1 三月二十三日十九時前後から翌二十四日一時前後まで。
田舎町。
市街のはずれの古びた市営団地は、格安の家賃にも拘わらず、空室も目立つ。
その一室、真っ暗な玄関、一人暮らしには少し広い2LDK。
ポストには電気代とガスの振込用紙、それに水道料金の督促状。水道は三か月までセーフだ。それに、同窓会のお便り。残念ながら、同窓会にお呼ばれするような人はここにいません。
僕は電気をつけてスポーツタオルを手に取った。日課にしているジョギングの帰り道に思い切り、雨に降られてしまった。確かに天気は崩れ始めていたのだけれど、特に計画もなく、何とかなるだろう、と走りに出た結果だった。
「嫌になるねえ」
ぼやきながら、ざっくり雨を拭っていく。どうせ、すぐにシャワーを浴びる予定だ。
「あと三十分、降り始めが遅れてくれれば、ここまで濡れずに済んだってのに」
君は独り言が多い、とは、先輩――女性で高校生。つまりは女子高生だ――による、僕に関する所見だ。その後には『さみしがり屋で被虐趣味。真面目な癖に、時々、極端な程に面倒くさがり。そこそこ賢いくせに、考えた末に、びっくりするほど脳筋な回答を出す』と続く。
その評価にいろいろと思うところはある。例えば、その先輩自身も僕を超えるくらいのさみしがり屋のかまってちゃんで、さらに言ってしまえば臆病者でヘタレだと思うのだけれど、今のところは何も伝えていない。
先輩は『君はさみしがり屋だからね』なんて言って、遊びに誘ってくれたり、面倒ごとを持ってきたりするのだけれど、なんだかんだで僕もその関係を憎からず思っているからだった。
そう、この先輩を僕は今のところ、全力で愛している最中である。
彼女をより深く愛したい、彼女に愛してほしい、彼女の願いは全て叶えてあげたい、彼女の苦しみを廃したい、彼女が笑っていてくれればそれでいい。そんな感情を抱いている。
先輩と僕の関係における目下の悩みとして、どうやら僕は彼女にとってせいぜい良くて仲のいい後輩、ないしは弄りがいのある友人の枠を超えられていないということだ。こちらの件に関しては、近々、どうにかして思い知らせてやろうと――つまりは、しっかりと恋人、ないしは親友、あるいは他の何かになってやろうと作戦を練っている途中である。今のところ、九割の確率で僕が泣かされて終わりな気がしているけれど。
というのも先輩には、日々、愛を告げているのだけれど、どうも感触が良くないのである。どうやら嫌われてはいない、ともすれば好かれている。ただ、おそらく、それは男性として愛されているということとは別である、という状態らしい。
一目ぼれでノックアウト、気付いた時には敗戦濃厚の恋の戦場に放り出されていた身としては、なんとか盤面をひっくり返そうと、せめて先輩の心に想い出という傷跡を一つでも残してやろうと努力する日々なのだ。
「ま、負け戦こそ楽しまなきゃね」
それはインターネットで見かけた名言だ。元となった作品は知らないけれど、すっかり座右の銘になってしまっている。
雨と汗で濡れたタオルとジャージを洗濯機に放り込むと、シャワーを浴びる。お湯は熱めに、時間は短めに。シャワーの後には、洗濯と夕食が待っている。もっとも、洗濯機は一層式で洗濯ものを突っ込んでボタンを押すだけだし、夕食は適当なもので済ます予定。ただそんなことすら手早く終わらせておきたいのは、先輩から連絡が入っているからだった。
『もう少ししたら帰るよ。それと、頼みたいことがある』
そんな一方通行の連絡にすら、ちょっとの喜びを覚えてしまう。
自分自身のことながら単純なうえに、気持ち悪いと思う。僕にとっては彼女が生活と思考のほぼ全てなのだ。なんと面倒くさい感情なのだろう。
別に彼女は絶対的な存在ではない。
顔、スタイル、共に並といったところか。
日本人にしてはやや褐色がかった肌、黒い髪を肩辺りまで伸ばしている。
先に言い訳をしておけば、惚れている僕としては先輩が何をしていても、いちいち、かわいくて、美しくて、心に突き刺さってくる。それに特にここが不美人だ、というようなパーツも無い。けれど、じゃあ、モデルができるか、というのとは別の話だ。たぶん、バランスの問題なのだろう。
本人的にはお人形のように生まれたかった、とのことだけれど、そんなことは言い始めても仕方がないし、誰だって美女美男に生まれたいに決まっている。それに、先輩がかわいくなるのは素晴らしい事ではあるのだけれど、個人的にはこれ以上、競争率が上がってしまうのも辛いところなので、複雑なのである。
そもそも、ルックスを気にかけるのであれば、中学までやっていたという陸上競技で培った肉体を生かして、いわゆる健康的な美の方面で売り出しても良いと僕は思っている。もっとも、本人としては『昔付けた筋肉が落ちない』と太もものサイズを気にしているようで、今ではやらなきゃよかったことに含まれているようだけれども。
さらに彼女の情報を補っていくならば、その陸上競技は得意だったかと言えば、そうではないようで、小学校では陸上クラブ、中学では陸上部をやっていたと聞いたけれど、せいぜい、地方大会レベル。中学最後の年には年下に負けて、その地方大会にも行けなかったとのことだった。ずっとやっていた陸上ですらそんな始末だから、他の運動に関しては言うに及ばず、といった様子。
それでは、学業の方はどうなっているかと言えば、成績はそこそこだ。話し方はなんだか随分、賢そうに話すけれど、実は授業の方は最近、低調気味とのこと。なんだかんだ理由をつけて、サボってばかりなのだから、仕方ない。ただ、読書や映画鑑賞は好きらしく、突然、変な知識が飛び出してくるときもあるけれど。
そんな、平均点としてはぼちぼちの、どこにでもいるような女子高生。そんな人に僕は特に理由もなく、どうしようもない程の好意を抱いている。
ちょっとだけ偉そうな喋り方も、絶世には程遠い僕に向けられた微笑みも、太もも以外、基本的には色々とボリュームが足らない肉体も、僕を魅了してやまない。
『結局、私は幼いのだろう。自覚はしてるんだけど、成長するというのは難しいね。
今あるものすべてが理由なく気に食わない。もっともっと、良いものがあるはずじゃないか。もっともっと素敵なものがあるはずじゃないか。
そんな考えが消えないんだ。
いまではないいつか。ここではないどこか。これではないなにか。
そして、私ではない誰かと、君ではない誰か。
そういったものに憧れてやまないんだよ』
そんな言葉を恥ずかしげもなく、どこか諦めたように呟いてしまう先輩に、僕はすっかりとやられてしまっているのだ。
