決別

無名大尉

決別

友人の葬式で、彼女に初めて出会った。


夏の暑さを無理に隠そうとする古い冷房。

小さな葬儀場なのに、そこは無限に広く感じられるほどの人の少なさだった。

不味くて乾いた葬儀場の料理を食べていた時、彼女は僕の手を取り葬儀場を出て、駅へと歩き出した。

連れられるまま電車に乗り、無言で2人はどこかへ向かう。目的地はどこか、それを聞くことさえアンモラルであるように思えて、黙っていた。


「着いたよ」

聞いた事もない駅の名前。

彼女は黒いワンピースの袖のボタンを雑に外し、見て、と言わんばかりに指さした。

海は見たこともないような美しさで、僕らの前に横たえていた。

既に日が沈みかけていた。誰もいない海だった。


僕は彼女のことなんかすっかり忘れたように、少し走って、それから深呼吸した。


「俺さ、あいつとラザニア食べたんだ。あいつが死ぬ前日に」

「そう」

僕は出会ったばかりの彼女と、深く理解し合っているような感覚を抱いた。僕は彼女に、一方的に友人の話をした。

彼女はあいつとの関わりはほぼなかったようだった。あいつの死に悲しんでいるとも思えなかった。ただ海を見つめているだけだった。ただ短い髪が揺れるだけだった。


僕はシャツのボタンを全て開けて、砂浜に横になった。彼女は僕の革靴を脱がし、砂の山に放り投げて隣に座った。僕は笑った。彼女は僕に同情するように、愛おしむように僕を見ていた。僕も彼女を見ていた。


「これがトラウマでラザニア食えなくなってるかも。どう思う?」

「そのうち忘れてくよ、意外と。だから大丈夫」

「そういうもの?」

彼女は頷いて、海へ向かって歩いていった。海の似合わない白い肌が濡れた。風が強く吹いて、水面が大きく揺れた。

彼女は歩いていく。より深く、深く。黒のワンピースが濡れて、その細い足にまとわりつく。やがてそれは溺れた烏の羽のように、水面をゆらゆらと行き交った。

気付けば辺りは暗くなり、光源といえるのはボロボロの街灯と月の光だけになっていた。あまりに早い夜更けだった。

僕はただ、彼女を見ていた。


「来なよ」


彼女にそう言われて、僕も海の中へ入っていく。スラックスは海水を含んでぶくぶくと太り、重みを持ち始める。生温い水面が膝を飲み込むくらいまで進んでいくと、湿った熱風が僕の髪の上を吹き抜けた。死んでしまおうかと思った。



「俺、これからどうしよう」


そう僕が口にした時、風は止み、世界は静かに沈んだ。ポケットに入れた眼鏡が音もなく落ちた。


彼女は虚ろな身体を濡らし、月を見て言う。


「・・・ラザニア、食べに行こうよ」
















「来なよ」


あれから1年が経った。僕は大学を辞めて、家族と仲が悪くなって、少し痩せた。

僕は膝まで濡れるくらいの水面を見やって、髪の伸びた彼女を呼ぶ。あの日と変わらない、黒のワンピース。

彼女はゆっくりと、神妙な面持ちでこちらにやってくる。僕は街灯を眺めていた。



「あの日、俺の事殺そうとしてたでしょ」

僕は表情を変えずに、分かりきったことを聞く。

「初めはね」

そう言って彼女は1年越しに、僕に初めて笑顔を見せた。いつか落とした眼鏡が、海中で踏まれて割れていた。それがたまらなく悲しかった。


「この1年、どうだった?」

彼女が問う。

「最悪だった」

僕が言う。

「そっか」

彼女は諦めたように呟いて、僕にキスをした。僕は彼女を見ない。

冷たい唇が離れる。長くなった髪が濡れて凍える。真っ白な肌を水滴が滑る。

僕はそのまま、彼女の頭を掴んで海の中へ沈めた。


水面は穏やかなままだった。暴れるそぶりも見せなかった。最終電車が通り過ぎた。彼女は脆い砂糖菓子みたいに、黒の海に溶けていった。


僕は泣いたのかもしれない。海水が風に煽られて僕の頬を湿らせた。熱風が僕の身体に強く吹き付けた。





そのうち忘れてくよ、そう彼女は言った。



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決別 無名大尉 @admiralse

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