天狗の如く、夜這うもの。

塊 三六

序 三月二十三日十七時五十分程度より同十八時三十分程度まで。

 空から少女が降ってきたのだ。

 曇天の夕暮れ、赤黒い空から真っ黒な和装の美少女が。

 周りに高い建物なんて何ひとつもない田舎道、その中央へと隕石の如く、墜落してきた。

 バケツがけたたましい音を立てながら転がっていく。今宵は正に春の嵐、と言わんばかりに強風は木立を低く唸らせ、電線を甲高く鳴らす。遠くの空からは雷鳴が響き始めていた。

 天候は崩れていく一方だ。早く帰らなければ。

 そう思いながらも、私はただただ立ち尽くしている。

 降ってきた少女の左側頭部は爆ぜ、ぱくりと開いた傷口からは脳と血液とがこぼれ、崩れきった眼窩からは眼球が転がり落ちる。ただ、何の悪戯か、右半分の頭部は一切のけがれを知らぬままアシンメトリーな一つ目の少女が、ひたすらこちらを見つめていた。

 ――ああ、綺麗な子だ。

 私は、不思議なほどに妙に落ち着いていた。あるいは混乱のすえ、思考が酷く鈍くなってしまって、己が冷静であるかのように感じているのかもしれない。少なくとも、頭の隅っこでそんなことを考えることができる程には、心に余裕があった。

 逢魔が時、赤を通り過ぎ黒に沈んでいく舞台、街灯のスポットライトの中央、妙に黄ばんだ光に照らされる少女。

 着物の柄は黒地に所々、白や灰色の花が描かれている。華やかではないが、綺麗な生地だった。

 黒い和装の襟から覗く白い喉。血液のビロードの上に、飾られるようにひっそりと置かれた華奢な左腕、細い指。肢体に絡む艶やかな黒く長い髪。

 まるで、発表会の前日、舞台の上、ひっそりと出番を待つグランドピアノのような美しさだった。

 墜落したはずなのにも関わらず、少女の胸元はきちりと死に犯されることもなく貞淑に打ち合わされ、帯も弛むこともずれることもなく締められている。なのに、どういう塩梅なのだろう。着物の左胸は赤く血液で染められて、白抜きのはずの花が真っ赤に染まっているのだ。

 対して、奇妙に片足を跳ね上げた足元は、着物の裾からふくらはぎが覗いている。真っ白な襦袢と素肌に、血液が点々と飛沫を散らして、妙に扇情的だった。

 その少女は白と黒と赤とに彩られて、驚くほど鮮やかに、死んでいた。

 美しい死など、おとぎ話の中の幻想だ。

 鮮やかな血、というのは空想の中にしか存在しないものだと思っていた。

 ガラス細工が砕け散る瞬間の美しさは、生命には存在しないものだと思っていた。

 どんなに耽美に死を語ろうとも、そこには痛みや、苦しみがあり、腐っていく肉体からは、秘されていた汚物があふれ出すものなのだ。

 そう思っていた。

 けれども、もしかしたら、それは違ったのかもしれない。

 美しいものは死ぬときも美しくなければならないのだろうか。どうすれば、こんなに美しく死ねるのだろうか。

 見つめているうちに、やがて。

 美しいものへのシンプルな嫉妬と憧憬を抱く。

 こんなに美しいのならば、他者からの好意も素直に受け取れるのだろう。

 こんなに美しいのならば、他者への好意も素直に表せるのだろう。

 こんなに美しいのならば。

 ――ああ、なんて綺麗な子なんだろう。

 私は死体を前にただ、立ち尽くしていた。

 ふと冷やりとした感触が、頬を伝う。

 雨だ。

 私は、ここにどのくらい、立ち尽くしていたのだろう。

 ほう。

 深呼吸をした。もしかしたら、今の今まで呼吸すら忘れていたのかもしれない。

 靄がかかったように意識はふわふわとしていた。頭を一度、二度、振って空を見上げる。すっかり、日は落ち切って、曇天は酷い大雨となっていた。風も強く吹いている。気付けば、冷たいと感じた頬と言わず、全身、ずぶぬれになっていた。そういえば、随分と体も冷えてしまっているようだった。

 やはり、私は混乱しているらしい。遅れてやってきた寒さを他人事のように感じながら、視線を少女の死体へと下ろす。

 その濡れた隻眼が静かに動いていることに気付いた。

 肌が粟立つのを感じる。

 私は視線を爆ぜ散った頭部の傷へと移す。

 地面に広がった鮮血が脈動している。雨粒や風による波紋ではない。無数の蛇のように、蠢いて傷口へ向かっている。飛散した脳が、コンクリートの上、潜るべき地面を探す芋虫のように頭蓋へと這う。

 かすかに胸が上下する。呼吸を、しているのか。

 そして、震える少女の手が。真っ白な手が私へと伸ばされる。

 口が動いた。なにかを伝えようと。口が動いている。

 私は必死に唇を読む。

 雨に滲む視界、私の震え、少女の震えで、読みにくい。

 時間はかかった。けれど、理解した。

 その瞬間、恐怖と混乱に、奇妙な笑みが溢れるのを自覚する。

『助けて』

 彼女の唇は、そう動いていた。

「助けるとも、助けるともさ」

 端から見れば悪夢のような光景だったかもしれない。

 私へと伸ばされた手を握る。

 少女の手は微かな力で、けれどしっかりと握り返してきた。思ったよりも骨ばっていて、そして暖かい手のひらだった。

 抱き起すと私にもたれかかってきた。内蔵も損傷していたのだろうか、少女は派手に吐血し、私の服を汚した。

 一瞬、躊躇する。

 内蔵に傷が付いているなら、無理に動かすのはまずいだろうか?

 しかし、すぐ下らない心配だと思い直す。たった今、目の前で死から蘇った人間の怪我の心配など、無用というものだろう。

「しっかりするんだ。大丈夫。私には最高の――相方がいるんだ」

 雨と血とその他諸々ですっかり濡れそぼった私は少女を背負うと、歩き始めた。

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