第17話 過去からの手紙
ヨウは過去からの手紙を手に取る。まあ手紙というのは過去に書かれたものだから、過去からの手紙というのは当たり前のことを述べているだけなんだけど。
そんなことは気にしていられない。
自分で言うのもなんだが、薄暗がりの中で目を皿のようにして手紙を読む。
♢
いつの日かのヨウへ
忘却というプレゼントを受けたとった気持ちはどう?
忘れるって楽しい? 面白い? それとも哀しい?
今のヨウはそれを知ることができないのが至極残念。もしかしてここが何かも忘れちゃった? 忘れるってすごいね。羨ましい。でもそれだけ忘却の魔法が成功したってことだよね。おめでとう。
ここは、ヨウ専用の実験室。クラゲの花は記憶を司る。ヒントはここまで。もう思い出したよね。思い出せなかったら、頑張って。じゃあ、最後に。
「卒業式に答え合わせ」
いつの日かのヨウより
♢
手紙を読んでも謎は深まるばかりだった。
筆跡、思考回路、口調。どれをとってもヨウ本人からの手紙に違いなかった。でも何一つ思い出せない。書いた記憶もない。だから、これは実質他人からの手紙と変わらなかった。
記憶に不整合性があって、過去のことを何一つ思い出せなければ、それは自分ではないのだろうか。
ヨウという器からヨウの記憶が全て失われたとしたら、その瞬間に存在するヨウという人間は誰なのだろうか。
しかし幸い、ヨウは全ての記憶を失った訳ではなかった。昨日も、一年前も、二年前も、果ては十年前も思い出せる。だから、ヨウは胸を張って自分はヨウだと言えた。
――じゃあ記憶がないのはいつ?
「ヨウ?」
澄んだ鈴のような声に思考が遮られる。思考の海から現実に引き戻されて一瞬ここがどこかわからなくなる。
そうだ、ここは理科室の横の秘密部屋。周りには淡く青色に光るクラゲの花。ビーカー、ピペット、シリンジ、
そして、この部屋に溶け込む美しい少女が一人。彼女の形の良い唇が言葉を紡ぐ。
「何が書いてあったんですか?」
シノの綺麗な微笑み。その顔に全てを吐き出したくなる。
この記憶の不整合性を誰かに正当化して欲しかった。せめて、話を聞いて欲しかった。ただ相槌を打ってくれるだけで良い。
それでいつも通りの会話をしてほしい。そのいつも通りさで、今ここにいるヨウが正しくヨウであると実感させて欲しかった。
思った以上に記憶がないというのはヨウの情緒をかき乱しているのかもしれなかった。
――忘却はプレゼントだ。
あの海の日、手に書いてあった文字を思い出す。手紙と全く同じことを言っているのだから、あのメッセージは自分からなのだろう。
――ふざけるな。過去の自分は何を以て忘却がプレゼントなんて思ったのだろうか。そんなの、地獄でしかない。
「ううん、なんでもないよ、シノ」
こんな作り物めいた部屋に、生々しい人間の感情なんていらない。ただ淡々と、このクラゲのように漂え。
「そうですか。それにしても綺麗なところですね」
ヨウの思惑を汲み取ったのか、シノはそれ以上深入りをしなかった。
シノの後ろで流れ星が流れる。これに願い事をしたって叶うはずがない。偽物は虚しいけれど、綺麗なことは確かだった。
「うん、そうだね」
「ここはヨウが作ったんですか」
「……うん、そうだよ」
こんなにも趣味嗜好がヨウに合っている部屋、ヨウ以外に作れるはずがなかった。だからそう答える。
もしかしたら自分以外の誰かが作ったのかもしれない、なんて考えは捨てた。そんなの気味が悪すぎる。
「あら、ヨウ。その便箋、もう一枚後ろに重なっていませんか?」
シノがヨウの手元を指差して言う。
確かに、便箋はもう一枚あった。綺麗に重なっていて気づかなかった。
素早くめくる。気が急いてどうしようもなかった。今は過去からの言葉を狂おしいほど欲していた。一言二言でも、情報は多ければ多いほど良い。たとえそれが妄言だったとしても。
その期待を裏切るように、便箋に書かれた文字はあまりにも少なかった。便箋の中心にたった一言。
――追伸:アオに、最後に会ったのはいつ?
息が詰まった。世界が壊れる音が聞こえる気がした。だってアオはヨウの全てだったから。
忘れていた訳ではない。いつだって世界で一番大切なのは妹のアオだった。アオの為に危険なアルバイトだってしてきた。両親のいない中、生計を立てる為に。アオの笑顔を守る為に。
でも、ここ数ヶ月ほどアオに会っていない。
その事実から目を逸らし続けてきた。それを今、眼前に突きつけられる。文字という逃れられない方法で。目を閉じても、脳裏に焼き付いて離れない。
一度見たものを全て憶えてしまうというのは、今はただ残酷でしかなかった。
「ヨウ?」
流石にシノが訝しんで訊いてくる。ああもうこれは自分一人じゃどうしようもできない。
自分が今正気かもわからない。今まで正気だったかもわからない。これから正気でいられるかわからない。何もわからない。
だって、アオがいないもの。
「どうしよう、シノ。ヨウも、記憶を失っているのかも」
言葉に出さずにはいられなかった。そうでなければヨウはヨウでいられない気がした。今、目の前にいるシノに縋るしかなかった。
「じゃあ、私と同じですね」
だから大丈夫ですよ。
そういうような、柔らかい微笑みを浮かべる。ああ大丈夫なのかもしれないと思った。シノの微笑みにはそれだけの力があった。
「手紙を見てもいいですか」
「うん」
もうそれどころではなかった。ただシノに言われるままに手紙を渡す。
シノが手紙を読んでいる間、隣から覗き込んでヨウも手紙を読み直す。文字の羅列を追っている間は何も考えずに済むと思ったから。
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