんが世話役とか、お付きの者とか呼んでいる人間ね。本当に今頃、何やってるんだか――とにかく、こいつの能力のお陰だから特殊な例ではあるのだけれど、ね。言い方を変えると、こいつのせいで、千秋ちゃんは死ねずにいる、とも言えるわ。

 じゃあ、私が今、何をしているのか。私の手元には、約一年前の千秋ちゃんが健康で元気だった時のデータがある。これは、こうなる可能性を見越して、保存しておいたものね。それを元に、元気だった頃の肉体を再生している最中。さっきまでしてたのは中学生の一年分の成長を加味して、再生するための演算ね。成長期だから、中々、大変なのよね。私も出来る限りは寄せたつもりだけど、どれだけ差異が出てしまうか……。

 え、なに? 完全に元通りになるのか? いや、全然、駄目ね。完全な回復にはほど遠い。何より、この方法では脳を再生できないのよ。正確に言えば、脳を再生してはならない、かしら。この機械には脳を再生する機能はないけれど、そもそも、有ったとしても脳を再生してはならない。例えば、この機械の精度をあげていけば、いつか脳の再生自体はできなくもないかもしれないのだけど、その場合、以前との同一性を今の人類には担保できないのよ。

 そう、先輩ちゃんのいう通り。スワンプマンにも似ている話ね。

 後輩君はぴんときてないみたいね? 哲学上の思考実験よ。

 簡単に説明しましょうか。とある沼のほとり、落雷でとある男が死ぬ。その時、なにがしかの奇跡で、落雷のエネルギーと沼の成分から、死んだ男と全く同一の存在が生成されてしまった。この存在は原子レベルで死んだ男と同じ構成であるから、記憶や性格も同一であるとしましょう。この存在をスワンプマンと呼ぶ訳だけど。このスワンプマンは元の男本人であると言えるか否かという話なのよ。

 あるいは、怖い話でもたまに見るわね。

 若返りの手術がある。不安を抱きつつもそれを老人が受けることとなった。隣の病室から、声が聞こえる。『手術は成功です』『ありがとうございます。ところでこれはどうするんですか?』『捨てますよ。もう不要ですから』ああよかった、信頼できるらしい。と、老人は安心するという内容。

 話のオチは若返りの手術とは、今現在の老人と同じ記憶を持った若い体の新しい存在を作ることだった、となるわね。つまり、主人公になっている老人は廃棄処分となってしまう、というお話。

 結局、自己の証明というものは、その本人の自我以外にその人間の自己を証明する手段がない。他人の自我――他我の証明というのは非常に難しい、という話なのよ。

 もっと簡単に例えましょうか? 先輩ちゃんと後輩君がぶつかって、私たち、入れ替わってる? とやったところで、傍から見て、それを証明する手段が無いのよねえ。本当に入れ替わったのか、入れ替わったふりをしているのか、脳へのダメージのせいで入れ替わったと思っている二人がいるのか、あるいは他の何かなのか。その確認手段がないのよ。

 さて、他我を確認する手段を人類はもたない。

 そうなると、脳を再生してしまえば、ここに蘇ったのは、千秋ちゃんなのか、千秋ちゃんに非常に良く似た他人なのか。証明する方法がない。だから、脳は再生しちゃダメなの。それでは千秋ちゃんを蘇らせたのか、千秋ちゃんによく似た誰かを作り上げたのか、分からなくなってしまうから。

 自我の主たる在処が脳である、自我は脳に依存すると定義する場合、脳を作るというのは自我を作ってしまうことになりかねない、ということね。まあ、自我の存在証明として、人間は魂という概念を創り出したわけだけど、それは今回は置いておきましょう。魂なんて、実在しないものを語っても仕方ないわ。

 とにかく、自我を維持するという行為を行えるのは、本来、自分自身だけ。今回でいえば、千秋ちゃん自身だけなのよ。まあ、今回はさっき言った化け物が少し状況を変えているのだけど。

 もちろん、再生するのは脳ではなければ、大丈夫。腕や足だから許される、というものでもないのだけどね。結局、医療というのは、それが科学的手法であろうと、魔術的手法であろうと、倫理や哲学抜きで語れない。医療で治療できる範囲が広がるに連れて、より我々は根本的な問題に突き当たるの。