青天の霹靂のごとき、正真正銘の一目ぼれ。出逢った瞬間に、この人に全てを捧げるのだと心に誓ってしまった。突然、始まった恋物語は正直なところ、戸惑いと恐怖の日々。彼女にとって、何者にもなれなかった時、僕という存在に飽きられた瞬間に、僕は、自身が抱えるこの想いも、自身の存在意義も、全ての意味を失うのだ。それなのに、どうやら成就する可能性は見込み薄と来ているのだから『親友でも良い』なんて多少の逃げを打つ浅ましさも許してほしい。
僕自身、自分の感情が随分とこじれはじめていることも自覚はある。
出来れば、恋人が良い。けれど、親友でも良い。なんならそれ以外の何かだって。いずれも無理なら、いっそのこと殺して欲しい。あるいは僕など、必要ないと断じて欲しい。もう、終わりにしたい。苦しみの中に留めおくのはもう止めてはくれませんか。
あなたの特別な何者かにして欲しい。あなたの人生において、僕がいてもいなくてもどっちでも良かっただなんて、それだけはどうしても、耐えられないのです。僕だけが、あなたを想って、僕だけが、あなたとの想い出を大事に抱えているなんて。
選ばれないのは仕方ない。それは致し方ないことです。
けれど、僕があなたの目の前から消えた未来において、今日という日を思い返した時、その風景にはせめて僕の居場所が欲しいのです。
あなたの心の隅っこに、嘘です、出来れば中央に。僕を置いては貰えないでしょうか。だって、あなたが僕をこうしたのだから、あなたはそうする義務があるのです。
彼女を思うと、感情がぐちゃぐちゃになる。
許しを乞いながらも、相手を糾弾しようとする同一線上にありながら背反する感情。こんなもの、どう扱えば良いというのだ。
この感情の対象が、ずば抜けた知性の持ち主なら、傾城傾国の美女なら、話題沸騰のアイドルなら、まだ納得も行く。事実、心の冷静な部分で、先輩をそんな大した女じゃないのに、なんて思っている自分も確かにいる。しかし、それでも、先輩が良くて、先輩じゃなきゃ嫌、という結論しか出せないのだ。
まあ、仕方ない。僕という存在はそのように出来ているということなのだろう。
シャワーを上がり、冷凍庫から取り出した夕飯代わりのアイスを咥えながら、お湯を沸かし、ティーポットを温める。先輩は紅茶党で、お好みの茶葉はダージリンというらしい。それが好きだと言うのならば用意するのが出来る後輩というものだ。
その脇で自分用の粉末のインスタントコーヒーを入れる。砂糖と牛乳はたっぷりと。アイスをなめつつ、コーヒーをすすりつつ、洗濯物を干していく。
インターフォンが鳴ったのは、洗濯物を干し終わったタイミングだった。
「はいはい今出ますよ」
はやる気持ちを隠しきれず、若干、気持ち悪い声が出てしまった気がする。
玄関を開けると立っているのは、ワンピースに上着を羽織ったセミロングの女の子。すっかり濡れそぼって、髪の毛も洋服も、濡れた犬や猫と同じようにボリュームダウンしていたけれど。
「ただいま。さて、彼女を助けるのを手伝ってくれないか?」
僕の大好きな人はそういって寒さか、高揚か、頬を赤らめながら、悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
「またかよ。畜生」
ただ、年上の彼女への敬意も、好意も、なによりお帰りの一言も、なにもかも吹き飛ばして、僕の口はそんな言葉を吐き出していた。
誰だって、そうだろう。
その先輩は、頭がぱっくりと割れている、どう見たって死体の和装の女の子を背負ってきた訳だから。
***
「君、付け置きの漂白剤は、どこだったかな?」
「洗面台の下段です」
洗濯機がおいてある浴室側から聞こえる声に、僕はそう答えた。帰宅後、二杯目のコーヒーをキッチンですすりながら、換気扇へコーヒーの湯気が吸い込まれていくのをぼうっと眺める。
僕が先輩と呼ぶ人の名前は咲愛(サクラ)という。もっとも、本人があまり名前を気に入っていないということで、僕がその名で彼女を呼ぶことは決してない。
その先輩は、ひとまずざっくりとだけ僕に状況を話し、暢気にもシャワーを浴びた後、今は洗濯機に水を貯めて自らの服を洗っている。
ピピッと幾度かの電子音、排水される音と、再度、給水される音が聞こえた。
僕のいる部屋に戻ってきた先輩は随分とすっきりした顔をしていた。
「終わりました?」
「水の交換さ。まあ、たぶん、もうダメだろうね。残念ながら」
僕の部屋に置いたままになっているジャージへと着替えた先輩が向かったのは、木製の本体に赤い布地が貼られたアンティーク調のソファーだ。丁度、部屋のキッチンとは反対側、ベランダへ出る大きな窓を背にして置いてある。その正面にはこちらもアンティーク調のカフェテーブルがあり、照明もそこにだけスタンドライトが立てられている。テーブルとソファーの脇には先輩用の一台のベッドが置かれている。いずれも中古屋で安く買ってきたものを磨いたり、直したりしたものだ。
ソファーの中央、抱えるのに程よいサイズのビーズクッションが置いてある場所が、この部屋での先輩の定位置だった。
対してキッチンには僕が今座っているビニール椅子が一脚置いてある。こちらが僕の居場所。
2LDKのこの部屋だけれど、家にいるときは基本的に僕らはずっとこの一間で過ごしている。
「紅茶で良いですか?」
「ああ、お願いするよ」
立ち上がって準備を始める。
紅茶のポットは温め直してあった。まずは茶葉を入れたガラスポットへ、お湯を勢いよく注ぐ。茶葉がくるくると回る。ジャンピング、というらしい。インターネットの動画の見様見真似なのでちゃんと出来ているかは定かではない。けれど、わからないなりに今日もきれいにくるくる回っていることに満足しつつ、ガラスポットを先輩の正面、テーブルの上に置く。そして、ガラステーブルの上に置いてあった砂時計をひっくり返す。
紅茶の淹れ方は先輩の為に覚えた。ただ、誰かに習った、というわけではなく、インターネットの動画がメイン。そんな付け焼刃の技術の紅茶を先輩は美味しいと言いながら飲んでくれているのだ。だからきっと、お世辞なんだろうとは思う。
ガラスポットを静かに眺めている先輩をわき目に、僕はキッチンへ戻る。今度はティーカップへとお湯を注ぎ、ティーカップを温める。温まるのを待つ間に、ミルクピッチャーへ少量の牛乳を。偉大なるはプラシーボ効果。この瞬間に、ただのパック牛乳は紅茶用のミルクへ。
カップからお湯を捨て、さっと拭き上げて、ガラステーブルに向かう。丁度、砂時計が落ちきる。茶こしを使い、ガラスポットからティーカップへと紅茶を注ぐ。
ティーカップを先輩の目の前に置く。持ち手の向きは左向きに。
