第42話 シノとの本当の出会い
初めて出会った当初のシノは敬語ではなかった。どこか気だるげにも見える佇まい。今からは想像もつかないシノの姿だった。でも、言動はシノだった。
人は良くも悪くも、すぐには変わらないのだ。
♢
アルバイトを探してひたすら路地裏を歩く。ここがどこかもうわからなかった。
ふと気配を感じたので、ばっと後ろを振り返る。それは半ば直感だったのだと思う。でも正解だった。
――そこにいたのはとてもきれいなひとだった。
ヨウと年は同じくらいかもしれない。艶やかな黒髪に、透き通るような白磁の肌。そして一番印象的な、長い睫毛に縁どられた澄んだ瞳。黒いフリルブラウスに黒いスカート。感情の読めない表情も相俟って、精巧精緻な人形のようにも見える。
彼女はここの気配によく馴染んでいた。だからこそ、ヨウはこの場所から帰るためにも彼女にここがどこかを教えてもらおうとした。
「ねぇ、」
――ここはどこ。
それを最後まで言うことはできなかった。こちらに気が付いた彼女は、そのままヨウから背を向けてしまう。長い黒髪がそれに合わせてサラサラと流れた。
「ちょっと、」
――あなたは誰。その言葉も最後まで紡ぐことができず、外に出ることのなかった言葉は空気のように立ち消える。
何も言わず少女は路地裏の闇に姿を消してしまった。彼女は路地裏の気配によく馴染んでいた。だからこそ見失うのも一瞬だった。
「何だったんだろ……」
あまりにも一瞬の出来事で、夢だったかもしれないなんて思ってしまう。
でも人がいるということに少し安堵した。だから変に安心してしまってまっすぐ歩き続けた。たぶん、世間一般には迷子というやつだ。
でも人生の迷子のヨウにとっては誤差だった。
♢
歩く。歩いて歩いて歩く。足がいい加減疲れてきた。空はもう真っ暗で月が煌々と街を照らしていた。ヨウには届かない光でもあった。
アオが心配しまいかと、ようやく迷子を自覚し始めて焦りだした時。
「ねえ、まだ歩いているの……」
背後から聞こえてきた声に、勢いよく振り返る。
そこには先程のきれいな少女だいた。思わず見惚れて言葉が紡げない。月の似合う、うつくしい少女だった。彼女がまた形のよい唇から言葉を紡ぐ。
「もしかして迷子なの……」
きれいな澄んだ声だった。よく通るソプラノが路地裏に吸い込まれて消える。やっぱり、長い睫毛に縁取られた感情の読めない瞳が印象的だった。はっと我にかえる。ここで言葉を何か発さないと、この少女はまた姿を消してしまう。
「……うん。半分正解で半分不正解」
そう、迷子ではあった。けれど、迷子というよりかはアルバイトを探していた。いい仕事を見つけるまで帰れなかった。だから、半分だけ正解。
そういう曖昧な言い方をすると少女はふふっと薄くわらった。ヨウが今まで見た中で一番大人びていて、同時に無限のあどけなさを秘めているような、そんな笑いかた。
「貴方って変わっている。とても、変わっているわ」
「お褒めに預かり光栄の至り。……ねえ、突然なんだけど、いいバイト知らない? 中学生でも働けるような、高給なバイト」
きょとんと少女は首を傾げた。思ったよりあどけない表情。それは順当な行動だと思う。意味のわからない妄言にも近い言葉だったのだから。
それでもヨウの発言は彼女を引きとどめるくらいのインパクトはあったはずだ。別にヨウは彼女がいいバイトを紹介してくれるなんてこれっぽっちも期待していなかった。ただこの不思議な少女をここに留めておきたかった。
彼女は首を傾げたまま口を開いた。
「ないこともないけれど……」
「そうだよね……え?」
どうかしたかとでもいうように、少女は真顔でヨウを見つめ返してきた。
思わず絶句。冗談かと思ったが、少女から否定の言葉はついぞ出てこなかった。
「貴方はお金が欲しいの……」
少女は静かにヨウに問う。澄んだ声で奏でられる言葉の語尾が路地裏に吸い込まれて、静かに消えてゆく。それがヨウにとっては心地よかった。
「えっと……うん」
