冬
第31話 期末テストと夢
修学旅行のあの夜からシノの中でなにかが吹っ切れたらしい。
というのも、シノは前ほど勉強をしなくなった。いや、他の中学生と比べるとかなりしている方ではあるのだが、前みたいに狂気的なまでに勉強をしなくなった。健康的な勉強というか。一友人として少し安心した。
そうして季節はすっかり冬になった。木々は葉を落とし始め、冬景色に染まりつつある。時の移り変わりは早いなあなんて思った。
寒さのため女子はブレザー、男子は学ランを着ており、教室は紺や黒でどこか重苦しくなってきた。夏はみんな真っ白なブラウスを着ていたり、窓を開け放ったりと爽やかさなんてものがあった。
しかし冬がやってきた今は視界も空気も重くるしい。
それはヨウたちが中学三年生で、受験というものが控えていることも一因だった。ここは公立中学校だからほとんどの生徒が人生で初めての受験だ。どこかピリピリとした空気が一部には漂っている。ヨウもシノもどこか吹く風だったけれど。
「ねえ、シノ。将来の夢は何か決まってるの」
息抜きがてらそんなことを訊いてみる。そろそろ卒業文集を書かなくてはならない。その流れでそういえば、とシノに訊ねてみたのである。
まあ純粋な興味の方が大きかったけれど。この何でもできる少女は将来何になりたいんだろう。何でもなれる気がする。
「私ですか?」
まさか質問されるなんて、思ってもみませんでした。とでも言わんばかりの表情を浮かべる。
「うん。他に誰がいるっていうの」
笑いながら答える。シノも笑った。
「確かにそうですよね」
そこでシノは少し躊躇ったように言葉を切る。そして困惑しているような表情を浮かべるのだからヨウは少し不思議に思った。
「……でもごめんなさい。私、実は将来の夢がないんです」
「え?」
これは予想外だった。選択肢が多すぎて困っているのだろうか。
「じゃあ、候補とかないの。これとこれで迷ってるとか」
「……いいえ。ないんです。本当に。……ヨウは何になりたいとかあるんですか」
確かに訊かれると答えに窮する。確固たる夢がないとこういう時に即答できないのかもしれない。そもそも中学生に将来の夢を書かせるなんて、卒業文集とは酷いものだ。黒歴史確定。
「うーん。ヨウもわからないかな……。薬系の何かに就職できたらいいけどね」
「立派な夢があるじゃないですか。羨ましい」
「待って、羨ましいのはシノだって。何でもなれるんだし」
「ふふっ、ヨウからはそう見えているんですね」
「実はね、ヨウ。私……卒業したら国外へ行くんです」
「――え?」
耳に入ってきた言葉があまりにも信じられなくて、思わず間抜けな声を出す。今日は驚いてばかりだ。
そういえばシノのことを何も知らなかったんだなと痛感する。こんなに近いのに酷く遠い。あの水族館の日から変わっていないのかもしれない。
「ええ、家の都合で。だから私、今夢を抱いても叶わないものが多いんです。なら、願わない。そうしたら哀しくないでしょう?」
困ったように形のよい眉を下げて答える。否、そこじゃないだろう。ただただ絶句する。
「だから、私この一年をうんと楽しもうと思って。ヨウがいてよかった。おかげで私、今がすっごく楽しい」
可憐な花のような笑みを浮かべてシノは答える。
――すごく儚い。今にも消えてしまいそうな儚さがある。修学旅行の夜に感じたあの儚さと同種だった。
「そうですね……欲を言えば、ヨウに私のことを忘れないでくれると嬉しいですね。なんちゃって」
わざとかわからないがシノは悪戯っぽい表情を浮かべる。それはどこか寂し気にも見えた。思わず口から言葉が飛び出した。
「忘れるわけがないよ、シノ。こんなインパクトの強い少女なんていないからね」
敢えて茶化して言って見せる。シノに笑ってほしかった。シノは軽やかにわらった。
――嘘ですよ、なんて冗談だと笑い飛ばしてほしかった。本当に、卒業したらいなくなるの?
「ふふ。それは嬉しいですね。知っています? 死には二種類あるらしいんですよ。物理的な死と、精神的な死。もし身体が生命活動を止めたとしても、誰かの記憶に残り続ける限りその人は死なないんですって」
急に死生観の話になった。まるでシノがこの世から去ってしまうような物言いに怖くなる。
「待って、まだシノは死なないでしょ?」
それは哀願だったかもしれない。縋るような言葉でもあったかもしれない。こんな綺麗な少女が消えてしまうのは哀しかった。
いいや、綺麗な少女だから哀しいんじゃない。シノが消えてしまうと考えると哀しかったのだ。そこをはき違えるほど愚かではないつもりだ。
「ふふ。それはどうでしょう」
シノはうつくしく笑った。全てを達観しているように。
「だって今日隕石が降ってくるかもしれないんです。ビッグバンの逆の……そう、ビッククランチが起こって全て無に還るかもしれません。今日毒を盛られてしぬかもしれないし、交通事故にでも遭うかもしれない。明日のことは誰もわかりません。だから、まだ死なないという約束なんて、そんな無責任なことができるわけがないんですよ」
「それは……。そうかもしれないけど。違うの。ヨウは、シノに死んでほしくなかっただけ」
「まあ、熱烈。一人でもそう言ってくれる人がいるなんて幸せですね」
「みんなそう思ってるって。……さっき死は二種類あるって言っていたけど、シノはずっと誰かの中で生き続けるよ。どこに行こうが、行くまいが。あんな輝かしい文化祭を忘れる人はいないだろうから」
シノは微笑んだ。今日のシノはよくわらう。
「まあ、それは嬉しいですね。でも、きっと皆さん卒業したらこんなちっぽけな一生徒なんて忘れてしまいますよ。それでもいいんですけれどね」
「ヨウが忘れないよ。だって、ヨウは全てを記憶する脳を持っているんだから。ヨウだけは、絶対に忘れない」
何故かシノは泣きそうな顔をした。
「ありがとうございます。……なら、私は長生きできますね」
「うん。そうだよ。物理的にも長生きしてよ」
「善処します」
どうして嘘でも約束してくれないんだろう。善処だなんて都合のいい言葉を使うシノに、ヨウは不安が拭えなかった。
そのヨウの感情を正確に読み取ったのだろう。シノは安心させるように笑いかけた。
「ヨウの言わんとしていることはわかりますよ。ただ、私は離別と死別は同じと思っていて。それが少し寂しいなと思ってしまったんです」
確かに。死別も離別も、もう会えないという意味では同じだ。
でも、そうじゃないだろう。離別は、また逢えるかもしれないという希望が生まれるのだから。死別は、自分が死ぬまで再会が能わない。
「海外ってそんな遠くに行くの? 帰ってもこれないの?」
「ええ、これは決定事項なんです。
でもね、とシノは言葉を紡ぐ。
「明日死ぬかもしれないから今日が輝くんですよ。だから、私は今が楽しい」
なんて太陽のような笑顔で言うシノは誰よりも死から遠く離れているように見えた。
中学生とはちっぽけだ。自分の生き様一つ決められない。いくらいい親に恵まれたからといって、自由に生きられるとは限らないのだ。むしろ親が実質いないヨウの方が自由なのかもしれない。どちらが幸せなんだろう。どっちも幸せであったらいいのに。
「そっか。それはよかった。じゃあ、卒業まで精いっぱい楽しもう」
「ええ、もちろん」
今が輝いているのはヨウも同じだった。シノと出逢えて、よかった。
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