第29話 長い夜
「シノ、布団に入ろう。寝っ転がった方が話しやすいし」
眠れなかったとしても、身体は休めるべきだ。二人で隣り合わせに並べた布団にくるまる。旅館の布団特有の他人の匂いはやっぱり慣れない。
重い暗闇の中、シノにそっと訊ねる。自白剤を飲んだ感想でも訊いてみようと思った。
「シノ、今どんな気持ち?」
「……思ったより普通ですね」
「普通って?」
この質問は、我ながら意地が悪いと思った。
「普通は普通です」
――そりゃあ、ただの砂糖なんだから。
とは言わない。だってこれは魔法なのだ。シノが話したいことを話せるようになる魔法。
薬は、魔法だ。体にメスを入れなくても病気を治したり、痛みを抑えることができたりする。でも、薬に薬効がなくても魔法になれるのだ。それがプラシーボ効果。
「そっか。じゃあ、シノの家族の話をしようよ。お父さんとかお母さんはどうだったの」
ヨウは自分の台詞に自己嫌悪を感じた。普段はこんなことを訊けないから、自白剤を飲んだと思い込んでいるシノに訊いたのだ。
なんて卑怯なんだろう。
でも好奇心は止められなかった。どんな親に育てられて、何を見て、何を感じてきたかを知りたい。どうしたらこんなに完璧な美少女ができるのか、知りたかったのだ。
知りたい。知りたい。知りたい。
そう願ったことはすぐ知らなければいてもたってもいられない性格なのだ。薬なんて開発するのもそのせい。
「私はね、愛されて育ってきました」
ぽつりとシノはこぼした。言うつもりがなかったのに、なんて戸惑いが言葉の端々に滲んでいたけれど、それでもシノは言葉にしたのだ。
「うん、わかるよ。……いいお父さんとお母さんだね」
ヨウには父親と母親に碌な思い出がないため、本心からの言葉だった。苦笑のような息遣いが暗がりのなか聞こえてくる。
「ええ。ヨウを不快にさせてしまうかもしれないんですけど、私はお金に不自由したこともなかったし、したいことはなんでもできたんです。習い事もしたいと言えばできました。そのおかげで運動も、勉強もそれなりにできるようになりました」
思ったよりもシノは話してくれる。自白剤が予想よりも効いているのかもしれない。
「羨ましいなー。でも別に怒らないよ。ってか運動も勉強もそれなり、とかいうレベルではないと思うけど?」
蘇る球技大会とテストの記憶。あれでそれなり、なんて言ったらそこそこ努力している凡人たちに怒られるだろう。
「ふふっ、そう言ってくれると嬉しいですね。努力した甲斐がありました」
軽やかに笑っているが、シノはどんな顔をしているのだろう。暗闇では相変わらず表情は全く見えなかった。
「でも、そんな恵まれた環境なら、努力するしかないでしょう? 与えられて、できなければそれは私が悪いのですから」
そうか、と俄かにに合点した。
この少女は、苦しかったのだ。与えられるということは、期待という名のプレッシャーも与えられるということ。でも、目に見えるところでは誰にも強要されない。残酷なことに、言われてするのではなくシノ自身が自分から進んでするのも望まれていたのだ。
つまり、シノは自分で自分の首を絞めるしかなかったのだ。「こんな恵まれた環境にありながら、そんなことも出来ないのか」なんていわれる世界。いいや、言われることはないだろう。ただそう思われるだけ。でもシノにとってはそれが一番いやだったのかもしれない。
「そうだね。ヨウみたいにお金がなかったら立派な言い訳ができるもんねー」
「そういうわけでは……」
シノの戸惑ったような声が響き渡る。やっぱりどうして、こんなことを言ってしまったのだろうという戸惑いが言葉の端々に馴染んでいる。うん、十中八九、自白剤という魔法のせいだね。魔法にかけられたシノは、望んでいた結果が得られたのだろうか。
「違うよ。シノを非難しているんじゃなくて、なるほどなと思っただけだよ」
与えられなければ、環境の所為に出来る。
ピアノが弾けなくても、お金がなかったから仕方ないと言い訳が出来る。水泳が不得手でも、お金がなくて習えなかったから仕方ないと言えてしまうのだ。でも、したいといえば出来た世界では、全てが自分の責任。
親に愛されているのであれば、性格が歪むことすら許されない。親に愛されているのに、どうしてそんな性格なの? なんて後ろ指を指されてしまう。全てが嫌になって投げ出したくても、投げ出せない。
