幕間  サボタージュ

 今から水泳の授業。ほのかな塩素の匂いとうるさい蝉の声。


 水泳の授業は嫌いでも好きでもなかった。金づちではなかったし、思考はまるごと自分の好きなように使えるから好きだった。

 どうでもいい体育教師の話を右から左へ流していく。しかし、クラゲという単語が耳に入ってきて、そこだけは引っかかって脳内に残った。


「はい、今からクラゲのポーズを十秒続けること」

 クラゲのポーズとは、水の中で手足の力を抜いてうつ伏せで浮かぶ状態のことである。


 クラゲのポーズ。

 なんてふざけた名前だろうか。でも、クラゲと聞くだけでちょっぴり嬉しい自分がいる。だってクラゲが好きだから。


「はい、ではよーいはじめ!」

 体育教師の太い声で皆一斉に浮き始める。何かの宗教みたいだが、それにしては滑稽すぎる。

 よりによってこれがクラゲのポーズか。人間はクラゲになれないことがよーくわかった。


 体育教師の視線が刺さる。彼の口を開きかけるのを見た。注意されたらうるさいし、目をつけられたら面倒だ。さもゴーグルが不調でちょうど今治った、というかんじで自分も件のポーズを取る。


 水の世界。静かなようで、うるさい。キリキリと軽くて重い音が耳に届く。波の揺らぐ音もなかなかに騒々しい。こんなにも人がいるから仕方がないのだろう。それに、音は水のほうが早く伝わるんだし。

 水のざわめきを感じながら言われたとおり脱力して、クラゲをイメージした姿勢を取る。


 力を抜くとふわりと水の中で浮かぶ。手足をだらんとさせるが、きっとこれは端から見ると滑稽なんだろうなと思う。これがクラゲのポーズか。


 違う、これは違う。

 心の中の自分が叫んだ。

 容姿だけ同じでも意味がない。クラゲの何に惚れたのか? 自分はまずそこから突き止めないと。研究するならまずは原因を探れ。


 ◇


「大丈夫ですか!?」

 少し慌てたような声とともにがばりと水の音がして、強制的に顔が水中から空気中へ出された。


 急に入ってきた空気に盛大にむせた。でも酸素が足りない。喘ぐようにして酸素を必死に取り込もうとする。指先や足先はしびれて感覚がなかった。頭がひどく不鮮明だ。光が眩しい。


「先生、ヨウさんを保健室につれていきます」

 シノの澄んだ声だけが朦朧とする頭に染み渡った。自分は、もしかしたら溺れていたのかもしれない。


 半ば引っ張られるようにしてプールを横切る。なんだか最近もこんなことがあった気がする。ああ、あの海にいた日か。

 共通しているのはクラゲと水という単語。だいぶ意味は違うけれど。手を引っ張られることが多い。


 生徒たちが二人の通る道を開けるようにしてさあっと避けていく。それに伴って波が沸き起こる。いろんな方向に人が動くから渦ができて楽しい。


 ふと、モーゼの十戒のシーンみたいだと思った。海を渡りたいと願ったら海が切り開けて歩いていくことができた、みたいなやつ。

 朦朧とした頭では変なことばかり考えていていけない。ふわふわして楽しいけれど。


 酒を飲んたことはないが、きっと今の状態は酩酊に似ている。今すぐにでも踊り出せそうだ。勿論しないけど。

 プールサイドに上がる。重力が重くてよろめいた。「重力が重い」だなんて、ひどいトートロジーだ。


 

「さっきは何を考えていたんですか、ヨウ。それほど熱中するような考え事があるなら聞きたいですね」

 二人っきりになったとき、ポツリとシノが問うてきた。察しの良いことで。

「どうして考え事をしていたって思ったのー?」

 苦笑してシノは言った。やれやれ、なんて呆れが一抹含まれていたように感じる。


「ヨウは水に溺れるほど水泳が苦手ではないでしょう? それに、ヨウは考え事をして我を忘れることが多いですよね。つまり、考え事をしていて夢中になって呼吸を忘れたんでしょう? 違います?」


 シノの中のヨウはなかなかにヤバいやつらしい。あまりにも図星で悔しかったから、少しだけしらを切ってみる。


「いや、それはありえないでしょ」

「ふふっ、確かにそうですね、普通なら。でも、ヨウだったら十二分にあり得そうですね。……で、何を考えていたんですか。溺れる寸前まで没頭してしまうようなことは、なんですか?」


 シノは感情の読めない笑顔を浮かべてこちらを覗き込んでくる。


「何それ嫌味?」

「ご想像におまかせします」

 やっぱり満面の笑み。うん、素晴らしく綺麗な笑顔だ。


 そんなシノに嘘をついても仕方がないから、正直に答える。


「うーんと、どうしてヨウがクラゲを好きなのかについて」


 途端、シノは吹き出した。あくまでもお上品に。吹きだすにお上品もクソもないと思っていたけれど、その価値観が変わってしまった。


「待ってください、どこからツッコんでいいのやら」


 そう言いながらコロコロと笑うシノ。思っていたよよりもよく笑う少女だ。以前は鉄面皮で実はちょっと冷血な完璧サイボーグ生徒会長だと思っていたのに。

 だって、容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、しかも生徒会長なんて肩書があるんだから。思ったよりも人間で複雑な気持ちになる。


