第21話 夏祭り

 夏休みといえば夏祭り。

 というより、ヨウには先日の水族館とそれくらいしか夏休みの予定がなかったのである。


 ♢


 がやがやとした夏祭り特有の喧騒。軽やかに走るこどもたちがヨウを追い抜かしていく。数人はお面をつけており、数人はヨーヨーなどの戦利品を手にしていた。彼らには無尽蔵の体力があるのか、ずっと笑顔で走り回っていた。


「若いなあ……」

 思わずヨウは率直な感想をこぼしてしまう。だって、もうあんなに無邪気に走り回ることはできないと思ったから。


「ふふっ、まだ私たち若いじゃないですか」

 そうやって隣で笑うのはシノだった。折角だし、とレンタルした藍色の浴衣はシノによく似合っていた。

「確かに、まだ成人すらしてないか」

「そうですよ、老けるにはまだ早いんですからね。それを言ったらあと十年後にはおばあちゃんになってるかもしれませんよ」

 二人で笑った。今は他愛ない会話が一番たのしかった。


 ――もしかして、こんな日常の一頁にも満たない出来事を忘れてしまうのだろうか。


 先日、忘れてしまった記憶があるのを自覚してから、些細な日常を忘れてしまうことに怯えるようになった。特にシノとの楽しい出来事なら尚更。


 しかし、同時に日々を大切に生きるようになった。


 ――もしかしたら、これが”忘却はプレゼント”なのかもしれない。


 今まではどうせ記憶するからなんて思って”今”が良く見えていなかったし、楽しめていなかった。でも、忘れるなんて思ったら”今”の希少価値がぐんと上がった。


 そしてそれを自覚してから、日々が楽しくなってきた。だって今この瞬間を楽しまねば、いつか忘れてしまうかもしれないのだから。


 ♢ 


「かき氷ください。レモン味で」

「あいよ! 次のお嬢ちゃんは?」

「私はイチゴ味でお願いします」

「りょーかい! ちょっと待ってな」


 元気のいいおじちゃんにかき氷を作ってもらう。日焼けしたごつごつした手。普段は何をしている人なんだろう。その思考も、おじちゃんの太陽みたいな笑顔を見ると吹き飛んだ。

「はい、かき氷二つ。おまちどおさま!」

「ありがとうございます」


 二人の手にはそれぞれ黄色と赤色のシロップがかかったかき氷。

「わあ、私、かき氷食べるの初めてなんです」

 シノが瞳をきらきらさせてかき氷を見ている。

「え、初めて?」

「ええ、初めてです。何ならお祭りに来たのも今日が初めてです」

「そうなんだー。よかったじゃん、お祭りデビューだ」


 あくまでヨウは淡々と返したが、内心かなり驚いていた。十五の年まで一度もお祭りにきたことがないなんて。やっぱりヨウはシノのことを全然知らなかった。


 シノがかき氷を口に含む。途端、華が綻ぶようにシノは笑顔をこぼした。

「冷たくて美味しい……」

「そりゃあ、氷だからねー。……うん、美味しい」

 少し口に多く含みすぎて頭がキーンとなったのは隠した。ちょっと、いやかなり痛い。アイスクリーム頭痛ってやつね。これはかき氷だけれど。


「かき氷のシロップの味が全部同じって本当ですか?」

 よくある豆知識だ。かき氷のシロップの違いは色だそうな。

「うーん……どうなんだろ? ヨウはあんまり考えたことなかったな。だってどの味も美味しいし」

「それもそうですね。美味しければ、その味なんて些細なことかもしれませんね」


 もしかしたら人生もそうなのかもしれない。終わりよければ全てよし。それと同じ。些細な記憶を忘れることに怯えるくらいなら、今、楽しかったことを喜べばいいのだ。


 その後は金魚すくいをしたり、射的をしたり、わたがしを食べたりした。つまりお祭りのフルコース。そうやってお祭りを堪能しきってそろそろ帰ろうかとしたとき。


「ねえ、ヨウ。そのバッグの中には何が入っているのですか?」

 折角浴衣のレンタルと一緒にセットにバッグも借りれたのに、敢えて自分のトートバッグを持ってきたのだ。しかもやけにパンパンのトートバッグ。シノが気になるのも仕方がない。

