第11話 シノという少女

 何とかして水を手に入れて戻ってきた。


 シノは相変わらず目を瞑って座っていた。紅潮した頬に汗ばんだ肌。長い睫毛が時折揺れる。体調が悪くともどこか美しいのは不思議だった。


「シノ、水とってきたよ」


 未開栓のペットボトルの封を開けて渡す。寝てしまっていたかと一瞬危惧するが、シノはきちんと目を開けた。それからヨウの姿を確認すると、ゆるりと微笑む。いつもよりも弱弱しい笑み。


「ヨウ……ありがとうございます」

 シノは手を伸ばし水を受け取る。そして制服のポケットから薬包紙を取り出す。


 ――薬包紙?

 この時代に、錠剤でもプラスチックの包装でもなく、薬包紙。理科室の実験か――アルバイトの解熱鎮痛薬の製剤にしか使わない。


 シノは慣れた手つきで薬包紙の包みを開けて粉末を口に含む。粉薬だろうか。


「ねえ、シノ、持病でもあるの?」

「いいえ、ただの解熱鎮痛剤です」

 ただの解熱鎮痛剤……。普通なら市販の錠剤のはずなのに。


 ――薬包紙、解熱鎮痛剤。偶然にしては、あまりにも条件が揃いすぎている。


「ねえ、その包み紙もらってもいい? 捨てておくよ」


 あくまで親切にしているように振る舞うが、ただ確かめたいことがあっただけだ。


「ええ、ありがとうございます。ヨウは優しいですね」

 熱で目が潤んでいるのに綺麗に微笑んで見せるシノ。一抹の罪悪感。体温を失った手から薬包紙を受け取る。

 

 きっちりと折りたたまれた薬包紙。特徴のある折り目。角が微妙に合っていない。ビンゴ。これは、ヨウがつくった薬だ。自分の作った薬くらいわかるし、薬包紙の折り方だって自分の癖は重々承知だ。


 だから、これはヨウの作った薬。あの、怪しいところに売っている薬。


「……ヨウ?」

 熱で目が潤んでいる。シノは、まさかこの薬を飲んで乗り切ろうとしているのか。


 ヨウの解熱鎮痛剤は市販のものより勿論強力で、即効性もある。そこは自信があった。そうでなければ、高額で買い取ってもらえない。


「ううん、何でもない。それより、シノ、本当に大丈夫?」


 即座にシノの頬からさーっと赤みが消えていく。同時に、酷い汗。薬の効果だろう。本当によく効くなあ。我ながらしみじみと思った。


「ええ、勿論。もう大丈夫ですよ」

 言葉通りにシノはハンカチで汗を拭うとゆっくり立ち上がる。少しふらついたけれど、さっきより顔色はよくなっていた。そっと額に手を当てると平熱まで下がっていた。


 でも、薬の効果だ。その場しのぎの間に合わせだ。これを姑息というらしい。今は必要の全くない知識だ。


「ねえ、シノ。その薬、どうやって手に入れたの?」

 これが一番の疑問だった。だって、ヨウは怪しい会社にしか売っていない。多分、いや確実に日のあたる会社ではない。だから、ヨウの薬がシノの手に渡っているのが異常だった。


「父に貰いました」

 澄んだ笑みでシノは答える。こんな綺麗な少女とあの怪しい会社があまりにも結びつかない。シノはよくて良家のお嬢様だ。だから、思わず訊いてしまう。


「ねえ、シノのお父さんって……何してるの?」

 あくまで言葉を慎重に置いてゆく。今度はヨウが手に汗を握る羽目になっている。

 