先輩は注がれた紅茶を少し眺めた後、右手にミルクを持ち、紅茶へ。ティースプーンで軽くかきまぜた後、持ち手を右側へくるりと回して、一口飲んだ。ほぅっと、小さく満足げなため息のような呼吸を漏らす。
そう、これだ。
彼女のこの呼吸が聞きたくて、僕は紅茶の淹れ方を覚えたようなものだった。
「ありがとう。おいしいよ」
素敵な笑顔に添えられた、この一言までが僕らのセットプレイだった。お世辞ならお世辞らしく、もっと安売り気味の控えめな笑顔にしてくれればいいのに。
先輩のいつもの一言に舞い上がりながらも、いまいち、信じきれない。あるいは不安とも言い換えられるかもしれない。まあ、きっとこれは愛した側の弱みなのだろう。仕方ない。
「はい。お粗末様です。先輩のごっこ遊びにお付き合い出来て僕も満足ですよっと」
コーヒーを片手にキッチン側の色褪せたビニール張りの丸椅子に腰かける。ここがこの家での僕の定位置だった。
「ひどいな。ごっこ遊びだなんて。それにごっこ遊びというのなら、これからが本番だろう?」
先輩は意味ありげに微笑んで、僕を見た。
「まあ、そうなんですけどもね」
平静を保つ手段として、僕は全力をもっての現実逃避を決め込んでいた。つまりは、僕は、その存在と事実に関して、極力、何も考えず、見ない、という方法を取っていたわけだけれど、それも限界だった。
ソファーに座った先輩から視線を降ろしていく。
お茶会セットが並んだテーブルを通り過ぎ、床。物置から引きずり出してきたブルーシートに包まれた少女の死体がある。正確には死体にしか見えないなにか、というべきだろうか。そのせいで、僕の部屋はすっかり殺人現場のようになっていた。
「逢魔が時もすっかり過ぎて、夜のとばりはしっかり下りてしまったけれど……誰彼のお茶会を始めようじゃないか」
誰彼のお茶会。
始まりは悪ふざけだった。
退屈だという先輩の好みに合わせて、僕の家でお茶会をしていた。
そして、これまた先輩の好みに合わせて、そのお茶会の話題は、主に幽霊や超常現象といったオカルティックなものとなった。そのうち、やがて、話ではおさまらなくなり、オカルティックな何かを僕らは探し回るようになったのだ。そんなものは、普通、なかなか見つからないのだろう。それでも、心のどこかで素敵な何かに出会えるのではないかという期待を抱いて始めた僕らの小さな探検は予想外の収穫を得た。
それが、幸なのか、不幸なのか定かではないけれど、驚くべきことに非常にあっさりと、幽霊や超常現象を発見することになったのだ。
やがて、僕のアパートで茶会をしながら予定を立てて、お化けを探して回るーーその一連の流れを、僕たちは冗談めかして、でも少しだけ恰好をつけて、誰彼のお茶会なんて呼んでいた。
「先輩、本物の死体はアウトですって。先輩は僕を死体処理の達人だとでも思っているんですか?」
「そう、死体。どうみても死体。それが呼吸をしている。喋っている。幽霊やら何やら、私たちはずいぶん見てきたけれど、これは初めてじゃないか!」
僕が死体を見た瞬間の動揺が薄かったのは、たぶん、これが原因だった。
先輩と出会ってからおおよそこの一年間で、随分と素っ頓狂なものを見てきた。最初のころは、先輩と二人で逃げ帰ってばかりだったし、見たもののあまりものグロテスクさにそれぞれトイレやら流し台やらに嘔吐を繰り返すこともしばしばだった。けれど、繰り返す内に、どれもこれも大して珍しくもなければ、幽霊やなにやらが見えること自体もまた、別に特別ではないことに気が付いた。
それを象徴するような出来事が一つあった。
驚きのあまり、心霊スポットから大騒ぎして逃げ出した結果、うっかり警察のお世話になってしまった時の話。
担当してくれた女性警官に悪気のない笑顔で『あそこの幽霊、そんなに怖くなくない? むしろ、良く見るとちょっとひょうきんな感じでかわいい部類だと思うんだけどなあ』などと言われてしまったのだ。挙句には『オカルトは楽しいけど、あんまり深入りしないようにねえ。オカルトそのものより、オカルトを生業にするヤクザさんとか犯罪組織のほうが怖いんだから。オカルト屋さんって、結構、悪い人たちと繋がってるのよお?』と真面目な顔で諭されて帰らされた。
それでも怖いもの見たさで心霊スポットには何度も足を運んでいるうちに、随分と耐性がついてしまった。そうして繰り替えしていく中で、ほとんどの幽霊には生きている人間をどうこうする力なんかない、という事に気付いた。そうなっては、肝試しも未知のオカルトへの興味などではなく、なんだかただの趣味の悪い覗き見にしか思えなくなってしまったのだ。
最近ではホラー映画をタブレットで見ながら、この幽霊の描写はリアルだの、たぶん、製作者に見える人がいる、いないだの、論評をしながら、本当にただのお茶会をするだけの日も多かったのだ。
もっとも、危険な幽霊は存在しない訳でもないし、そいつらに危害を加えられたこともなくはない。
しかし、それもまれなこと。
今では生活の糧を得るため、お世話になった女性警察官のオカルティックな仕事の極めて簡単な部分を手伝っていたりもする。
そのくらい、先輩と僕の日常はオカルトにまみれていた。それでも、その一方で、女性警官の警告に従って、僕らはオカルトの沼、その深淵の端、せいぜい足首までのところで足を止めていた。
さて、今の僕にとって、オカルトとは先輩との一時を彩る手段で、ついでに金銭を得る手段だ。
それでは、先輩にとってのオカルトはどうか――たぶん、最初は扉だった。
これではないなにか、ここではないどこか、いまではないいつか、わたしではないだれか、もっとなにか楽しいこと。もっとなにか良いこと。
まるで旅行会社のコマーシャルのようにどこにでもいけるドア、ピンクの扉を開けば青海と白浜が待つ、夏への扉。
僕はそんな先輩と一緒にオカルトの海の浅瀬でキャッキャウフフと水遊びを楽しんでいたというのに。確かに、最近、それも飽きてきた様子はあったけれど、それでもそれなり楽しんでくれていると思っていたのに。
いきなり生きている死体を拾ってくるなんて、離れ業を決めるだなんて。
「まさしくリビングデッド。久しぶりの大物じゃないか! しかも、私の目の前に墜ちてきて、私に助けを求めてきたんだぞ。こんな経験、なかなか出来ないじゃないか! しかも、それが絶世の美少女なのだから、助けるに決まっているだろう?」
そんなことを言いながら、先輩は楽し気だ。さっきまで濡れそぼって、青白くなっていた頬をわずかに赤らめて、語っている。
僕は、少しだけその死体に嫉妬する。僕が先輩をそれだけ喜ばせようとしたら、どんな労力が必要なのか。