「でもシノはそれを与えてほしかったわけじゃなかったんだね」
「……贅沢な望みかもしれませんね」
暗がりの中でシノは身じろぎした。そして、ぽつりと零された言葉。やっぱり自白剤の所為。もしかしたらシノも誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。家族でもない他人でもない誰かに。
「でも、普通がよかった。だって、私は普通の能力しかもっていないんですから。ヨウみたいな、天才的な頭が欲しかった」
まさか、この頭脳を羨ましがられるとは思っていなかった。それも、誰もが憧れる生徒会長サマに。
「そんな、買いかぶりすぎだよ」
「でも、ヨウが私の家に生まれたらよかったんです。そうしたら、きっと、もっといろんな期待に応えれた」
シノにしては珍しいたらればの話。そういえば、シノはもしもの話をしなかった。きっとそれは後悔のないように努力して生きているからなのだろう。
「うーん、どうだろう? ヨウは天才だけどお金があってもしたいことをするだけだけどね」
そう堂々と言い切ると、シノはクスりと笑みを漏らした。
「ヨウは強いですね。だから天才なのかも」
「何言ってるの、シノの方が強いに決まってるじゃん」
率直に感想を伝える。今は飾りのついた言葉なんていらない。
「ヨウは、自分の欲望に反して生きるのってすごくエネルギーがいることだと思う。シノはよく頑張ってるよ」
一拍置いて、シノが布団に顔を埋めるような音がした。くぐもった声。
「ヨウは、優しいですね」
「シノの方が優しいよ」
「いいえ、私は優しくないんです」
次の言葉をただ黙って待っていると、やはりこの少女は言葉をぽつりと零した。
「だって、だって――優しくならなければならなかった人間が、どうして本当に優しくなれるんですか」
ああ、この少女は、優しくなることも望まれたのか。優しく、清楚で、何でもできる完璧なお嬢様を演じろと、そういわれてきたんだ。なんとなく、わかる気がする。
「大丈夫、シノは十分優しいよ」
ゆっくりと言葉を置いていく。
「だって、本当に優しくなかったらヨウなんかと一緒にいられないよ。ヨウは自由気ままで気遣いということをしらないもん。だから、ヨウと仲良くできる人は優しい人なんだよ。ほら、大丈夫。ヨウが保証する」
そう言いながら、シノの頭を撫でる。
妹にするように自然に手が出てしまったのにはびっくりしたが、それも一瞬のことだった。そう言えば、シノは妹だったっけ。それなら、お姉ちゃんに甘えればいいのだ。
「シノは、優しいよ。そうじゃないと、人からの期待になんて、応えれない。優しいから期待に応えようとするんでしょ」
そうじゃなければ放蕩息子、なんて単語は生まれない。お金持ちに生まれたからといって、いい両親に恵まれたって、必ずしも優しい人間になれるわけではないのだ。シノが考えて、努力してきたから今のシノがあるのだ。
今晩、それがよくわかった。だからこそもっとシノのことを尊敬するようになった。
「……ヨウにそう言ってもらえると嬉しいですね。でも……でも、とどのつまり私は自分が大切なのかも。期待に応えられている自分が好きなんだと思います。もし、応えられなくなったら。その時が一番怖いです」
大丈夫だって。
それを言うのは簡単だった。でも、そんなことを言ってもなんの解決にも慰めにもならないのだ。だって、ヨウはシノではないから。期待されて生きてこなかった。
ヨウとシノは何もかもが違う。なのに、噛み合った。お互いの存在が心地よかった。何もかもよくわからない。
「ヨウはシノが難しいことを考えず幸せに生きてくれたらそれでいいと思うよ。無理なんてしなくていい。ヨウは、何でもできる少女だからシノと一緒にいるんじゃない。シノだから一緒にいるんだよ」
途端、シノが息を詰めるのがわかった。ヨウの言葉にシノが何を感じているのかわからなかった。
でも、わからなくてもいい。
今日ヨウはシノのことを知れたような気がしたが、それは錯覚だ。人の一生がこの短い会話で語りつくせる訳がないのだ。複雑な感情だって理解できない。それ以上ヨウは踏み入らなかった。
一拍置いてシノは笑った。暗がりでもよくわかった。
「ありがとうございます。ヨウに会えてよかった」
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