 もしかして、ヨウが薬を売っている社長の娘がシノだったりするのではあるまいか――いや、まさかそんなことはないか。


「私の父は、薬を売買していますよ」


 にっこりと笑って言うシノ。きっと本調子ではないからこんなことを話すのかもしれない。きっと普段ならのらりくらりと躱されて教えてくれなかっただろう。


「……そっか」

 これは、嫌な予想が当たってしまったのかもしれない。全く勘違いかもしれないけれど。でも、今シノがヨウの薬を飲んだ。それだけは揺るぎない事実だった。


「ねえ、シノ。今日は早退してゆっくり寝た方がいいよ。多分その薬はただ熱を下げるだけで、根本的な解決にはならないから」

「ふふっ、ヨウは物知りですね。でもね、ヨウ。私は完璧な生徒会長シノでなければならないんです」

「……」

 余りにも話が飛躍しすぎている。今はただ黙ってシノの言葉に耳を傾ける。


「私、熱の原因は解っているんです。きっと、睡眠を削って勉強したからそれの疲れがたまっただけ。だから、そんなちっぽけな理由では休めない。疲れて熱を出して休めるのは、小学生まで」


 期末テストの話をされると弱い。ヨウは手を抜いた側だから。だから、さっきあんなにお小言を言われていたのか。シノは、初めから何でもできるわけじゃない。努力してできるようになったのだ。きっと勉強も、運動も全て。


「それにね、ヨウ。熱を出してまでしないと一位を取れないだなんて、恥ずかしいでしょう? きっと皆は、努力せずにさらっと何でもできる生徒会長を望んでいる。ならば、私はその期待に応えるだけなんです」


「それは――」

 違うんじゃないか。でも、そうかもしれない。だから最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。


 シノと話す前、球技大会のあの日、ヨウには何でもできるシノしか見えていなかった。何でもできて羨ましいとしか思っていなかった。天は二物も何物でも与えてしまうんだなとさえ思った。だから生徒会長なんだとも思った。

 シノはそれを正しく理解しているのだ。


「まだ期待されているから、私は頑張れるんです。期待されなくなった時が、私は一番怖い」


 シノの目にヨウは映っていなかった。どこかおかしい言動は全て熱の所為だ。シノはこんなに自分のことを話すような少女ではない。表情も、立ち居振る舞いもいつも通りなのに。

 あんな高熱を解熱鎮痛剤で下げるなんて、あまりにも無茶だったのだ。


「シノ、それでも、解熱鎮痛剤なんて使ったらだめだよ。そんなに強い薬、寿命だって縮まるよ?」

 強力な薬ほど体に悪いのだ。薬は毒にだってなり得る。毒になりかけの薬が一番強いから。


 シノは美しく哂った。

「ヨウは優しいですね。私は大丈夫ですよ。だって、長生きしたって意味がないんですもの」

 ヨウは面白いことを言いますね。そう囁くように紡がれる言葉。


 思わず息を止めてシノを凝視する。

 長生きしたって意味がないって? あのシノが? どこまでも明るく透明で綺麗な、シノが?


 ――これが、無意識下に、シノに期待しているということなのだろうか。どこまでも明るく透明で綺麗なシノを。いいや、違う。幸せになってほしいとは願っている。


 これも綺麗事という名のエゴなのだろうか。


「シノ、もう休んで。疲れているだけだから――」


 キーンコーンカーンコーン。


 いいタイミングでチャイムが鳴る。違う、今じゃない。

 チャイムの音にシノは美しく笑った。

「ほら、行きましょうヨウ。私は大丈夫ですから」


 多分、ヨウの忠告は聞いてもらえない。シノには信念がある。それは何人たりとも曲げることができないんだろう。だったら、ヨウはそれを支えるのみ。そこに介入するのが必ずしも正しいとは言えないから。


「ヨウ? もう授業が始まりますよ」


 微笑みながら確かな歩みで歩き出すシノ。いつだって先導するのは彼女だった。颯爽と歩くシノの背中は凛として美しく、さっきまで高熱を出していたとはとても思えない。


 ――これが、シノという少女の強さ。でも同時に弱さでもあった。


 シノが弱さをさらけ出せる人ができたらいいのに。その一人になることができたなら……なんて浮かんだ感情はなんだろう。思ったよりも自分はシノという少女に惹かれているのかもしれない。

 

 今まで人間関係なんて面倒だと思っていたのに。どうせ卒業で縁が切れてしまうから、どうでもいいと思っていたのに。シノのせいで価値観が変わりつつある。



 これが良いことか悪いことかは、今のヨウには判らなかったけれど。

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