第19話 水族館

 あの夜の出来事から謎は深まるばかりだったけれど、考えてばかりでは前に進まない。だって覚えていないのだから。

 ということで、思い出すまで青春を謳歌することにした。


 もし自分が故意に記憶を失ったのだとしたら、それにはきっと訳があるのだろう。それに、あんなに訳知り顔のシノがいるんだから大丈夫だ。シノはヨウに絶大な安心感を与えてくれる存在だった。

 

 ――今を謳歌せよ。 

 どんな書物も、どんな大人も若い頃はよかったと言っている。だから、今を楽しまねばと損だと子供ながらに理解していた。忘れてしまったものは仕方がないのだから、前に進むしかない。


「ねえ、シノ。水族館に行こうよ」

 アオがいない今、お金を気にする必要はもうなくなった。ヨウ一人生きていける最低限のお金があればいいから。

「いいですね。私も行きたいです」

 そう言ってシノは輝くような笑顔を浮かべた。


 ♢


「お待たせしました、ヨウ」

 待ち合せのきっかし五分前にシノはやってきた。後ろから声がしたのでヨウは振り返る。

 

 そこには完膚なきまでの美少女がいた。制服姿でもその輝きは隠せていなかったが、私服はまた別格だった。真っ白なフリルブラウスにチェックのスカート。丈は短すぎず、長すぎず、いい塩梅に清楚さを保っていた。艶やかな黒髪はいつもに増して美しい。


「わあ、きれい……」

「ふふっ、ありがとうございます。ヨウの服もかわいいですよ」

 自分の服を見る。格安のデニム短パンに格安のTシャツ。格安だから、Tシャツにはクマともネコとも判別つかない謎のアップリケが付いている。多分クマだろう。そう思っていたら。


「ヨウのTシャツのそれ、トラですか?」

 また新たな選択肢が増えた。一体この動物はなんなのだろう。トラ……に見えなくもない……気がする。これは個人の美的センスというか感性を試しているのか?

「うーんと、多分クマだよ……」

 目の前の完璧なシノのフリルブラウスを見て少し恥ずかしくなった。


 自分のTシャツに視線をおろす。クマのアップリケと目が合った。……もとい、暫定クマのような何かがこちらを見て笑っている。あまりに恥ずかしくて顔から火がでそうだった。なんてもちろん誇張表現だけど。服に拘ったことはない。着ることができたらそれでいいのだ。


「じゃあ、行こっか」

 水族館へいざ行かん。


 夏特有の纏わりつくような暑さから一転、水族館の中はひんやりとして涼しかった。視界も黒と青のグラデーションで何とも心地よかった。


「綺麗だね、シノ」


 この場で一番美しいのはシノだったかもしれない。シノは海の箱庭にさえもとてもよく溶け込んでいた。夜とか水族館とか、シノは仄暗いところで一層輝きを増すのだ。


「ええ、とても綺麗ですね。ヨウ」


 黒曜石のような深い瞳に海が映る。シノの瞳の中で魚たちが悠々と泳いでいる。


 こんなに水族館が好きだという風を出しながら、その実ヨウはあまり水族館に来た事は一度しかなかった。しかもその一回だって良い思い出とは言い難かった。



 あれは、小学六年生の時。お別れ遠足として生まれて初めて水族館へ行ったのだ。ヨウはそこでクラゲに出会い、一瞬で虜になったのである。

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