第18話 正しく狂うこと
シノが手紙を読んでいる間、隣から覗き込んでヨウも手紙を読み直す。文字の羅列を追っている間は何も考えずに済むと思ったから。
♢
いつの日かのヨウへ
忘却というプレゼントを受けたとった気持ちはどう?
忘れるって楽しい? 面白い? それとも哀しい?
今のヨウはそれを知ることができないのが残念。もしかしてここが何かも忘れちゃった? 忘れるってすごいね。羨ましい。でもそれだけ忘却の魔法が成功したってことだよね。おめでとう。
ここは、ヨウ専用の実験室。クラゲの花は記憶を司る。ヒントはここまで。もう思い出したよね。
じゃあ、最後に。
「卒業式に答え合わせ」
いつの日かのヨウより
♢
読み終えたシノがヨウの方を見遣る。真摯な瞳。何ともふざけた文面なのに、一寸も笑わなかった。
「ヨウは、わざと記憶を失ったんですか」
その言葉には非難も賞賛も如何なる感情も込められていなかった。シノはただ淡々とヨウに質問する。
「……わからない。わすれたことをわすれたのかも」
それは正しく恐怖だった。わからないことがわからないというのは一番愚かだから。ヨウが一番恐れていたことでもある。だから知識をつけるのは好きだった。
無知の知、というのが知らず知らずのうちに座右の銘だったのかもしれない。
「そうですか。では、今起きていることを整理しましょう」
シノの澄んだ声に心がすっと静まっていくようだった。この少女は一体何者なのだろう。いつも落ち着き払っていて、いつもヨウの欲しい言葉をくれる。
あれ、さっき――この部屋に入る前――に焦っていたのはシノではなかったか。もう何もわからない。
「まず、一つ目の質問です。この手紙を書いたのはヨウですか」
「……多分そう。筆跡も間違いなくヨウのものだから」
「じゃあそれで間違いなさそうですね」
シノはあくまでも真面目に頷く。ヨウの言葉を全て受け入れるというような姿勢にヨウは心底安心した。
だって、こんな与太話誰が信じるかと一蹴されても無理はないのだから。ヨウが逆の立場だったらそうしてしまっていたかもしれない。こんなたらればは無意味だけれど。
「では、二つ目の質問。妹さんとは、アオとはいつから会えていないのですか」
息が詰まる。一体いつから? アオは今どこに? わからない。何もわからない。
そんなヨウの様子を見かねたのか、シノはやんわりとヨウの頬に手を添える。
「大丈夫ですよ。落ち着いて整理していきましょう」
「整理……」
シノによると、記憶というものは整理することができるらしい。自らの意思によって。
「では一年前の今日、ヨウは妹さんと何をしていましたか」
一年前。脳に刻まれた記憶を辿る。
「えーっと……アオは小学校、ヨウは中学校に行って、一緒に宿題をして家事をして……多分今頃は寝ていたかな」
その光景が映画を見ているように再生される。だから淀みなく話すことができた。
「一年前の記憶はしっかりしていそうですね。では、今年の始業式あたりはどうですか」
海に行ったあの日を思い出す。アオが迎えに来てくれて、一緒に帰ったあの日。その時繋いだ手の感触は本物だと思う。そうでなければ何も信じられない。
「うん、はっきりと思い出せるよ」
あの時なぜ海にいたかわからなかった、というのは無視した。当時も覚えていなかったから仕方がない。
「では、ヨウが私と初めて話した日、妹さんと何をしていましたか」
ヨウがシノと初めて話した日。ああ、中間テストの後か。その日、家に帰って……。
「アオは、その時いなかった」
だからあの日、学校でひとり夜遅くまで残っていても誰も咎める人がいなかったのだ。逆に、あの日の出来事が現実だったと証明する人はいない。
――あの時泣いていた少女を除いて。彼女が幽霊でなければ、夢の世界の住人でなければ、あの夜の出来事は現実だったことになる。
「そこですね。始業式から中間テストが終わるまでに、何かありましたか」
「……わからない」
心当たりがあるとしたら、中間テストの貼りだしがあった厄日と、ひとりで海にいた日の間だ。そこの記憶が酷く朧気だ。
「では、この話は一旦保留にしましょう。質問を変えます。手紙に『ここはヨウの実験室』と書かれていましたが、ヨウはここで何を実験していたのですか。それさえも忘れてしまいましたか」
「多分この花かな……」
何も考えずにクラゲの花を手に取る。毒があって危険とかは何も考えなかった。安全ということを無意識下に知っていたのかもしれない。
どこか作り物めいたそれを手に取り、あおぐようにして香りを嗅ぐ。ほんのりと甘い芳香。ずっと嗅いでいると酩酊しそうな、どこか危険な香り。
――記憶さえも失ってしまいそうな、そんな香り。
――そうだ、ここで記憶に関する実験をしていたんだ。
水面に水滴が落ちて波紋が広がるように浸透していく。やがてそれは確信に変わった。もう錯乱なんてしなかった。そうだ、ヨウという人間は正しく狂っていたのだ。ずっと前から。
「――ヨウはね、シノ。忘却にまつわる実験をしていたんだよ」
その時のシノの表情は、思っていたよりもずっと静かだった。狂っていると思われても仕方のない発言にシノは大袈裟な反応をするでもなく、ただ知っていたとでも言うように頷いた。
「ヨウが言うならそれは正解なんでしょうね。……少しは何かを思い出しましたか」
「ううん、全然」
この言葉に嘘はなかった。だって忘却について実験をしていたことが確信に変わっただけで、何も前に進んでいない。半ば手紙に教えられたようなものである。
「だって、最後の意味が全くわからないんだもん」
「ああ、『卒業式に答え合わせ』ですか?」
流石シノ、ヨウの意を正確に汲み取ってくれる。
「うん、そう。何を答え合わせするっていうんだろう」
「冒頭の『忘却はプレゼント』って言葉ではないですか」
そうかもしれない。というかそれ以外考えられない。でも、もっと大きな何かを答え合わせしたかったような気がする。
ただの直感だった。普段知識に頼るヨウに直感というものはあまり縁がなかった。だからヨウは確かに記憶を失っていて、それを補うために直感というものを使っているのかもしれなかった。
「うーん……でも、そうしか考えられないよね……一旦保留にしておきたいかも」
「では、そうしましょう。卒業までまだ時間がありますし」
「うん、ありがとうシノ。少しすっきりしたかも」
「いいえ。それは、よかったです」
真っ白な微笑み。その微笑みにはたと疑問を覚える。
そういえば、この少女はどうしてここへ来ようとしたんだっけ。何を目的として夜の学校へ来たのだろうか。そもそもどうしてここを知っているのだろう。
「そろそろ帰りましょうか」
その言葉に全てを遮られる。そうだ、早く帰らないと――アオが待ってる。
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