第8話 渡り廊下
シノにつれられて人気のない渡り廊下についた。周囲の喧騒が遠くから聞こえてくる。
このくらいの静寂が好きだった。どこか遠くは五月蠅いのに、ここは静か。その対比が好きなのかもしれない。
前を歩いていたシノは立ちどまってくるりとこちらを振り向く。
「で、昨日は何をしていたんですか」
誰もいない渡り廊下。奇しくも、ここはあの夜、謎の少女と邂逅した日だ。あれは、誰だったんだろう。そもそも夢だったのかもしれない。
長く美しい黒髪、白磁の肌、この中学の制服。
――あれ?
もしかしたら、シノに似ていたかもしれない。いや、特徴だけはそっくりだ。
でも、だからこそ夢だったのかもしれない。知っている人の夢を見るなんて、よくあることだ。少しだけ恥ずかしい。
「ヨウ?」
はっとして顔を上げる。訝しげな表情をしてシノがこちらを覗き込んでいた。長い睫毛に縁取られた大きな瞳がこちらを見つめていた。
「ごめん、ボーっとしてた 」
「余程、お疲れなんですね」
「うん、そうかも?」
「何をしていたかは訊きませんが、今日はゆっくり寝てくださいね」
この少女には、秘密のバイトのことを話してもいいような気がした。というか疲労困憊の脳は間違いなく誰かに話を聞いてもらいたがっていた。
曲がりなりにもヨウだって女であるから、喋るとスッキリする生き物なのである。
「……ねえ、シノ。誰にも言っちゃだめだよ」
「ええ、誰にも言いませんよ」
ヨウの唐突な宣言にもゆるりと笑ってくれるのだ、この心優しい美少女は。すっかり心を溶かされてしまう。
辺りに誰もいないことを確認して、小声で言葉を継ぎ足した。
「バイトだよ、バイト」
サアアアアーー
妙に良いタイミングで風が通り抜けていった。別に何も起きないけれど。
「まあ、バイト……」
流石に周囲を慮ってか、シノも小声でつぶやく。でも次の瞬間、彼女の瞳に浮かんたのは疑問と興味だった。
「バイトって中学生でも出来るんですか?」
やっぱりそこ気になるよね。端的に言えば、天才だから。ごめんね、バイトもできちゃう天才で。頭が悪かったらもう死んでいる。
でもまあ、こんなふざけた答えじゃきっとシノは満足してくれない。
「高校生と詐称してだったらできるよー。知性があれば案外なんとなくで採用してくれるんだ。……あっでも、一般企業はだめだよ。そういう制約に厳しいから。個人経営の店で、特に少し後ろめたい職だったら黙って採用してくれる」
特にヨウのバイトはとてもじゃないが人におすすめできる代物ではない。口にするのも憚られる。妹のアオにすら言っていないくらいだ。どうしてシノには話せるんだろう。
「あら、ヨウのバイト講座ですね。ためになります」
なんて清らかに笑ってみせるシノ。彼女はきっとお金に苦労したことなんかないくせに。
「そんなことないでしょー、シノはお金に困ってないじゃん」
思ったことをそのまま口にすると、シノは苦笑した。
「うーん、そうとも言えるし、そうとも言えないかもしれないですね」
いつになく曖昧な返事。
「お金はいくらあっても困りませんから。どちらかというと、私は私のお金が欲しいですね。今私が使えるのは親のお金だけですから。親なしには生きられないというのは、少しだけもどかしいですね」
だからバイトにも興味あります。なんて綺麗な笑顔でのたまう。
親のお金はあるんじゃないか。お小遣いもあるだろうに。どうせ、親がいなければ生きられないんだろう。それは甘えだ。
でも、そうやって育てられたら仕方がないのか。与えられた人はそれがなくなるなんて想像しない。でも、変に親がいない人の想像をして同情されても腹が立つ。どうせそれは高見の見物だから。本気で貧乏の人の気持ちなんてわかるはずがないのだ。
色んな感情が渦巻く。けれど、ここで吐露するべきではない。だってシノは何も悪くないんだから。全ての感情を抑え込んで、ただの自分の願望を口に出してみる。子どもじゃないんだから、これくらいは感情をコントロールできる。
「みんな、ゆるく生きればいいのにね。働きたい人が働いていくらでも稼げる時代が来ないかなー」
これは、まぎれもない願望。つまり、お金がほしい。そこだけはシノと一致した。というか、これだけは多くの人と意見が一致するだろう。
お金を作った人類がお金に困る人間を生み出すなんて。最高に滑稽じゃないか。
「今のバイトに不満が?」
「不満てわけじゃないけど……所詮バイトだからお給料が低すぎるんだよねー」
もっと稼ぎたあい。アホみたいな声で言ってみる。これは本音。リスクの割には稼げていない。
「じゃあ、卒業したら二人で大金持ちになりましょうか。一攫千金を狙って」
「いいねー、それ。シノとならいくらでも稼げそうだよ」
クスクスとシノは笑う。
「確かに。ヨウの天才的な頭脳があれば、何でも出来そうですね」
「そうだねー、あとそれからシノの美貌もあれば千人力だね」
もう謙遜することは忘れた。謙遜なんて道端に転がしておけばいい。どうせ、事実は変わらないのだから。シノが天才と言えば、ヨウは紛れもなく天才なのだ。今はそれくらいでいい。
「私たち最強かもしれませんね」
シノは横を向いて手摺に寄りかかった。風が吹いて艶やかな黒髪が流れる。それだけでどこか美術画めいた絵になった。なんというか、夏の学生絵画コンクールの最優秀賞に飾られていそうな、そんな爽やかな絵だ。
「うん。もっと早くに出会えばよかったね」
「……ええ、私もそう思います」
その表情は風に靡いた長い黒髪に隠されて、良く見えなかった。でも、きっとその顔も綺麗なんだろう。
酷い既視感に襲われる。この光景を、知っている。ドラマで見たとかそんな生ぬるいものではない。確実に、この目で見たことがある。
違う、この前の夢で見た夜の学校の光景とも違う。もっともっと、この目の前の広がる光景と酷似していた。
――もしかすると、彼女と会ったことがあるのかもしれない。喪失感の根源は、これか。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。そうしてこの夢みたいな時間は終わってしまった。
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