第20話 回想

 ヨウが水族館に来たのは今日で二回目である。魚を見つめていると自然に一回目の記憶が脳裏に再生される。


 あまりいい記憶ではないのだけれど、残念ながらこのなんでも覚えられる脳は全てを鮮明に覚えていた。しばし回想に耽る。


 ♢


 あれは忘れもしない、小学六年生の遠足のことだった。卒業間近ということでお別れ遠足として水族館へ行ったのだ。


 水族館。

 誰もがイルカショーやサメなどのド派手な展示に釘付けだった。あとは、クマノミやらキラキラした魚のところでたむろするなどしていた。

「ねぇ、あのクマノミかわいいー。ヨウちゃんもそう思うよね?」

「うん、そうだねー」


 にへーと締まらない笑みを浮かばせる。もちろん故意に。こういうのは適当に追従するのがいいのだ。

「よねよね! あっあそこの小魚もカラフルでかわいい!」


 自分に話しかけてきた女の子は周囲の数人で声を上げながら、あっという間に遠くへ行ってしまった。

 きゃらきゃらとはしゃいで、馬鹿みたい。何がそんなに楽しいんだか。


 確かに、魚は可愛い。動物園よりは水族館の方が好きだった。イルカもサメもクマノミも全部可愛い。でも、それだけだった。


 ただ水槽を視界に入れて通り過ぎる。どちらかと言えば、展示の説明から知識を吸収するのを楽しんでいた。


 知識。

 幼い頃から知識を貪るのは大好きだった。だって、自分は見たものを絶対に忘れない脳みそを持っているから。一度見たものは写真のように脳に刻み込まれる。思い出すのに時間がかかることはあれど、記憶したものは一言一句違わずに暗唱することもできた。


 ――ごめんね、天才で。


 勿論こんなことは口にしないけれど。

 そんなことだから、知識を吸収するのはある意味自分の趣味だった。だから魚そっちのけで文字の羅列を追う。今日の水族館遠足は徹頭徹尾、文字列を追って過ごす筈だった。

 それなのに。


 次のコーナーへ歩く。視界が少し暗くなり、ふと視線を上げる。水槽が目に入る。途端、目の前の光景にくぎ付けになった。痺れた。


 クラゲ。

 そう、そこにいたのは、ゆらゆらと漂うクラゲだった。クラゲなんて始めてみた。少し薄暗い水槽で、彼らは自由気ままに漂っていた。青いLEDライトに照らされて、輪郭が薄青に淡く光るクラゲたち。それは、えもいわれぬほど幻想的だった。


「わあ……」


 そう、自分はクラゲに一目ぼれしたのだ。

 くらげになりたい。直感的にそう思った。


 ――こうやって何も考えずに、のらりくらりと漂っていたい。


 人間は、物事を考えすぎる。生きるのが幸せか、不幸か、そんなことばかり考えている。

 なんて思春期特有の主語の大きい話をしてみる。だって思春期だから。小学六年生は思春期でしょ?


 ――いや、クラゲも実は何かを考えているのかも。

 どれほど研究しても、きっと人間にはわからない世界だ。クラゲは構造が我々ヒトとはかけ離れすぎている。哺乳類なら研究が少しは進んでいる筈だが、クラゲの思考についての研究にスポットライトが当たるには恐らくもっと時間が掛かる。結局、クラゲは何も考えていないのかもしれない。


 知りたい。知りたい。知りたい。知りたい。全てを知りたい。

 誰も知らないことも、余すところなく知りたい。この世の全ての真実を狂おしいほど愛している。


 ――もしかしたら、クラゲになったら、クラゲが何を考えていうのかわかるのかもしれない。


 だったら、自分はクラゲになりたい。

 たとえ、クラゲが何も考えていないとしても。思考することがなければ、わからないことがわからないのだから。かの有名なソクラテスが言った、「無知の知」の逆である。それは、かえって幸せなのかもしれない。


 ――いいや、違う。

 ぼんやりとした思考を追い払う。考えられないということは、知識もないということ。それは、地獄じゃあないか。


 知識があるから今生きていて楽しいのに、それがないなんて。少なくとも自分にとっては地獄に他ならない。


 ……あれ? 考えることができないのであれば、そもそも喜怒哀楽もないのか。幸せも不幸もわからなければ、不幸になりようがない。


 嗚呼、やっぱりくらげになりたい。


 目の前の水槽では、クラゲたちがゆらゆらと浮かんだり沈んだりを繰り返している。触ってもぷにぷにとして気持ちよさそうだ。


 でも、こんなクラゲにも毒がある。やっぱりきれいなものには毒があるのだ。ますます好きになってしまう。展示の説明を秒速で叩き込んで、あとは水槽をずっと眺めていた。ただ、水にふよふよと漂うクラゲたちを。


 ♢


 それは三年ほどだった今も変わらなかった。クラゲのコーナーにくぎ付けになる。ここにはそこまで人もいないし、落ち着いてクラゲを観賞することができた。


 長い触手がライトに照らされて煌めく。もつれないか心配になるくらい長いそれが不規則に揺らめく。半透明なかさが色とりどりのライトに照らされて縁が淡く光っていた。


 それをずっと眺めていた。シノだって、黙ってそれを眺めていた。その横顔を見る。シノは水族館に来たことがあったのだろうか。水族館が好きだったのだろうか。どの魚が好きなのだろうか。


 そういえば、ヨウはシノのことを何も知らない。こんなにも近いのに、遠かった。

 それが少し哀しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る