第30話 長い長い夜

 月はまだ煌々と照っていた。夜はまだ明けない。


「ふふっ、私だけ話して恥ずかしいですね。……次はヨウの番ですよ。何か悩み事でもありますか」

 わざとであろう明るいシノの声が静謐な夜の宿に溶ける。

「えー。ヨウは自白剤飲んでないよ」

 わざとこんなことを言って見せる。シノが話したのは、自白剤の所為だということを再び裏付けるように。


 吐いた嘘は最後まで吐き続ける。そうして真実に一番近いようにする。だって今回は嘘の方が優しいのだから。シノは自白剤を飲んだから色々話した。それが今夜の真実うそ


「でも、私の話だけ聞いてもらうのは申し訳ないです。すっかり目も冴えてしまいましたし」

 それはヨウも同じだった。今眠れる気はしなかった。

 じゃあ、話してもいいか。ヨウだって抱えているものがないことはないのだ。


 月明りで薄っすら見えるシノの表情は憑き物が落ちたような表情をしていた。やっぱり、話したら楽になるかもしれない。

 だから少しだけ話してみようと思った。相手がシノだからこんなことを思ったのかもしれない。シノもヨウと同じことを思ってくれてたらといいな、なんてちらりと思った。


「じゃあ、少し聞いてもらおうかな。……アオの話を」

 基本悩みのないヨウだが、唯一にして最大の悩みは妹のことだった。誰にも話したことはないが、シノになら話してもいいと思った。

「ええ、もちろん。そういえば、妹さんは今どこに」

 いつぞやの記憶がぶり返す。夜の学校でも同じ質問をされた。その時は困って返答できなかった。それをシノは正しく覚えていたのだろう。


「……わからない。でもしばらく家に帰ってきてないし、会えてもいない」

「じゃあ、それが答えなんでしょうね」


 ――アオは死んだのかもしれない。


 この一文が脳にこびりついて離れない。それは一番恐れていることだった。

「ヨウ?」

「――ううん。何でもない。ただ……アオはもう死んでいるのかもと思うと、ちょっと怖くなって」

 これは本音だった。紛れもない本音。

「それはまだ決まったわけじゃないのでは? 死んだのならもっと確たる証拠があるはずですよ」


 確かにそうだ。遺影とかお墓とかそういうものを見た記憶はない。

 でも、そもそもアオの部屋にはしばらく入っていない。アオの部屋どころじゃない。家の中で立ち入っていないところがあまりにも多い。生活に必要な最低限度の部屋にしか入っていなかった。意識か無意識かわからないけれど。でも、まるで臭い物に蓋をしているようにアオの部屋のドアは開けられたことがなかった。


「……でも、おかしいの。ヨウはアオが一番大切だった。そしてそのアオが半年以上帰ってこないのに、警察に相談したこともないし、しようと思ったこともない。こんなのおかしいよ」


 ここにきてようやく自分が一番おかしいのだと気がついた。この世界が狂っているのではなくて、ヨウが狂っているのだと。


「ヨウは、どこかでわかっているんじゃありません? 妹さんが、今本当はどこにいるのか」


 シノは淡々と厳しい現実を突きつける。そこには慰めや励ましなんて優しさはなかった。否、これはある意味で優しいのだろう。優しいから真実を突き止めようとしてくれているのだ。優しさには何通りもあるのだから。


 暗がりのおかげでシノの瞳が見えなくてよかったと思った。今この不安定な状態であの深海のように深い瞳を見たら、本当に吸い込まれてしまうかもしれなかった。 

 いや、シノの瞳も今は揺らいでいるのかもしれない。今夜はお互いの弱いところを曝け出している。多分、お互いに初めてのことだろう。よくも悪くも。――いや、きっとよいはずだ。


「……そうかもしれない。いつの間にかヨウの中で、アオが帰ってこないことが当たり前になってる。それに疑問も持たなかった。なら答えは一つ。――アオは死んでいる。だから家にいないのが当たり前。でもね、肝心のアオが死んだときの記憶も、お葬式の記憶もない。ここが矛盾しているの」


 言っていることが支離滅裂なのはよくわかった。本当におかしい。おかしいけれど、最早どこがおかしいのかわからなくなってきた。


「……それは困りましたね。では気分転換がてら、少し話を変えましょう。ヨウのお父さんやお母さんは?」

 うーん。ヨウの家族のことはあんまり大きな声では言えない。家族で愛しているのはアオだけだった。


「お父さんは小さい頃に蒸発した。大分小さい頃のことで、顔も覚えてもいないから何とも思ってない。お母さんは海外に行っているはず」

 感情を込めずに淡々ということに成功した。こんな親に感情を動かすなんて業腹だ。

「それは大変でしたね。お母様はお仕事で?」

 お母様なんて言わなくてもいいのに。

「うん。お母さんは研究者なんだけど、自分の気になったことはとことん追究したいみたいで。頭はいいんだろうけど、尊敬はできないかな」

「では、そのお母さんと妹さんが一緒に海外に行っているっていうことは?」

 その線は考えていなかった。でも、ありえない。

「ないよ。あの人についていったらまずまともな生活が送れないから。あの人は自分が一番かわいいから、ヨウたちのことなんてどうでもいい。だから、帰ってこないし、帰ってこなくてもいい。アオさえいればいい」


 多分、愛されて育ったシノには想像もできない世界だろう。むしろ申し訳なくなってくる。


 正直、あの母親のことなんて忘れていたかった。愛された記憶もない。ご飯だって自分の研究の方が大切だと言わんばかりで、碌に作ってもらえなかった。ただアオと二人で頑張って生きていた。そんな幼少期。思い出したくもなかった。


 ――もし忘却はプレゼントというのが本当なら、忘却したことも忘れさせてほしかった。辻褄を全部合わせた上で忘れさせてほしかった。アオとの楽しい思い出だけ覚えていられるようにしてほしかった。

 過去の願望なんて虚しい。


「成程。ヨウは妹さんが大好きなんですね」


 すっと一筋の光が差し込むように、シノの言葉に救われた気がした。ひどい家庭環境のことを話しても、いいところを見つけてくれる。時に鋭い言葉をかけてくれるからただの慰めがけではないこともわかる。


「うん、大好き」

「逢いたいですか」

「うん、逢いたい」

「記憶を取り戻せるといいですね」

「……うん。そうだね」


 シノと会話していて、アオが死んでいるということに間違いはなさそうだった。でも、肝心のアオが死んだあたりの記憶を失ってしまっている。


 どうりで夜の学校のあの部屋に記憶を失う薬のようなものが置いてあったわけだ。

 きっとヨウは記憶を失う薬を自分で飲んだのだ。理由はわからない。わからないということにしておきたい。


 気がつくと月はもう姿を消していた。代わりに現れたのは太陽のようで、窓が白んでくる。朝がくるのだ。どこかで小鳥が啼いている。


「……いい朝ですね」

 シノがそっと呟く。

「そうだね。そろそろ寝ようか」

「ええ。いい夜でしたね」

「そうだね。……シノは眠れそう?」

「今なら少し眠れそうです」

「そっか。よかった。……おやすみ」

「おやすみなさい」


 引きずられるように、とろとろとした眠りが襲ってくる。眠りに落ちる直前、ありがとうと声が聞こえた。夢だったのかもしれないけれど。もしそれが本当なら、ありがとうと言いたいのは、ヨウの方だった。


 どちらからともなく眠りに落ちた。

 ようやく長い長い夜が明けて、新しい朝がやってきたのだ。

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