 仮にぐちゃぐちゃになった脳みそから脳を再生できるようになったとして、その人は死ぬ前の人物と同じ人物なのか。映画やゲームのようにクローンで作られた体のストックがあったとして、それを交換した場合は同じ人物であるか。さらに時代が進んで遺伝情報やその経歴からある瞬間の人体を組成できたとして、それは同じ人物であるか。

 何が人間で、何が人生であるのか。人間と人生の目的は何であるのか、何のために生まれて、何のために生きるのか。どこからが個性で、どこからが病や負傷なのか。それが不明なままでは、医療は何を治せば良いのかわからない。

 例えば、かつてはその人の個性――うっかりもの、ドジ、あるいはもっと酷い言葉で個性とされてきたものが、今では病とされているように。かつては病とされた性嗜好が大切な個性と受け取られているように。

 脳の再生、言うのは簡単だけれども、考えるべきことは多いわ。

 ――ま、もっとも、今は出来ないのだから、そんなこと悩む必要もないとも言えるのだけど、ね。


 そこまで語って、マヤさんはティーカップの紅茶を飲み干した。

「というわけで、彼女の治療が終わったところで、どこまで機能が回復するかは定かじゃないのよ。もっとも、脳みそやら体液やら垂れ流しの状況は変わると思うけれどね。それ以上は期待しないで頂戴」

 長いため息が出た。想像以上に難しい話だった。けれど、気になるのは。

「千秋ちゃんはいったい何者なんですか?」

 そう、千秋ちゃんはいったい何者なのだろう。何もないところで空から降ってきたという少女、まるで死体のような状態になっても生きていた少女、こんなところに山姥がいることを知っていた少女、そこで治療を受けている少女。

「そうねえ。世界の救世主、女神様ってところかしら。綺麗な言葉でいえば、ね。それ以上のことは本人に聞いてみなさいな。ただし、もう少し仲良くなって、出来れば本人から語るのを待ってあげてほしいかしら。きっと、あなたたちには話すつもりでいると思うわ。まあ、今のところはオカルトのプロ、くらいの認識で良いと思う」

 暖かな日差しの中、先輩が胸元で小さく手をあげた。

「では、失礼ながら。あなたは何者なんですか? 山姥、という話ですが、その、正直なところ……」

 あはは。言葉を濁した先輩を、からりとマヤさんは笑い飛ばした。

「いいわね、その調子で周りに興味を持つといいわ。そ、妖怪とはいえ、一応、性別があるとしたら、今の肉体的には男だよ。精神的には女だけど。私ね、この人にフラれてるのよ。この人の先祖……まあ、一族の初代と言ってもいいかな。その人に、一族がピンチの時には、その代の嫁になってくれって頼まれてたから、ここまで頑張ってきたんだけどねー。この人の一人目のお嫁さんがさ、子供を作る前に亡くなっちゃって。これは実に四代ぶり、久しぶりにピンチじゃないかと山から下りてきて、アタックしたんだけど、これがまあ、失敗しちゃって。一人目のお嫁さんが本当に大好きだったみたいでさ。その人に操は捧げてるから、自分は男やもめで過ごすつもりです、とかいわれちゃって。だから、そこからは変化の術的なやつでどろんと。この格好でずうっと過ごしてるってわけ。