思いながらも、僕は先輩に答えた。
「死んでいない。だとしたら、生きているんですよ。生きているんだとしたら、まずは救急車。次に警察です。いや、生きてなくても、そうかもしれませんが、とにかくたぶん犯罪なんですよ、これ」
一番の問題はここだった。
幽霊でもなく、人外でもなく、死体のようにしか見えない謎の少女が目の前にいて、どう見ても死体なのに呼吸をしているという事実。
改めて、僕はブルーシートの上へと視線を向けた。
グロテスクなものに幾分、慣れたとはいえ、凄惨な姿の少女をいつまでも眺めている趣味もない。生きているにしても、死んでいるにしても、その姿のままで放置するのは気がとがめた。だから、僕らは少女をブルーシートの上に古い毛布で包んで寝かせ、さらにブルーシートで覆ったのだ。かなり丁寧に包んだつもりだけれど、時間が経ち、黒ずみ始めた血液が細く流れて、床を汚しそうになっている。また、本当に僅かに規則正しく上下しているのも見て取れた。中身の少女の呼吸に合わせて動いているのだろうか。
思い出す。
その少女は明らかに、頭が陥没・欠損していて、脳も半分以上崩れているのが目にとれた。誰がどう見たって即死したであろう肉体だった。ニュースで『頭を強く打ち、死亡しました』と報道される状況そのもの。
だが、その一つしかない眼球はまるで天井の蛍光灯を眩しがっているように、痙攣する瞼の縁をなぞっていた。
ブルーシートにこぼれた脳組織の群れは、巣に帰る節足動物のように頭蓋に向かって這っていた。
見えないように隠してしまったが、それはそれで逆に怖さが増している。しっかりと認識できている方がまだましだったかもしれない。
「どうするんですか、これ……」
「あー、あの、な? うん」
楽しそうだった先輩の顔がしゅんとしぼむ。
「私も最初は救急か、警察か。そう考えたんだよ」
「そうですか。じゃあ、なんでそうしなかったんです?」
想像以上に僕は尖った声を出しているらしく、先輩はどこか居心地悪そうにしている。ちょっと罪悪感を抱いたけれど、これでも僕はとんでもなく先輩の気持ちをおもんぱかった対応をしていると思う。
「そういうなよ、君。私にも理由があったんだよ」
先輩はソファーから立ち上がり、ブルーシートの横へぺたりと座る。そうして、毛布をめくる。死体の少女の片目だけの眼球がぐるり、と動き、先輩を捉えた。
唇が機械的に動き始める。
「助けて、助けて、助けて、助けて……」
か細い声は一定のリズムで助けて、の一言だけを繰り返す。時々、喉に血が入るようで声が荒れるが、それでむせる様子はない。
その様子は、ブルーシートに彼女を包むときにも確認していた。
先輩が毛布で再び少女の目元を隠すと、その声はピタリと止まった。
ああ、助けるよ、そう言いながら先輩は少女の頬を撫でる。
「ずっとこの調子だったんだ。私だって最初は救急車を呼ぶなり、医者に連れて行こうとしたさ。でも、これはどう見ても医者の出番じゃないだろう。ほら、こんな美少女と君の先輩が助けて、と言っているわけだぞ?」
医者の出番ではないかもしれないけれど、僕の出番でも無いですよ――そんな言葉は僕の口から出ることはないが、代わりにため息を一つ漏らす。
恋に侵されていない心が、先輩への苦情陳述を始める。
困っている人がいたら見捨てておけない、お人好し。ただし、能力が足りず、困難の樹海で元から困っていた人と助けに行ったはずの先輩の二重遭難もしょっちゅう。それで、何度も嫌な思いをしているはずなのに、頼まれたら嫌といえない、ダメ人間。
しかも、別に根っから良い人というわけではない。溢れ出る保護欲の裏側には、満たされぬ承認欲求がある。さらに、その事を先輩自身でも理解しているから、助けたいと真っ直ぐには伝えられない。
例えるなら、可愛さと情に負けて捨てられた子猫を拾ったは良いものの、自分の力では育てきれない事は自分なりに知っているから勢いに任せて『ちゃんと自分が面倒見るもん!』とは言い切ることができない、そんな心優しい幼稚園児が捻くれて成長したような性格をしているのだ。
つまりは、やめておけ。また損な役回りだぞ、と。冷静な僕は判断している。
「そうやって首を突っ込むのは良いですけどね。先輩、いつもヘタレて僕にぶん投げるじゃないですか」
「仕方ないだろう。誠に遺憾ながら、どうやら、私より君の方がいろいろと才能にあふれているようなんだからね。だめかい?」
そうして、そんな捻くれた先輩の隣には、健全じゃないと知りながら、頼ってもらえる自分という構図を喜んでいる僕がいる。損な役回りだろうと知ったことか。先輩が困っているのであれば、僕がどうにかするのだ。
たった今も先輩はすっかりしょげ返った挙句、たぶん僕が不機嫌になったことに対しても悲しい顔をしている訳で。
「ま、なんとかしますよ」
さて、解決策はどうしようか。
一番まずいのは、死体がここにあるという現実だ。
死体を透明にしなければ。
先輩と見たホラー映画の知識を引っ張り出してくる。硫酸だったか、塩酸だったかは清掃の為と申請すれば、薬局で入手できるのだったか。いや、そこまでせずとも、山に放って来るだけでどうにでもなるのか。今回は僕らが殺した訳ではないのだから。
そういった物騒な最終手段を最初に思いつく。そのリスクを取る前になにができるだろう。
正直なところ、こちらから何らかのアプローチを行う積極的な解決策は余りないように思える。どこからか少女が落ちてきて、頭が割れて脳みそがこぼれている、という状況はいかなる医者や探偵や、あるいは主人公でも解決が難しい状況だろう。ただの人間である僕らには現時点で解決に向けた行動の選択肢がないのだ。
と、なれば状況の変化を待つ、ということになる。ただ、待つ、といってもいったい何を待つのかも定かではない。たぶん一番、現実的な変化は、先輩がこの少女を救うことを諦めることだろうか。
そうなったならば、この死体の息があるうちであれば、今度こそ、警察か病院へ駆けこめば良い。僕が拾って、家で保護していました、あまりの出来事で混乱しちゃいました、ごめんなさい、でも多少のごまかしが効くはずだ。まあ、色々と面倒くさいことが発生するだろうが、おそらく人生における致命傷で済む。即死はしない。
つまりは、まずは時間を定めることが肝要だ。
「条件が二つ、今晩だけです。さすがに何日もは置いておけないです。明日の夕方までに何か良い方法を考えましょう。思いつかなければ、警察に出頭してきます」
「出頭って、君ね」
「そうなりかねないんですよ。分かってるでしょ?」