「ではまず一つ目。ヨウはクラゲが好きなんですか?」


 深い黒の瞳がこちらを逃さない、というように見つめてくる。黒曜石のような静かな輝きに吸い込まれそうになった。


「うん、好き。この世の生き物で一番好きだよ」

「愛が強いですね。どこが好きなんですか?」


 それを溺れる寸前まで考えていたのだ。いくらでも語れる。

「まずね、形が可愛いんだよ」

「形が可愛い」

 シノが復唱する。あまり理解できないというような顔をしている。そんなぁ。これはクラゲの良さを熱弁せねば。


「うん、そう。突起とか角のない形って一番優れているじゃん。撫でるのに最適だし、生きるうえで合理的だからね」

「合理的」


 やはり真顔で復唱するシノ。


「その通り。ほら、石って川とか水に揉まれているうちに丸くなるじゃん。あれって最終形態だよね。つまり、角が取れると最強ってこと。はい、これで証明終了」


 そう、球に近いのは生きる上で合理的なのだ。地球だって太陽だって球形だ。

 

「あっ、あとはあんなに可愛い顔して毒があるということ。ギャップ萌えしちゃうよ」

「ギャップ萌え」

「そうだよ。かわいいものには毒があるってほんとに大好き」


 フッとシノは苦笑した。

「それを言うならきれいなものには毒があるじゃないですか?」

 的確なツッコミ。大好き。


「そう、そこだよシノ君」

 国語の教師の口癖を真似していってみる。

「クラゲはきれい、そこもまた私の愛するところなのだよ」


 ドヤ顔で言ってみるとシノはクスクスと笑った。シノはよく笑う少女だ。


「フフッ、そうですね。ヨウ先生」

 そして意外とノリの良い少女でもある。でも、とシノは真顔を浮かべて続ける。


「そんなことで溺れないでくださいね」

 立場は一気に逆転した。

「はい、迷惑かけてすみませんでした、シノ先生」

「わかればよろしい」


 バカみたい。二人して思ったことは同じだったようだ。一拍おいてクスクス笑う。


「あー、クラゲになりたいな」


「正気ですか?」

 今日知ったことがある。このシノという少女は笑顔でこんなことを言ってくるのだ。


「失礼な、正気ですぅ。その上でクラゲになりたいんだって」

「それはそれは、大変失礼いたしました」

 ちっとも申し訳なさそうにおっしゃる。


「で、どうしてクラゲになりたいんですか?」

「んー、だってふわふわと漂うだけでいいじゃん。羨ましい」

「確かにそうかもしれませんが……ヨウはそれだけじゃ満足できないでしょう? クラゲには脳、ないしは思考するための器官がないはずです。ヨウがクラゲになったら思考できなくて死んでしまうんじゃないですか?」


 あながち間違いではなかった。でも、何だか癪だったので問うてみる。人間、あまりにも図星なことを指摘されると反論したくなるのだ。


「ちょっと、シノはヨウのことなんだと思ってるの」

 そう問うとシノは首を傾げて真面目に考え出した。その仕草でさえ美しいのだから、美少女というものは得だなあと思った。

「思考に生き、思考に死ぬいきもの……?」

「ひどい!」


 思ったよりも罵倒百パーセントで笑ってしまった。的確だったのがまたこれも笑いを誘った。

 確かに、ヨウは思考しないと生きて行けない生き物だし、思考に嵌って何度も死の淵をみている。確かに、思考に生き、思考に死ぬ生き物だ。でも、人間ですらなかった。


 ――もしかすると、シノは人間を見定めるのが上手なのかもしれない。人間観察も得意そうだ。でも決して不快にはさせない才能も持っていた。

 踏み込み方が、何だろう。入ってきていい領域とそうではない領域をきちんと弁えているというか。


 この少女ならすべてを打ち明けてもいいような気がしてしまう。こうやって絆された人間が何人いるのだろうか。


「うーん、せめて人間にしてよね」

「だってクラゲになりたいと言っていたから。人間が嫌いなのかと思って」

「あは、変なところの気遣いありがとね。シノって変わってるよね」

「あら、それはヨウもでしょう?」

 思わず笑ってしまう。


「ほんとだね。ここにいるのは変ないきもの二匹だ」

「ごめんなさい、私は人間です」

「あっ、自分だけ逃げるのはずるい! 人間は自分のことを人間なんてわざわざに言わないんだよ」


 きゃらきゃら笑い合う。バカみたい。でも、愉しい。

 ――まるで青春の一ページみたいじゃないか。



 授業の終わりを告げるチャイムが遠くで鳴った。

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