 という訳で、ごめんね。少年。地母神としてのエッチなお姉さんモードは封印中なの」

 急にからかわれる。正直、ひょろい眼鏡男にいわれても反応に困る。

 反論しようとしたところを、畳みかけるようにマヤさんは喋り続ける。そういえば、惚気る相手を探している、という話だったか。

 半世紀ほど前に、老爺が黒髪の美しかった一人目のお嫁さんに惚れ込んで、自身の道を美容師に定めたこと。

 それから数年。やもめとなった老爺はマヤさんを妻にはしてくれなかったものの、結局、マヤさんは押しかけ親友になったこと。

 それから十年ほどで、二人で独立開業したということ。マヤさんは数年に一度姿を変えていたから誰にもバレなかったこと。

 三十年ほど前に、老爺が一度だけ、浮気をしたということ。マヤさんはショックのあまり、山に帰ったが、老爺の形振り構わずの全力の謝罪に渋々、戻ってきたということ。

 二十年ほど前に、老爺の少し年の離れた弟に念願の子供――つまりは、老爺にとっての甥が出来たということ。老爺はあまりにも喜びすぎて、本人よりも大喜びだったとのこと。

 ここ十年で今代で知り合った友人が急速に皆、死んでいっているということ。

 慣れてはいるが、すごく寂しいとのこと。

 ここ数年で。

 齢を重ねた老爺に、少しずつ、忘れられて、正直、話が合わないこともしょっちゅうだということ。

 楽しい話ばかりじゃなかったけれど、妙に楽し気なマヤさんの語り口のせいで、自然と笑ってしまいそうになる話ばかりだった。

「この人、土下座しながら『お前さんを男にしたんだから、俺は女になる』って、ナニ切り落とそうとしたのよね。止めなかったら、たぶん、あれマジで落としてたわよ。勝手に腹決めて、勝手に暴走するのよね。ほんと一族そろって昔っから変わらないの」

「甥っ子が生まれたときは、年甲斐もなく義弟さんより呑みすぎて。この人の親族、もう義弟さんしかいなかったから。これで墓の心配はいらなくなった、なんて。遺産と先祖の墓を押し付けるとか、最近の流行りじゃないから必要以上に期待しちゃだめよー? って言ったら、今度は拗ねちゃって。子供いらないって決めたの自分なのにねえ」

「いやあ、正直、歳の取らないパートナーがいるって痴呆には絶対良くないわあ。あれよ。テレビじゃなくて現実に、由美かおるが常に隣にいるようなものよ? そりゃ混乱するわ……あ、ダメ? わからない?」

 語るマヤさんは時折、壁の一か所に飾られた写真を見つめていた。

 それは日に焼けて、セピアに色がぼやけてしまった結婚写真。

 結婚式を挙げたであろうホテルで撮られたそれに写っているのは緊張に顔をこわばらせる花婿と、柔和に微笑む花嫁。

 純白の花嫁衣裳も、黒いタキシードも、青と黄色と赤のステンドグラスも全て茶褐色に滲んでいる。

 きっと、この花嫁の髪は花婿が結ったのだろう、となんとなく思った。


 そんな話をしているうちに、唐突に機械音が鳴った。

「……終わったわね」

 マヤさんは立ち上がると、機械の方へと向かう。

 カプセルがゆっくりと開いていき、千秋ちゃんの姿が現れ始める。左目も頭部も見た目には傷が癒えているように見える。

 長いまつげがふるふると震え、千秋ちゃんが目覚める。

「体、起こせるかしら?」

 マヤさんの問いかけに、千秋ちゃんは何やら体を数回捩った後、首を振る。

「すみません、ダメみたいです。さっきまでよりはだいぶ良いみたいですが」

「そう。まあ、正直、あの大けがで、修繕用のデータも一年以上前のもの。そうなるのもしかたないわ。馴染んでくればもう少しよくなるとは思うけれど。動かすわよ?」

 マヤさんはそのまま、千秋ちゃんを抱きかかえると車いすに移動させる。細身の体のわりに随分と力強い、しっかりとした手つきだった。どこからか太いゴム帯を持ってくると、千秋ちゃんの胸を車いすの背もたれごと、まとめて巻きつける。

「これは?」

「あの人に使ってる固定帯。いくつかあるから心配しなくていいわ。きつくない?」

「ええ」

 ほら、あなたたちもこっち来る、とマヤさんに呼ばれる。

「巻くのはこの辺り、固定方法はこれ、体調によってきつさの体感が変わるからちゃんと着用感の確認を都度するのよ? 紅茶と一緒」

 そんなことを言われながら、僕らは固定帯の使い方の指導を受ける。

「来る時よりは随分と楽なはずだけどね。多少は千秋ちゃんも体のバランスをとれるようになったはずだし、車いすの整備もしておいたし。ただ、まだ危ないからね。移動をするときは付けておきなさいな」

 そうして、マヤさんは少し悩んだような素振りを見せた。

「三人ともちょっと楽しそうだから、言いづらいのだけど。それでも、一つ確認するわね。あなたたち、一緒にいるってことでいいのね? なんとなく理解できると思うけれど、私と千秋ちゃんの家は浅からぬ縁――というか、遠縁の親戚みたいなものなの。さらに言えば、正直、今の状況は一般人にとってはなかなか荷が重い状況なのよ? しばらく滞在するならうちにいた方が不便はないと思うけど」