「どのくらい……」
「すごくいっぱい。できるだけ沢山。……親が家を出て行っちゃって、すごくお金に困っているの」
本当はこんな裏路地に行くよりも、まずは警察に行くべきなのだろう。でも、ヨウは自由が失われるのが嫌だった。親のいない子供がどんな生活を送るかは本で知っている。
だからこそ、アオと二人っきりの生活が一番よかった。お金さえあれば幸せになれる。そう信じていた。
「――成程、把握したわ。それなら働き口はあるけれど……それよりもまず貴方は何ができる……」
少女は警察なんて一言も言わなかった。ただ、ヨウを尊重してくれた。尊重ではないかもしれない。でも面と向かってヨウに取り合ってくれた。それがヨウにとって一番嬉しかったのだ。
「自分は……何でも憶えられるよ。一度見たものは写真とか動画みたいに憶えられる」
「何でも……」
少女がそう問い返したくなる気持ちはわかる。
ヨウはおとなになる過程できちんと自分の異常性に気付き、それを客観的に正しく理解していた。だから、今武器にした。異常は逆手にとると武器にあるのだから。
「うん、何でも。新聞の記事だって、教科書だって、何だってすぐに憶えられる。五年前の新聞の記事も暗唱できるよ」
少女は、ほうと嘆息すると微笑んだ。ヨウは安心した。
「それは、素晴らしい能力ね……。私の思っている仕事にぴったり」
「ありがとう。一つ確認なんだけど、その……君の思っている仕事って……中学生でも働けるの?」
そこが一番引っかかっているところだった。日中アルバイトを探して歩き回ったけれど、全て断られたのだから。近所に親しい大人を作っておくべきだったと後悔したのだ。
「ええ、もちろん。だから話しているわ。でも、その代わり……貴方にそれ相応の覚悟はあるの。危険を冒す代わりに確実にお金が手に入ると言われたら、貴方は承諾する……」
少女の海よりも深い瞳がヨウを捉える。吸い込まれそうな瞳。何を見てきたら、こんな洞みたいな瞳になるのだろう。感情なんて見えなかった。ただ、ヨウを見透かそうとするような瞳。
この瞳の前では正直に何でも話してしまいそうだった。そんな恐ろしさがあった。
「――覚悟なら、あるよ。だから、今ここにいる」
ここにいるのは迷子という偶然の産物なのだが、それは今言及しなかった。覚悟があることには変わりなかったのだから。
「……」
少女はそれでもしばらくヨウを見つめていた。美人の無表情とは少し冷たくて恐ろしく感じるんだなと実感した。それくらい現実逃避するくらいの時間はあった。
彫像のように身じろぎ一つ、瞬き一つしない少女。それは永遠にも感じられた。でも、実際は十秒にも満たなかったかもしれない。
ただこちらの誠意を伝えるために、静かに見返す。少女の瞳の中にヨウ自身の姿が映っていて鏡みたいだと思った。
「……わかったわ。組織――そう、会社みたいなものが貴方を受け入れるかはわからないけれど、私は貴方を推薦する……」
どうやら少女のお眼鏡に敵ったらしい。思わずほっとヨウは肩の力を抜いた。
「よかった……」
少女は微笑んだ。そして歌うように言葉を紡ぐ。先程感じた畏怖にも近い冷たさなんてどこかへ消え去った。月の光の方が冷たく感じるくらい、彼女の纏う空気がやわらかくなった。
「ねえ、貴方の名前は何というの」
初対面で身分も何もわからない少女に向かって名前を言うべきか逡巡した。でも、もう捨てるものもそんなにないことに気が付いた。アオさえ失わなければいい。それだけだった。
「――名前は、ヨウ」
「いい名前……」
少女は優しくわらう。月光が彼女を優しく照らしていた。
「私の名前は、シノ。ヨウ、どうぞよしなに」
ひらりとシノは舞うようにお辞儀をした。お嬢様とでも形容できそうな、そんな優雅な仕草だった。
♢
予想外すぎる巡り合わせ。何も予想できない顛末。
それがシノとの本当の出会いだった。
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