先輩はまだ何かを言いたげだったけれど、遮って僕は続きを話す。
「もう一つ。一応確認ですが、先輩、今日も泊っていきますよね?」
「え、なに? 急に発情した? 三月のウサギさん?」
「いや、違いますよ? この死体と一緒に二人で過ごせと?」
本音だった。いくら、幽霊を見慣れたとはいえ、怖いものは怖かった。そもそも、幽霊だって、肝試しで見る程度なら慣れたのであって、毎日、幽霊と過ごせと言われれば全力で拒否をする。ましてや、ここにいる存在は美少女とはいえ、生きているというべきなのか、死んでいるというべきなのかも定かではない状態なのだ。
よくわからないものは怖い。それは、例えば、急にこの少女が襲い掛かってきたら、というオカルティックな恐怖であり、急に状態が変化してあっさりとただの死体になってしまったら、という現実的な恐怖であり、現在よくわからない状況なのだから、さらによくわからない何かが起こってしまうのではという、未知への恐怖だ。
「お願いです。先輩だって怖いでしょ? 何なら抱き枕にしてくれても良いですよ?」
一方、僕の一声で先輩はいろいろと察したようだった。どこかにたにたした笑みを浮かべながら、僕を見ている。からかわれている。これは、先ほど、僕が少し不機嫌になっていたことへの仕返しだろう。
「普段から色々トレーニングしてるんだろう? 死体が一体在るくらいなんだ。君も通夜くらい知っているだろう? それと変わらないさ。私は君と違って視る能力も低いからね。君よりは怖い目にあわないだろうさ」
冗談めかして、先輩はそう言ってくる。
なるほど、お通夜。
通夜というものは知っている。通夜の席で、あそこにお爺ちゃんが眠っているんだよ、なんて会話が世の中に存在することも知っている。だが、それとは全然、ありとあらゆる状況が違う。
「嫌なものは嫌ですよ。怖いじゃないですか」
繰り返すが、慣れてしまっただけだ。慣れたから我慢できているだけで、怖いものは怖いのだ。
さらに言うならば、その我慢している理由も、先輩の前だから見栄を張っているだけなのだ。
「だから、先輩、今晩も一緒にいてください」
「どうしても?」
「どうしてもです」
「絶対に?」
「絶対にです」
「全く、しょうがないなあ。君は」
心行くまで僕をなじった先輩は満足げな顔で、僕を見る。
そして、少しだけ言い淀んだ後、一言をつけ足した。
「ま、ここ以外、行く場所もないからね」
ああもう。こういうところがずるいのだ、この人は。
いろいろなエネルギーで、熱くなった頭を冷やすため、僕はベランダに出た。
雨こそ弱まっているものの、相変わらず風が強い。けれど、今はその風が心地よかった。
手すりに身を預け、空を見上げる。
先輩とまるで同棲のようなこの暮らしが始まって、もうすぐ一年になる。それは、先輩と出会ってからの期間とほぼ同じだ。正確には、先輩が自宅に帰らないだけで、同棲ではない。ちょっと毎晩、僕の家に泊っているだけ。そんな関係でここまで来てしまった。
先輩から見れば、寂しさを埋める丁度いい相手であり、都合の良い男だった。
僕にしてみれば、愛する先輩に対してアピールチャンスが増えることは歓迎の限りだった。
そんな風にいろいろとお互いに都合が良かったのはあるにしても、気付けば随分とだらだらした関係を構築してしまったものだと思う。
一年間、この関係を続けていて、先輩と僕はキスすら交わしたことがない。プラトニック、というにはお互いに随分と打算があるけれど。
だから、僕は随分と、愛と恋とを考えさせられる羽目になった。例えば、先輩の勧めもあったとはいえ愛を語る宴の本を良くわからないなりに読了する程度には。
こうしている今も愛するということは難しいものだな、と思う。
先輩との先のやり取りも反省することは多い。
最初、僕が不機嫌だったのは事実だ。当然だ。いくら好きな人の仕業とはいえ、突然、死体を我が家に運び込まれて、平然としている人間は流石に盲目に過ぎる。
けれど、その一方で、死体の一つや二つなど、所詮、些細なことなのだ。どうせ、僕は最終的に先輩を肯定するし、それ以外の選択肢は無いのだから。
それならば、不機嫌を態度に出す前に、僕は自らその状況を受け入れるべきだったのではないだろうか。
そうすると反省すべきは『分かりました、先輩。僕がなんとかしましょう』そんな一言を発することの出来ない自分の無能さか。
いや、むしろ、そもそも、不機嫌になること自体が愛の敗北か。
「本当に、やんなるねえ」
これは成長できない自分自身への悪態だ。
全く同じ反省をこの一年で何回、行ったのだろう。
成長しようと、それなりに足掻いてはいる。
実は夕方のジョギングも、筋トレも、オカルトも。ついでに、勉強も先輩が望んだ時に対応できるよう実はこっそり自習していたりする。
けれども、結局、精神性において成長できていない自分が忌まわしい。
この世界に生きた死体を自宅へ持ち込まれて、スムーズに対応できる人物はなかなかいないと思う。だから、その対処方法が思い浮かばないのは、もう仕方ない。
ただそのあと、不機嫌になる前に、どうして一度落ち着くことが出来なかったのか。本当に、成長とは難しい。
「いっそのこと、滝行でも積んだ方が良いのかもね」
しかし、本当に、とんでもない人に一目ぼれをしてしまったものだと思う。なにせ、この愛には理由がない。一目ぼれであるにも関わらず、別に外見に惚れたわけではない。一目会って、ああ、この人が僕の運命か、そう思わされたというだけだ。
正直、魅了の魔法を使われた、キューピッドの矢に打たれたのだ、という状況となんら変わりない盲目的な愛。そう呼んでも過言ではない程、暴力的なまでな愛の感情が僕の中に渦巻いている。けれど、それを日々の生活の中で表現して、先輩に僕の愛を伝えることは、僕という人間は荷が重い。
言葉は口に出せば陳腐化する。けれど、口に出さずに伝えるのはもっと難しい。行為や行動で、身勝手にならず愛を伝えることの、なんたる難しさか。
こんなにも愛している。それにもかかわらず、僕の愛は当たり前に敗北する。
愛する、という行動はなかなか簡単ではないのだな、と思う。自分の心の中の一部で愛情という感情が荒れ狂っている。それでも、その愛の表現に心身の全てを任せられるかはまた別の問題なのだ。
そんなことを思ううちに、溺愛という単語は秀逸だ、そんな思想に行き当たる。
愛に溺れる。
その溺れ方は、荒れ狂う愛の海に崖から身を投げる投身自殺ではなく、一歩ずつ、自らの足で進んで二度と帰れない場所まで身を進める入水自殺のようなものだ。生きようとする理性と本能。それらを振り払いながら、愛の最果てへ辿りつこうとする『道』のようなものだ。