「え、やだ……」

 小声ながらも、即答したのは先輩だった。そうして、口から出した後に、また困った顔をしている。

 ため息は二つ。

 マヤさんと僕。もっとも、マヤさんは本当にどうしたものかしら、といった様子。僕は苦笑交じりだ。先輩がこういう反応をするのは予想ができていたし、予想通りになったことに少しだけ誰に対してでもない個人的な優越感を感じる。

「ええ、お二人が問題なければ、私はぜひお世話になりたいです」

「先輩が嫌、とのことなので、僕としても千秋ちゃんが嫌じゃなければもう少し一緒に居させて頂けると」

 困っている先輩に、僕ら二人の援護が入る。

 その様子に、マヤさんは首を一、二度、横に振った。

「わかった。そうね。じゃあ、一つだけ。サービスしてあげる。動いちゃだめよ」

 そういうと、こちらににじり寄る。ソファーに座っていた僕はついつい仰け反る。そこを抑え込まれた。左手で顔を固定される。顔が近い。

「動くなって言ったじゃない」

 笑うマヤさんが、僕の眼に何か液体を垂らす。

「さあ、目を閉じて」

 促されるまま瞳を閉じる。瞼の上に指を当てられている感覚があった。

「あの、マヤさん?」

「大丈夫。ほんの少しだけ、あなたの左目をチューニングするわ。物理的には、千秋ちゃんの涙をあなたの眼にいれただけよ。もともと、感度は高い――比較的見える方の人間な訳だからね。調整してあげるだけで、受信できるはずよ」

「受信って、何を?」

「勿論、千秋ちゃんの左目の視界を」

 左目に少しずつ熱を感じ始める。

「千秋ちゃんの見た目はだいぶ良くなった。けれど、基本的には何も治っていないわ。もちろん、左目も見えていない。義眼が入っているだけ。あのね、一緒にいるなら、眼球を探してあげなさい。その辺で拾った猫の目を入れるわけにもいかないでしょう?」

 ふと、一つ疑問がわいた。

「良いですけど、どうして? 脳を治療できない理由はわかったんです。目を治療できない理由は?」

「治療できない訳じゃないわ。ただ、そこに価値があるから治療したくない、しない方が良いのよ。血液や体液はもともと体内という構造にあっても大量生産、大量消費されるもの。そして、オカルト的な意味でも比較的入手しやすい道具としてよく使われるの。イメージできるでしょ? 魔女の大窯に入っていそうなものとして。

 対して、眼球はその人個人のワンオフなものだからね。オカルト的な意味でも価値が高いの。

 比喩するなら幸福の王子よ。サファイアの瞳がなくなった。いつか原型がなくなるまで王子が世界に身を尽くすとして、それが彼の意志ならば構わない。ただ、おっちょこちょいな王子がうっかり落としただとか、情状酌量の余地のない盗人にくすねられたのなら、それを探しに行くのがツバメの使命ではないかしら」

 目をとざした暗闇の中、先輩がなるほど、と呟いたのが聞こえる。先輩が納得いったのなら、僕もそれに付き合うまでだ。

「わかりました。続けてください」

「ん。言い遅れたけれど、日常での左目の視力が一時的に少し下がるかもしれないわ。いつだって、祝福は呪いでもある。恒久的なものでは無いはずだし、割の良いトレードにはなっているはずだけれど、そこは謝っておくわ。ごめんなさいね」

「あの、マヤさん。お二人にそこまでして頂く訳には」

 千秋ちゃんの声を遮るように、マヤさんが喋り始める。

「偉大なるおばさんを信じなさいな。千秋ちゃん。あなたは可能な限り、世界を見なきゃならない。だから、あなたの付き人もこんなに時間かけてるんでしょ。あのバカが、あなたを放っておくわけがないんだから。年が近い相手との友人関係、そしてその友情の効果というのも、大事な世界を構築する要素よ。一緒にいるというのなら、それを経験なさいな」

「でも……」

「それにね、千秋ちゃん。緊急時にあなたの保護することを命じられた者としても、私は理由もなく、あなたを放り出すことはできない。自身の眼球を探す為に、協力者と一緒にいる。そのくらいの理由がないと、ね。だから、これもひとつの人助けだと思いなさい」

