第10話 高熱

「――シノ、どうかした?」


 そういってシノの傍に寄る。そして、そのまま肩に手を伸ばす。

 指先まで、あと3センチ、2センチ、1センチ。


 渡り廊下に風が吹き抜ける。

 ――0センチ。


 シノの肩に触れる。こうやって逐一実況をすると変態のように聞こえる。少し心外。


 いや待って、熱い。これは、ゆうに人の平熱を超えている。


「シノ?」

 些かぎょっとしてシノの顔を見る。いつも通りの綺麗に整った人形のような美貌。   

 違う、そうじゃない。


「どうかしました?」

 依然としらを切って見せるシノの顔を見る。こんな時にもシノは柔らかい笑顔だった。


「ちょっと、シノ、大丈夫?」

 そう言って額に手を伸ばす。こんな時に顔が綺麗で触れるのが恐縮だなんて言ってられない。


 あつい。


 ――さっきから感じていた違和感の理由がわかった。


 いつもよりもほんの少し頬が赤かった。表情に疲れが一ミリだけ見えた。そして極め付きは、物言いがシノらしからぬどこかマイナスな発言。多分、それは普段一緒にいるヨウじゃないと気付かないレベル。


「熱あるじゃん、シノ。しかも結構高いよー。大丈夫?」

「ええ。たのしいですよ」

 どこか舌足らずな物言い。それから回答がおかしい。これ、大丈夫じゃないやつ。

 でも、どうしたらいいんだろう。


 保健室に連れていく? そこまで歩ける? 目立つのは避けたい? そもそも、今立っていて大丈夫? 倒れやしないか?


 珍しく慌てる。以前、妹のアオが四十度を超す高熱を出して意識を失ったとき以来だ。こういう時に知識の束というのは全く役に立たないのだ。


 知識、知識、知識。

 ありったけの知識をひっくり返して必要な情報を探す。脳裏に刻んだ本たちを。

 これも違う、あれも違う。


 熱を出した時の対処マニュアル、そうだ、この本だ。タイトルの細部までわかる。違う、そこじゃない。その本の熱の時の三十二ページ、違う、熱を出した時のおかゆの作り方なんて、今はいらない。

 はやく、そのページの右上へ。あれ、ページが違ったか。そもそもこの本じゃない? あと候補は二十冊はある。ああ、いらない知識が多すぎる。


 ぴとり。


 体温を失った手がヨウの頬に触れる。言わずもがな、シノの手だった。

「ヨウ、だいじょうぶですか」


 熱の所為か少し潤んだ瞳がこちらを見つめる。スッと頭が整理される。なんで高熱を出している少女に冷静さを教わっているのだろうか。でも、落ち着いた。


 そして本の知識なんて無用だという結論に帰着した。


「うん、大丈夫。シノは?」

「ふふっ、おもしろいことを言いますね、ヨウは。私はだいじょうぶですよ」

 

 ああ、やっぱり大丈夫じゃない。だってヨウは何も面白いことは言っていないのだから。

「ねえ、シノ今は寒い、暑い?」

 シノはやっぱりふふっと笑った。これも少しおかしい。


「ちょうどいいですよ」


 ああ。この少女は。やっぱり本心を普段から言わないのだ。冷え切った指先は小さく震えているし、額はありえないほど熱かった。


 ――寒くて暑いはずだ。或いは、ただ寒いはずだ。


 膨大な知識とその一パーセントにも満たない自分の記憶は、シノの状態をこう結論づけた。

 熱の時は寒いし暑いし、全てがどうでもよくなるのだ。小さい頃よく知恵熱を出していたからよくわかる。


 絶対に熱で苦しいはずなのに、こんな誰にも心配をかけないような、きれいな言葉。


 ――そう、いつもシノは全ての選択肢の中から一番綺麗な回答をしているだけなのだ。全てがきれいごと。そうしたら、それが本物になるんだから。


 熱とアルコールに侵された時は一番その本人の素が出る。

 これはヨウの持論だ。だから、この少女は、普段からこうなのだ。


 ――そう、恐ろしくよくできた少女だ。どんな時でものらりくらりとした返答をしてみせるのだ。

 クラゲのように淡々と、ゆらゆらと漂うように生きている。その下に隠された本音はなんだろう。今くらい、本音を出してヨウに甘えてみせてもいいのに。それは甘えとは言わないし。


 向こうが甘えてこないのなら、こちらから歩み寄らなければならない。それが迷惑だったとしても、きっと今のシノには助けが必要だろう。だから、一つ提案をしてみる。


「そっか。じゃあ、保健室に行こうか。よかったら肩貸すよ」

「いいえ、いきません」


 予想とは百八十度逆だった。普通は、体調が悪ければ保健室に行きたいと願うだろうから。それが正解だろう。正解なんて考えられなくても、清潔なベッドに寝たい、そう思うはずなのに。


「どうして」

「私は、大丈夫なので」


 そう言ってサラサラと笑うシノ。少しだけ物言いがはっきりしてきた。でも、依然として顔は赤い。これは絶対大丈夫じゃないやつ。


「じゃあどうするの?」


 きっとこのままではどうしようもないということもシノは解っているはずだ。それすらも理解できないのであれば保健室に有無を言わせず連行する。


「ねえ、ヨウ。ひとつだけ頼みごとをしていいですか」

「なんなりと言って」


 シノはゆるりと微笑む。今日のシノはいつもよりもよく笑うのだ。


 辛い時こそ周りに悟らせないように振る舞う。


 これをシノは自分で脳の深いところに刷り込んでいるのだろう。それをほんの少し痛ましく思った。頼ってくれたら幾らでも助けるのに。


 こうやってあれこれ考えるのに言葉に出せない自分も、きっと同類なのだろうな、なんて頭の隅で思った。


「ありがとうございます。……では、水を持ってきてくれますか」

「え、それだけでいいの?」


 大層な頼み方だったから少しだけ拍子抜けしてしまう。

「いいんです。ただ、それだけで」


 そういってシノは手摺に体重を更にかける。黒髪が重力に従って数筋垂れた。やっぱりしんどいんじゃん。


「ほら、立つのもやっとなんでしょ。とりあえず座ろう、ね?」

 そう言いながらシノに肩を貸す。そのまま、渡り廊下の比較的綺麗なところに座らせる。やっぱりシノの身体にはてんで力が入っていなかった。


「水……」

 座って目を閉じたシノがうわごとのように呟く。顔が赤い。やっぱり熱が上がってきているんだろう。


「わかった、水だね。一分で戻ってくるから待ってて」


 ここに病人を一人で置いておくのも忍びないが、今のシノには恐らく水が必要だった。本人が欲しいものを与えてやるべきだ。


 くるりと踵を返す。一番近くにある綺麗な水は。脳内で一番早く水を入手できるルートをシミュレーションする。


 ――よし。あとは、迷わず駆けるのみ。

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