僕が襲われている盲目的な愛の感情とは少し違う、目が明いているのにも関わらず、その不利益と狂気を承知の上で、なお自らを死地に進める一つの愛の極致。
朝から晩まで、何をしていても、先輩の事を考えている。
先輩が喜びそうな話のネタを常に探している。
それなのにも関わらず、溺愛には程遠い、余りに幼い自身の愛に溜息を吐く。
「ん」
その溜息に答えるように、先輩がコーヒーが入ったマグカップを僕に突き出してきていた。また、微妙に不機嫌ななんとも言えない感情を表に出している。
その様子にふと思い当たり、時計を眺める。ベランダに出てから三十分も経っていた。
ダメだなあ。僕は。墓穴の底で墓穴を掘っている。
「ああ、ごめんなさい。ついつい、先輩への愛ゆえに、精神的成長の難しさと、愛することの難しさに関して、想いを馳せていました」
「君ね、すぐそういう調子の良いことを言うのはやめた方が良いよ? 言葉が軽くなる」
「そんなこと言わないでくださいよ。いつも言っていますが、先輩が本気で願ってくれたなら、僕は何でも叶えるんですから。そのために僕は生きているんですから」
「また、そうやって」
「まだ信じてもらえませんか? 先輩に捨てられるということを僕がどれだけ恐れているか。僕の恐怖を先輩は知らないんです。僕の存在は先輩への愛で規定されているんですから」
「信じていない訳ではないよ。思うところがあるだけで」
僕らは目を合わせて、ふふふと笑う。その後、先輩は自身の唇を撫でる。これは先輩が何かを考えている時のしぐさだった。どうやら、僕の言葉の何かが先輩の心の琴線に引っかかったらしい。
指で何度か唇を撫でた後に先輩は語る。
「恐怖、といえばさ。最近、色々と視すぎて、また良くわからなくなってきたのだよね」
そうだな、と先輩は向かいの街灯を指さす。ちょうどいい塩梅に、というとおかしいのかもしれないが、時折、ちかちかと点滅している。荒天もあって、実に情緒あるホラースポットが出来上がっていた。
「例えば、そこの街灯の下、何がいたら一番怖いだろうか。例えば、そこに私の死体があったら、怖いと思うんだよ。私が拾ってきた彼女とは違い、美しくもなく、普通にただただ死んでいる。それは、たぶん、怖いのだと思う」
先輩にはそんなつもりはないのだけれど、さらっと愛を試すような仮定を持ち出さないでほしい。『私が死体になったら、君は私と同じように拾ってくれるのかな?』そんなことを問われているようにすら思えてしまう。たぶん、拾う。泣きながら、拾う。そして、たぶん、最終的に食べる。けれど、そんな前提が嫌だ。
そんな僕の内心になど気付かず、先輩は語り続ける。
「白い服、黒い髪の女の幽霊。まあ、怖い。当然怖い。あるいは一目でわかるような異形――なんでもいいよ。映画で出てきたあいつでも、ゲームで出てきたそいつでも。それも怖い。この辺りまではまだいい」
容易にイメージが出来るホラーの典型例みたいな奴らだ。一目で人外であるとわかる存在。僕らが誰彼のお茶会で出会おうとしている存在。非日常の典型例。
「血走った目をした凶器を持った人間。これも怖い。似たような系列で老婆や幼児。理由の分からない満面の笑みでこっちを見つめてくる。なんでこんなところに、という恐怖。結局一番怖いのは人、という奴だ。けれど、この辺りから若干、毛色が変わってくる。ピエロや着ぐるみに入った人。これもなんでこんなところに、という話だね。けれど、道化恐怖症というので無ければ、別に怖がる必要はないだろう。さらに、思考を進める。一揃いの赤いハイヒール。お絵描き帳、これは明らかに子どもの絵とわかるものが描かれていても怖いし、赤や黒に塗りつぶされている、というのもよくある話な気がする。日記帳やスケジュール帳なんかも怖いかもしれない」
「なるほど?」
先輩が何を言いたいのかも少しだけ理解できた。
「つまり、究極のところ、何があっても怖いんじゃないか、という話ですか?」
「わかっているじゃないか。怖くないものなんてないんじゃないか。世の中のほとんどのものは、恐ろしいものしかない。そう思い始めたんだよ。今、挙げた存在の内の半分くらいは、存在としては本来、恐怖を感じなくても良いものだろう? じゃあ、真夜中の明滅する街灯の下、というシチュエーションこそが恐れるべきものなのか? けれど、今、それらと日中に遭遇したとして、状況によっては怖いと思うんだ。ホラー作品でもあるじゃないか。昼間だから大丈夫だと安心していたら、だとか。昼間なのに急に静かになって、だとか」
「そうなると、ホラー映画の演出手法のような話になってきそうですね。うまく説明できないですが、怖いのはそこに本当に恐怖を感じる必要があるかどうかではなく、怖いと感じるから、怖い」
「まあ、結局、皆、そう考えるから、様々な創作物で一番怖いのは創造の中、とか、自分の心が生み出した、とか、そういうオチが使われるのだろうけれどね」
「でも、結局、それじゃあ何も答えていないのと一緒じゃないですか?」
「だから、分からなくなってきた、と言ったじゃないか」
「じゃあ、逆に怖くないものを探していきますか? 怖くないものの方が少ないなら、そちらに共通点を見出せるかもしれないですし」
それなんだよ。
先輩は嬉しそうな声色で僕を覗き込んだ。
「一番怖くない人間は決まった。目出し帽の犯罪者。明らかに悪そうなやつ。犯罪者が怖くないんじゃなくて、犯罪者という恐怖以上のものは上積みされないだろ?」
「夜警中の警察官とかは?」
「人間である以上、実は犯罪者が化けてるパターンがあるじゃないか。そうなるとストレートに犯罪者の方が怖くないだろう? 恐怖は、その振れ幅が大切なんだ。ホラー映画を思い出せばわかる。来そうなときには来ない。来そう来そう来そう……来ない。来なくて、気を抜いた瞬間に来る、それをちゃんとやってくるのがきちんと怖いホラーだよ」
ホラー映画の中という前提、絶対に怖いことが起こる前提であればそれは正しいと言えるのかもしれない。
けれど、恐怖という感情の役割は本来、危機回避の為であるはずだ。と思えば、明らかになった危険よりも、実在するかも定かでない危険を過大に評価している。
そう思えば、理性的に正しいとは言いかねる。
滅多に起きないが起きれば悲惨なことになる飛行機事故と、それより日常的に起こっていて飛行機事故よりもよっぽど多くの人間を殺している自動車事故どちらが怖いか? という話にも似ている話だ。
「なるほどなあ、迷走してますねえ?」
「しているとも。恐怖は人生のスパイスだよ。苦みも臭みも消してくれる」