 うう、千秋ちゃんがわずかにうなるような声を上げて、黙った。どうも口の達者さではマヤさんに軍配が上がるようだ。

「それと、先輩ちゃん? これは単なる『年の功』なんだけども、後輩君をどうするのかは早めに決めた方がお得よ? 若いうちのダラダラした男女の友情関係は滅茶苦茶後腐れるからねえ。それが百パーセント友情であるときのみ、竹馬の友、なんて表現される美談になったりするのだけど」

 突然、何を言うのか、この人は。いや、山姥か。

 マヤさんのその言葉は、からかっているのか、真面目なのか、表情が見えないのもあって、わからなかった。先輩はどんな顔をしているのだろう。

 そうこうするうちに、まだ目を開けちゃダメよ? そう聞こえたかと思うと、瞼の上がさらに熱くなった。たぶん、暖かい蒸しタオルを載せられたのだ。

「それが冷めるまで目を開けちゃだーめ」

 その間、四人で雑談をしていた訳だけど、マヤさんは本当に話が上手な人だった。それは彼女の話が面白い、というだけではなく、僕らそれぞれが話しやすい話題をそれぞれにトスしてくれているのだ。それに気付けたのは、僕が目を閉じて会話だけに集中していたのが大きいかもしれない。

 僕らは気付くといろんな話をしていた。

 紅茶の淹れ方の話。

 BMXやスケートボードの話。

 先輩と、千秋ちゃんの服の話。

 そして、コイバナ。なるほど、誰にでも惚気るべきでないという先輩の言葉がようやっと少しわかった。動けない、目が見えない、というあまり積極的に会話に参加できない状況で、自分の話をされるのはむず痒いものがある。

 その中で、少し、意外だったのは千秋ちゃんのお付きの人の話だった。相変わらず、詳細は良くわからないが千秋ちゃんから見て、非常に憧れの存在で、素敵な人だというのは理解した。傍から聞いている分には、お付きの人に千秋ちゃんは恋をしているようだった。

 そんな話を一通り語ったタイミングですっかり体温と変わらぬ程度まで冷めたタオルを、マヤさんが取り払った。

 僕の瞳を覗き込んで、たぶん、大丈夫ね。とマヤさんが漏らして、そして言葉を続けた。

「少年。私は古い山姥だから、敵対しない女性には甘いし、惚れた相手以外の男には、厳しく育てるの。頑張りなさい、応援してるわ」

 ぱしんと、腹部のあたりを叩かれる。

「さて、やることやったら追い出すわけじゃないけれど、そろそろ帰りなさいな。時間は貴重なんだから。特にあなたたちにとってはね。困ったら連絡してきなさい」

 僕らはそう促されて帰り支度を始める。

 日は傾き、わずかにオレンジ色に染まっていた。帰りの電車を調べてみれば次の電車まで三十分少々。それを逃すと、さらに一時間先だ。なるほど、少し急がなければ。

「マヤさん。ありがとうございました。それでは私たちはおいとまいたしますね」

 お世話になりました。僕が玄関で一礼し、外に出ようとした時だった。

「連れて行って、くれないのか!」

 ひどく、太く、明瞭な声で、老爺が叫んでいた。

 さっきまで座っていたソファーから立ち上がり、体をわずかに震わせている。

「連れて行って、くれないのか!!」

 今一度、老爺が叫ぶ。目は、真っすぐに僕を見つめている。

「連れて、行って、くれないのか!」

 壊れたようにそれだけを叫ぶ。酷い裏切りにあったような、恨みと、切なさのこもった声だった。

 僕は、驚いて何も言えない。何も言えない僕を、皆が見つめている。

「ダメですよ。少年が困ってしまっています」

 老爺の肩を押しとどめるように、マヤさんがお爺さんを座らせた。視線をこちらに走らせて、千秋ちゃんと僕を見る。

「ごめんなさいね。ちょっと興奮しちゃったみたい。普段と違う状況にあてられたかしらね。それじゃあね」

 マヤさんは手を振った。僕はなんとなく、もう一度、頭を下げて、扉を閉めた。


 そうして、また三十分程、電車に揺られた後、夕日の中、僕らはゆっくりと帰路へ就いていた。春の田舎道をのんびりと。

 もちろん、少し疲れていたから、というのもあるけれど、それ以上に妙な満足感があった。山姥に出会った。千秋ちゃんは少し良くなった。山姥に面白い話を聞いた。そうして、今、心地よい温度の夕暮れを散歩気分で歩いている。先輩と千秋ちゃんもあれやこれやら話しながら、楽しそうにしている。なんでも、近々、服を買いに行こうとか。食べられるようになったら、紹介したいお店があるとか。