「えへへ、夏の思い出だよ。シノ、花火に興味はない?」

 シノの瞳に溢れんばかりの興味が滲んだ。

「あるに決まっているではありませんか」

「うんうん。じゃあ、ちょっと悪いことは?」

「人に迷惑を掛けない範囲であれば、もちろん!」

 にっこりとした純真な笑顔。

「そう言うと思った! 迷惑なんてかけないよ。ただ、愉しいことをしよう」


 ねえ、こっちに来て。

 そう言ってシノを高台へと引っ張っていく。お祭りの熱に浮かされてシノの頬は紅潮していた。多分、ヨウの頬も同じ。

「ここで待っててね。すぐ戻ってくるから」

 お祭りのメインロードから外れた高台であるここは、よく星が見えた。

「ええ……」

 シノの瞳はもう星に釘付けだった。ヨウだって星を見るのは好きだった。でも、今はもっと壮大な目的があった。

 


 人の気配のない池のほとりに着いた途端、バッグから花火を取り出す。ヨウ特製の打ち上げ花火。花火は炎色反応だ。化学の範囲なら、ヨウの得意分野。花火なんてお茶の子さいさいでつくれてしまう。


 マッチを擦って火を灯す。それから導火線に火を移す。この花火の外包みや火薬は全て爆散して一ミリもゴミが残らない仕様になっている。少しの炭と二酸化炭素が出るくらい。


 ジジジ……。


 火が花火についあその音を確認してヨウは一目散に駆けだした。


 息を切らせながら、シノの元へたどり着いた。こんなに走ったのは久しぶりかもしれない。

「ヨウ。どこへ行ってたんですか」

「そんなことよりシノ、空を見上げて」

 空?

 そういうシノの声と花火の炸裂する音が重なる。


 大きな声を上げて夜空に花火が咲いた。職人のつくる花火よりは随分と小さい。でも、きれいだった。


 バリウムを多めに入れたから、青を基調とした花火。青色が好きだったから。少しだけクラゲに似せてみようとしたが、やっぱり職人ではないのであんまり上手くいかなかった。最早、咲いた花火は綺麗な円形ですらなかった。花火職人のすごさを改めて感じた。


 それでも、花火は花火だった。腹に響くような低音に、色鮮やかな光。

 シノのどこまでも澄んだ黒い瞳に花火が映ってきれいだった。

 

「夏ですね」

「うん、夏だね」

「きれいですね」

「うん、きれいだね」

「これは夢ですか」

 そういうシノの横顔はどこか儚くて消えてしまいそうだった。

「ううん、夢じゃないよ」

 そういってそっと手を繋いだ。この友情がいつまでも途切れてほしくなかった。シノに消えてほしくない。記憶からも、目の前からも。



 予想外の花火に人々は歓声を上げる。一部では、誰だ! なんて花火を上げた犯人を探す声が上がっている。

「逃げますよ、ヨウ」

 あんなに儚い雰囲気だったのに、シノの瞳はこれまでないほどに輝いていた。


 ちょっと悪いことが楽しいなんて言っていたが、それは本当なのだろう。きっとシノはお嬢様として育てられてきたのだ。品行方正で、清楚で優しいお嬢様として。


 だったらこの一夜くらい、少しだけ悪いことをしてもいいのかもしれない。人に大きな迷惑を掛けない範囲で。”日常から少し脱線する”。それがシノにとっては必要だったのかもしれない。あの夜の学校みたいに。


 なんて考えるくらい、シノの表情はどんなときよりも活き活きとしていた。


「うん、逃げよう。ヨウたちお尋ね者かもね」

「もう、巻き込まないでくださいよ」

「なんだかんだ言って一番楽しんでるのはシノじゃん」

「ふふっ、そうかもしれませんね!」

 これってもしかして青春なのかもしれない。


 勿論、勝手に花火を上げるなんて全く褒められた話ではない。誰にも迷惑を掛けなかったかもしれないけれど、いけないことはいけない。

 でも、この記憶だけは褪せないだろう。


 ふと走りながら後ろを振り返る。ヨウたちの背中で、花火はもう存在を消そうとしていた。あんなに鮮やかな光を放っていたのに、今は煙しか見えない。もうじき煙も完全に消えるだろう。そこに花火があったかなんて誰もわからなくなる。

 そうしてあの花火は、誰かの記憶の中にしか存在しないようになる。最後は人の記憶からも消えるのだ。


 ――楽しかったことも辛かったことも、いずれはきっと色褪せる。この散っていった花火のように。だからこそ今が輝くし、楽しいのかもしれない。


 ――そうしたら、”忘却はプレゼント”なんていう過去のヨウの言葉が少しだけ理解できた気がした。納得に至るにはもう少し時間と経験が必要だったけれど。



 花火は夜空に溶けるようにして消えてゆく。

 そうして、ヨウたちの中学生最後の夏が終わってゆくのだ。

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