楽しそうに先輩は笑った。そんな楽しそうにされても。
ふと以前、二人で心霊スポットで怖い目に遭ったときのことを思い出す。良いだけ恐怖を味わって、全力での逃走を決めたときの話だ。
自販機の前でへたり込んだ僕を横目に、息を整えながら先輩はペットボトルのスポーツドリンクを飲んでいた。
そして『ああ、怖かった。楽しかったね』なんて、今みたいに笑いかけてきたのだ。
唖然とする僕に、先輩が語ったのを鮮明に覚えている。
『君ね、心霊スポットなんて怖い目に遭いに行くんだ。怖い思いをすることなんて本望じゃないか。いわゆる絶叫マシーンや、お化け屋敷、バンジージャンプと一緒なんだよ。心霊スポットに行って怖くないなんて、それは強がりか、不満かのどちらかでしかない。あと、心霊スポットが怖くて機嫌悪くなる奴も最悪だね。さて、いつまでヘタレているんだい? 立ちたまえよ』
そのあと、飲みかけのペットボトルを差し出してきたことまで含めて、僕にとって素敵な想い出の一つだ。そして、先輩の方が随分と体力があったことから筋トレとジョギングを習慣化することを決めたほろ苦い想い出の一つでもある。
そんな先輩は今は、僕の隣で、少し寒そうに両手をこすり合わせている。
ああ、本当に僕はダメな奴だなあ。
「先輩。戻りましょうか。僕の物思いに耽る時間に随分と付き合わせてしまった気がします」
「ああ、そうとも。君は本当にひどい奴だなあ」
「すみません。紅茶、もう一度入れましょうか?」
「ん」
そんなことを言いながら、冷え始めたコーヒーに初めて口をつける。いつも、自分が淹れるものより少し薄めだった。後で、インスタントコーヒーを少し溶かして、レンジアップしようか、などと考える。
けれども、それより今は先輩の紅茶だ。
そう思いながら、僕が丁度、ベランダの戸を閉めたタイミングだった。
唐突な第三者の声が響いた。
「あ、あ、あ、あ」
まるで、発声練習のようだった。
こんなもの、発生源は一つしか考えられなかった。
ブルーシートの中だ。声の出方を確認するように少女が喉を鳴らしている。
先輩は一瞬、凍り付いたように動きを止めていたけれど、すぐに駆け寄り毛布を払いのける。
「なんだ、何が言いたい? ゆっくりでいい。話してくれ」
「あ、あ、あー? あ……ほんじつは、せいてんなり。あ、え、い、う、え、お、あ、お、か、け、き」
かすれていて、抑揚や発生が滅茶苦茶な声。一続きの音声をぶつ切りにして元とは別の形に繋げたような声を出しながら、少女はぎょろりと辺りを見回している。片目が機械の初期化動作のように、ばらばらでありながらも妙に規則的に動く。表情が目まぐるしく変わっていく。モンタージュのように口が怒り、目元が泣き、頬は笑い、そして、すぐに違う感情を浮かべる。
数秒ののち、暴れまわっていた目が、ぴたりと僕を向いて、止まった。
「おい。だれか、そこにいるのか?」
突然、少女の口から男の声が聞こえた。
曇天の空、遠くの雷鳴のように静かだけれど重たい声。恐怖に心臓が握りしめられたように、ぐっと痛む。
少しの間があって、ああ、とも、おお、とも、うう、とも取れるような声とは言いにくい、短いため息のような、感嘆の呼吸のようなものが聞こえる。
やがて、少女の眼と口がゆるゆると閉じた。
そして。
「助けてくれてありがとうございます。申し訳ないのですが、お水を一杯いただけるでしょうか」
軽やかで、穏やかなそよ風のような声で、そう言ったのだ。
***
僕は今晩何杯目になるかわからないコーヒーを啜っていた。
真夜中。夜更かしは得意なほうだけれど、今日は随分とコーヒーを飲みすぎている。たぶん、僕が大人になれたなら、簡単にアルコール中毒になるタイプの人間なんだろう。
風呂場からは女性二人の歓声が聞こえる。
コップ一杯分の水をゆっくりと飲んだ後に、先輩が誘って、少女が快諾し、入浴と相なったわけだ。
自宅で想い人と今日初対面の美少女が湯あみしている。実にラブコメディじみた展開だ。
『頭の中にお湯が入り込んでないか?』だの『あ、内臓こぼれた』だの『左目をあとで後輩に探しに行かせよう』だの聞こえて来なければ、だが。最近は文学作品が漫画化されたりもする訳だけれど、死体洗いのアルバイトの話が美少女漫画になれば、こうなるのかもしれない。
ワクワクしながら覗きに行く、あるいは自分も後から入浴して想い人の残り湯、残り香に興奮する、までが色んな物語で見聞きした展開のような気がするが、残念ながら、そんな気持ちは微塵もわかなかった。
「すごいねえ、あの人」
本来、女性は男性より痛みやグロテスクな物への耐性が高い、などと書かれていたホラー雑誌を思い出す。最も、今の先輩は耐性でどうにかしている、というより夢中になれることを見つけたちびっこと同じ状態なのだろうけれど。
目下の心配はとりあえず、血液と内臓とで排水溝がつまってしまうこと。洗濯でも血液汚れをお湯で落とすのは厳禁なのだ。タンパク質が固まって、汚れが固着してしまう。もし詰まったとして、髪の毛と同じタンパク質ということは、通常のパイプ洗浄剤でちゃんと流れていくのだろうか。無理な気がする。
業者を呼ぶわけにはいかないだろう。仮に詰まっているものを見られたならば、どう考えても終わりだ。犬やら熱帯魚やらを飼っていない身としては動物のものです、と言い張るのも苦しいだろう。さらには警察の取り調べを受けたとして、死体が先輩と自発的に自宅で入浴したのです、という主張を誰が信用してくれるというのだろうか。
現実逃避気味の思考はごん、という鈍い音で打ち切られる。音がした窓の外へと目を向ける。相変わらずの荒天だった。
よくある話、といえば、怖い話をしていると幽霊が寄ってくる、というのは事実なようだ。窓の向こう、ベランダには一体の幽霊が立っていた。もっとも怖い話をしている、というより、今現在、怖い目にあっている、のだが。それに、その怖い目、というのも心霊というよりは、どちらかというと警察に厄介になることや、その原因になりかねない浴室のパイプ詰まりであり、例外にも程がある気がする。
ベランダにいるのは生気がない顔をして、若干透けて見えるということ以外は特に欠損もない老爺の幽霊だ。よくベランダに現れて、恨めしそうな顔でこちらを見ている奴だった。幽霊に顔見知りがいるというのは我ながらどうなのだろうと思わなくもないが。
コーヒーを片手にしたまま、窓を開け、向かい合う。彼は睨むように、懇願するようにこちらを見つめてくる。
僕は煙を払うように、軽く手を振った。トン、と軽い手応えがあったのを最後に、幽霊は霞んで消えた。
「いつもごめんね」