 先輩が楽しそうにしていて、千秋ちゃんも楽しそうにしていて、だから、よかったと思う。

 充実した一日というのは、今日みたいな日の事を言うのだろう。

「あ」

 一つ、思い出した。

「そういえば、彼女の一人目の――昔話の内容のほうを聞き忘れた。いろいろ、面白そうな話だったのに」

「次に会うことがあれば聞いてみるといいですよ。のろけられる相手は、彼女、いつだって探していますから。でも、まあ、おおよそ想像通りですよ。一人目といわず、彼女は愛が深いですから。歴代の旦那さんたちとの想い出を語ってくれるはずです。昔はスタイリストの真似事もやっていたみたいですから、デートの前に使ってあげてくださいな」

 千秋ちゃんが笑い、先輩に軽くむっとされる。

 いやあ、そんな顔をされましても。


   ***


 夕陽が差し込む美容室。


 私は私を妻にしてくれなかった男の横で、穏やかな時を過ごす。

 全く、連れて行ってくれないのか、だなんて。

 私の方も無理やり押しかけて親友にしてもらったという引け目がなくはない。が、この人には勝手にどこかに行かないで欲しいものだ。

 夫婦では無かったけれど、いなくなると寂しいには違いない。


 そして思い出す。

 ずいぶん古びたけれど、それでも消えない始まりの記憶を。


 私は生贄を生業とする呪術師の家系に生まれた。

 自らの命を代償に誰かの願いをかなえる家系。

 なんでも初代は天狗と結婚して力を得たのだとか。

 とにかく一族はその代の中で一番能力の高い父を筆頭に、力の強い女たちで構成された子産み役の母が幾人もおり、そして彼らから産まれる無数の使い捨ての子たちがいた。

 私は、その中で次代の母となる役割を与えられていた。母となるべく、それなりの教育を受け、よい食事をもらい出産に耐えられるように肥えさせられ、何より褥の作法を学ばされた。しかし、幾人もいる母候補の中で常に末席をうろついていた。

 まだ目も明かぬ赤子のうち、へその緒も切られぬままに、茹でられ、煎じられ、薬へと姿を変えた弟がいた。生まれてすぐ、手足を切り取られ育てられ、ようやっと這いずり回れるようになったころ、龍神が宿るという岩へ打ち付けられて死んだ妹がいた。言葉を話したと同時に、舌を抜かれ、焼けた鉄を飲まされた甥がいた。一族への忠誠、あるいは貞淑というものをぼんやりと理解し始めたころ、偉人の荒御霊の鎮魂に生き埋めにされた姪がいた。

 蟲毒でお互いを喰らいあった無数の親族がいた。


 私の一族は、死に対して酷く鈍感だった。

 アリやハチのように一族の為に死ぬものが当たり前にいる存在だから当然だった。

 あるいは、それらの昆虫よりも、もっと酷かったのかもしれない。

 私の一族の大半は死ぬ瞬間にしか意味がない、死ぬために生まれてきた存在であったから。

 そんな中で、私は死を恐れていた。

 勿論、私のほかにも死を恐れている家族もいた。

 その中でも、ことさら死への恐怖を抱いていたのが私だった。

 何故、と聞かれても理由などない。

 いつしか思った、死ぬのは怖いという極めて普通な感情を押し殺すことができなかった。

 ただそれだけだ。

 いつか、私がしがみついているこの立場から蹴落とされるかもしれない。

 私の生きていて良いという資格が奪われて、私は道具となり下がるかもしれない。

 だから、私は必死に学び、良き妻で、良き女であろうとした。

 生きるために。

 そんな死に、おびえながら生きていた、ある日。


 蹴落とされたということに気付くより早く、私はあっさりと山中に放り出された。

 何のことはない。

 つまり、党首にとっては私がどのような存在であろうと――次代の子をなす存在であろうと、今代の財を成す存在であろうとどちらでもよかったのだ。


 私は、死に行くにあたって、山姥の話を聞かされていた。

 やれ、人を丸のみにするだの。やれ、体中に醜く出来物が出来ているだの。やれ、伸びっぱなしの髪が大蛇のように蠢くだの。

 そんな恐ろしい山姥が山中にはいて、それを鎮める為の贄だと。


 私は山の中に一人放り出された。

 目をつぶされるでもなく、手足を切り取られるでもなく、ただ、放り出された。

 昼夜もろくにわからぬ鬱蒼と茂った真っ暗な森の中、闇に潜む何者かの気配がする。気付くと私は夢中で走り出していた。

 死にたくない。死にたくない。死にたくない!

