第三章 魔界生活
壱
この世界は二つの区域に分かれている。
俺たち人間が主に暮らす区域、人間界。
悪魔を始めとする様々な異種族が暮らす区域、魔界。
分かれていると言っても、同じ大陸の地続きの中にはある。
両界を隔てるのは深く長い渓谷だ。
通常の方法では了解を渡ることは難しく、人間が魔界に入ることはほとんどない。
そもそも、人間と悪魔は古くから敵対し、今も争い続けている。
悪魔たちの王、魔王アスタロト。
かの王が従える軍勢と、人類は数百年競い続けていた。
生態系の頂点はドラゴンだ。
ただしこれは、種族としての優劣に他ならない。
単純な実力を比べるのであれば、現在の世界で最強は……魔王だと言われている。
魔王がその気になれば、この世界は三日三晩で滅ぶ。
にわかに信じがたい話だけど、そう言われるくらい恐ろしい存在だということは理解した。
先生が悪魔であることは知っていた。
その強さからも、悪魔の中でもトップクラスの実力者に違いないと思っていた。
けれどまさか、先生の帰る場所が魔王城……。
さすがに予想外すぎた。
「先生、魔王の部下だったんだ」
「おう。そういえば言ってなかったか」
「聞いてない。というか先生、ほとんど自分の話をしてくれなかったから」
「聞かれなかったからなぁ。興味ないのかと思ってたぞ」
聞けば応えてくれていたのか?
俺の気遣いが余計だったらしい。
「興味はあったよ。先生の強さが普通じゃないとは思ってたし、どうしてそんなに強いのか知りたいと思ってたから」
「あー、まぁ多少なりとも環境はあるだろうな。休暇に出る前ではほぼ毎日、血気盛んな奴らと戦わされたからなぁ」
「経験の差か……」
つまり俺も、この魔界で毎日戦えば先生の強さに近づけるのか?
だとしたら先生についてきたのは正解だ。
先生の相手だけじゃない。
実戦で力を試せる相手が他にもいるのは助かる。
「嬉しそうな顔しやがって。普通は怖がるところだぞ?」
「なんで?」
「魔界だぞ? しかも魔王城だ。お前ら人間にとって、ここほど怖い場所はないだろ?」
「別に怖くない。怖かったら、先生に弟子入りなんてしてないし」
「あーそれもそうか。お前は馬鹿だったな」
先生が豪快に笑う。
馬鹿と言われるのは心外だけど、確かに人間側からすれば頭のおかしいことをしている自覚はある。
悪魔に弟子入りする時点で普通のことじゃない。
先生が魔王の配下だってことには驚いたけど、それで態度が変わったりはしない。
元は異なる世界の出身だということが、俺の心の安定につながっている。
俺にとっては世界の事情も、種族同士の争いもどうでもいいことだから。
ただそれでも、多少の興味や疑問はある。
「本当にここ、魔王城なの?」
「ん?」
俺は左右を見渡す。
今も魔王城の敷地内に入り、建物の廊下を歩いている。
仰々しい作りで、いかにもなデザイン。
悪い奴らの根城っぽさは伝わるけど、それ以上の感想はない。
何より……。
「ほとんど誰もいないし」
「ああ、幹部どもなみんな自由だからなぁ。ほとんど魔王城にはいないぞ」
「自由って……戦争中じゃないの?」
「戦争中だぞ? 表向きはな」
表向きは?
首を傾げる俺の前で、先生はピタリと足を止める。
目の前には身の丈の三倍はある大きな扉があった。
いかにもって感じだ。
先生はノックではなく扉に右手をかざす。
すると押しも引きもせず、扉は勝手に開き始める。
「この城は魔王の魔力で動いてるんだよ」
「なるほど」
だから魔力を感じるのか。
これだけ大きな城全体に魔力を行きわたらせている。
その情報だけで魔王の異常さが伝わった。
俺はごくりと息を呑む。
扉が開き、赤い絨毯の上を歩く。
「戻ったぞ」
「――やっとか。随分と長い休暇だったわね」
「まぁな」
先生が気楽に話す。
まるで友人と久しぶりに会話するように。
絨毯の先、玉座に彼女は座っていた。
赤黒い髪に立派な角。
まさしく悪魔、麗しき女性の姿をした……魔王?
一見するとスタイルのいい女性にしか見えない。
魔王らしさはちっとも。
「あら? 隣にいるのは……人間?」
「――!」
目と目が合う。
瞬間、全身に鳥肌が立つ。
何をしたわけでもない。
ただ彼女が、俺の存在を認識して声を出しただけだ。
たったそれだけのことで、俺の身体は震えた。
魔王らしくないなんてとんでもない。
言葉一つで空気が変わる。
これが……世界最強の存在か。
「へぇ、あたしを前にして笑うなんて面白い子ね」
「だろ?」
俺は無意識に笑っていたらしい。
なんでかな。
恐怖よりも、歓喜が沸き上がる。
こんな存在がいたのかと、ワクワクして止まない。
「こいつはリイン、ワシの弟子だ」
「弟子? あなた弟子なんてとったの?」
「おう」
「ますます面白い子ね。あなたが指導する気になるなんて……」
ふわっと、いい香りがした。
直後、戦慄する。
魔王の手が、俺の頬に触れていた。
「興味があるわね」
「――!」
咄嗟に交代する。
腰の刀に手を添え、臨戦態勢をとる。
「あら? 逃げなくていいのに」
「……」
まったく気づけなかった。
瞬きをしたわけじゃないのに、気づけば眼前にいた。
もしもあの手が……俺を殺す気なら。
俺は死んでいた。
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