なんとなく謝罪し、コーヒーを啜った。
実は幽霊の彼とは、先輩の次くらいに長い付き合いだった。顔を突き合わせる頻度も先輩の次くらいの頻度で顔を突き合わせている。
早い話、憑かれているのだろう。
これで、なんらかの危害を加えられたりするのであれば、対応も変わるのだろうが、基本的には全くの無害。しかも、適切な距離を取って出現をする。『寝苦しくて目覚めたら目の前に顔が』だとか『シャワーを浴びてふと見ると鏡に』だとか言ったびっくりパターンでの出現はしないのだ。大抵はベランダに出るし、先ほどのように手で払えば消える。
流石に慣れが、恐怖を凌駕している。
開けた窓からまだ冷たい風と少々の雨が吹き込んでくる。また、嵐は強まっているのかもしれない。コーヒーの飲みすぎと、若干の眠気で火照った体が冷えて気持ち良い。
「寒いよ。君、どうしたんだい?」
「ん。幽霊がいたんですよ。いつも通りです」
ちょうど、先輩も浴室から出てきたようで、僕は窓を閉め、振り返る。
先輩は先程のジャージのままで、少女をお姫様抱っこしていた。少女は先輩が我が家に置きっぱなしにしているふわふわの薄水色のネグリジェを着ている。
持ってきたときに、一度だけ、着ていたのを見た記憶がある。このネグリジェを着た先輩はまるで人形のようで、すごく可愛くて感動した。けれど、その時にまじまじと眺めすぎたせいか、先輩はそれきり着てくれなくなった逸品だ。
なんとなく、少しだけ、しょんぼりする。
「お風呂、ありがとうございました。このバスタオル、ダメになってしまうかもしれません。後ほど、弁償いたしますので」
先輩の腕の中で、少女はそう言った。このバスタオル、というのは頭に巻いているバスタオルだろう。僕が普段使っているもので、左目や後頭部の欠損を隠すように、器用にまかれている。
「出血はだいぶ止まってきているのですけれど、それでも完全には止められないみたいで。実際、最低限、会話以外はまともに出来そうにないのです」
正直、この状態でどうやって明朗に会話をしているのかも分からない。本当は体内に内蔵されたスピーカーから声は出ています、と言われた方が納得のいくような状況。それでも申し訳なさがにじみ出たその声だけで、ごりごりと警戒心が削られていく。
そう、僕は彼女に対し、まだ十分に警戒を解くことが出来ていない。もっとも、成り行きであったとはいえ、家に上げ、シャワーまで浴びてもらった以上、警戒しているというのももはや言葉の上だけなのかもしれない。
それでも、ヒーローを気取るわけではないが、僕が多少の痛い目にあう分には構わない。いつものことだ。ただ、先輩が傷つけられるのは避けなければ。
「良いんだよ。バスタオルくらい。大した問題じゃないさ。だろう?」
「その通りですけどね」
「……もしかして、ダメだったかい?」
先輩はまたも不安そうにこちらを見てくる。
ああ、もう。ダメじゃないです。ただ、先に許可とれって話なんです。この家に、先輩用のバスタオルは髪用と体用のそれぞれ洗い替えまで含めて六枚常備してありますが、僕用のは二枚しかないんです。一枚は、先輩が来る前のシャワーで使ったわけで、明日の朝にはそれ一枚しか、バスタオルがないんです。
思いながらも、僕が苦笑して、首を横に振ると、先輩は安心したように少女に視線を戻した。
「座れるかい? それとも横になったほうが楽かい?」
「座らせてください。横になると色々と零れ落ちてしまいそうなので」
「気にしなくても良いと言うのに。けれど、まあ、それなら座らせようか」
先輩は随分と甲斐甲斐しく少女の世話を焼いていた。
少し複雑な気持ちになる。僕は先輩の身を案じているわけですが、先輩自身のその無警戒な態度はどこから来るのですか。
まあ、相手が死体で、どうやら体を動かせないらしいのでいろいろと仕方ないといえば仕方ないのかも知れないが。
少女は微笑みを浮かべ、先輩にされるがまま。先輩は何やら拘りがあるらしく、腕の位置やらスカートの皺の加減やらを整える。それこそ、どこからかヘアワックスを取り出してきて、一房の髪の毛まで細かく調整していた。
「あー、やっぱりいいね。こういうのは美少女が着るのが素晴らしい」
そうして、心行くまでこだわりつくした先輩は、そんなことを言いながら、満足そうに僕が入れなおした紅茶を飲んでいる。
「お褒めいただき幸いです。色々とありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。ついつい熱中してしまった。痛くなかったかい?」
「ええ、大丈夫です。今この瞬間に関しましては、私は何も感じていませんので」
その言葉に先輩は怪訝そうな表情を浮かべていた。たぶん、僕も一緒だろう。
そんな僕らをみて、少女は微笑む。
「今の私はちょうど気絶している私を、私の外側にいるバックアップの私が遠隔で動かしているような――あるいは、メインシステムがクラッシュした機械が予備のサブシステムで動いているような状態なんですよ。ひとりぼっちの私はここにいて、いないようなものなんです。ノーウェアでナウヒアなんです。ついでに、そのサブシステムに向かうはずの痛みに関しても、お節介な私の世話役が引き受けてくれているので、私には苦痛が及んでおりません。もっとも、いろいろと損傷がひどくて、現在、出来ることと言えば、先もお伝えした通り、会話くらいなものなのですが」
理解が及ばない。何も言えない。
まるで自らをロボットやPCのプログラムのように語るこの娘はいったい何者なのか。
そんな僕らを見て、少女は何かを思案したように数秒黙り込んだ。
「私は、白宮千秋(シロノミヤチアキ)と申します。正確なところを申せば、白宮は姓とも少し異なるのですが。お二人はなんとお呼びすれば宜しいでしょうか?」
そうだ。僕らは自己紹介すら済ませていなかった。
「サクラ、けど名前があまり好きじゃないんだよ。かといって、呼び名がないというのも不便だから、先輩、で良いよ。こっちは私の後輩。私と一緒で、後輩、で良いさ」
確認するように、少女――千秋ちゃんはこちらを見た。僕は苦笑して、それで良い、と頷いた。
「先輩さんと、後輩さん、ですね。畏まりました。お二人に改めて、お願いがございます。私をもう数日間、このまま世話していただけませんでしょうか? 私の世話役が戻るまで。早ければ明日には、どんなに長くても一週間もかからぬと思います。細かい話は、世話役が来るまでは明かせないのですが……お礼はしっかりとお渡しいたしますので」
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