 やがて、飢えと渇きが訪れる。空腹にあえぎながらも、闇の中の何かから逃げ続ける。

 飢餓が極致に至ったとき、私の目の前に、柔らかくて新鮮な肉が落ちていた。

 小さな小さな、がりがりにやせた人間の赤ん坊だった。


 そして、私は山姥になった。

 山姥がいなければ困ってしまう人々の願いのために。

 山姥がいるのだから、姥捨て子捨てもしょうがないじゃないか。

 そんな言い訳の為に。

 彼らの言い訳を、言い訳にして私も山姥であり続けた。

 私が誰よりも死を恐れていたからこそ、私を山姥にすることこそが目的だった気付いた頃には、もう随分と多くの人間を喰ってしまっていた。


「じゃあ、お前も一人なんだなあ」

 そう言って、身の上話を終えた私の顔を彼は愛おしそうに撫でた。山姥と成り果てた私の姿は既に醜く、老い、腐り、乱れて、腫瘍と膿に塗れていたはずなのに。

 山姥である私をあっさりと組み伏した豪胆なこの若い偉丈夫は私を殺そうとはせず、私に身の上話を求めたのだ。どうして、人を喰らうのか、と。

「なあ。腹が減っているなら、村を襲いに行かないか? 飢饉とはいえ、俺たち二人だけなら、十分に食える分が蓄えられているさ」

 村を、襲う?

「故郷を、襲う。あそこならば土地勘もある」

 でも、そんなことをしても何も。

「いや、あいつらは飢饉で食糧を奪い合っている。少しでも実りのある田を奪おうと、少しでも自分らの田に水を引こうと、少しでも生き残ろうと必死だ。もしかしたら、襲わなかった村には感謝されるかもしれないぞ」

 二人きりで襲っても返り討ちにあうだけだよ。

「どうせ、お互い明日の無い身だろ? 何を怖がる必要があるのか。一人は、怖い。一人で生きるのは、怖い。一人で死ぬのも怖い。でも、お前と二人なら少しだけ、怖くない。死ぬときに手をつないでいられたら。せめて、姿を見ながら死ぬことができたなら、ほんの少しだけ怖くない」

 ……故郷なんでしょ?

「親父もおふくろも、俺を捨てた。生きるために、俺を捨てた。村の連中が寄ってたかって、俺を捨てた。誰より働いたのは俺なのに。体がでかいのは、盗み食いをするからだと、冬を前に村を追い出された。

 そのでかい体で山姥を倒して来いと。

 今更、なんの感情があろうか」

 良いの?

「お前だってそうだ。皆に悪者にされた。ここに山姥がいないと困るから、お前が生まれた。そういうことだろう? なら、そんな皆の願いを叶えるのなんて辞めてしまうといい。俺とともにいろ。そうして、俺の願いだけを叶えろ」

 それでも、あなた一人だけの願いでは変わらない。私の体は様々な人たちの願いでできている。願いを叶えるための体なのだ。

「いいや、変わる。変えられるよう、俺は凄いやつになる。俺一人で、そこら辺の人間の何倍も価値のあるやつになる。手始めに、俺は村をいくつも滅ぼす、俺は大悪党、鬼になろう。なんなら、お前を山姥にしたやつ、全員を殺してしまおうか」

 そんな。そんな……。

「それでもダメならば、俺は武士になろう。悪人ではならぬというのならば。戦で殺せば褒められるなら、俺は戦人になろう。鬼より強い戦士になろう。だから、俺と一緒にいてくれ。真っ暗な森で一人きりは寂しいんだ」


 私より年下で、私よりずいぶん大きな背丈のその少年は、私の胸に顔をうずめて泣いていた。一心に、本当に一心に。

 奇跡のように一心に祈り、泣いてくれた。

 だから、私は――。

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