夕映えのハルモニア
谷 侑香里
第1話
不貞腐れた子供のように唇を尖らせて、あたしは春霞の空にチューバの音を響かせる。夕映えする金管から放たれたその濁った音は、あたしのいじけた臓腑(ぞうふ)を隈なく震わせて、だだっ広い放課後の校庭に降り注いだ。左の腿(もも)が痛い、肩も腕も痛い。身動きするたびに、楽器の重みで全身が悲鳴を上げる。チューバは吹奏楽部の楽器の中でも最重量級だ。それに、音だって一番低い。あたしは巨大なベルに押しつぶされそうになりながら、桜の吹き込む廊下の片隅で、精いっぱいマウスピースに息を吹き込んでいた。
音色は正直だ。膨らんだり、ぼやけたりするその音色は、あたし自身の心を映しこんでいるように重苦しい。まるでお風呂上がりのお父さんの声だ。あたしは自嘲気味にそう思いながら、正面の楽譜に目を遣った。旋律もへったくれもない、のっぺりとした楽譜と目が合う。見事に低音しかない。つまらない楽譜、つまらない楽器だと、心の底から思う。あたしはこの楽器が大嫌いなのだ。それなのに、顧問の中島は、大柄な体格があっているからと、この楽器を無理やりあたしに押しつけた。お願いだから、あたしを五線譜の檻に閉じ込めないで。そのまま、いまいましい楽譜を強引にバックにねじ込む。
あたしは廊下を駆け抜けて、音楽準備室の扉を開けた。中ではフルートとオーボエ奏者がチューニングをしている真っ最中だった。無数の視線があたしの全身に刺さる。新入部員でしかもチューバ奏者なんぞが何の用だ。無言の瞳が一斉に尋ねていた。
「約束があるんです。神崎(かんざき)真弓(まゆみ)は連れて帰ります」
静謐な湖面から顔を上げたように、真弓はフルートから唇を離し、まっすぐにこちらを見た。その白磁のような面、かすかな憂を含んだ切れ長の二重、なだらかな弧を描くたおやかな腕。狂おしいほどの美少女の趣に、あたしの胸は高鳴る。
新入部員の暴挙に、花形奏者たちは狼狽(ろうばい)の目配せをし合っていた。困惑した様子の真弓の手を強引に引いて、あたしは音楽準備室を後にした。
「こら待て、中田、あと神崎。来週は合同練習だぞ。分かってんのか!」
顧問の中島の声を無視して、あたしたちは走った。バラバラな楽器の音色があちこちで響き渡る、夕暮れの放課後の廊下を。
あたしたちは裏山に続く石段を登っていた。その頂上には、夕日が世界一奇麗に見える公園があるのだった。そこにはいつも人っ子一人いなくて、チューバだって思いっきり吹ける。だけれど今日のあたしは、その先へ行きたかった。先輩も同級生も顧問も誰もいない、世界の果てまで行きたかった。そこへたどり着く頃には、何かが変わるような気がしていた。
急な上り坂に、左足の腿の筋肉が悲鳴を上げた。構えの姿勢の時に、いつも楽器を乗せている場所だ。背負ったチューバは巌(いわお)のように重い。振り向くと、麓の街はまだすぐそこにあった。狂ったような心臓の音が聞こえる。
「だいぶ登ったね」涼しい声で真弓が言う。
フルートは、見た目よりも、吹きこなすのに筋力がいる。華奢(きゃしゃ)な真弓の腹筋が六つに割れているのを、私は知っていた。才能だってある。私はどんなに願ってもなれなかったフルート奏者という肩書を、真弓はあっさり手に入れた。それに、楽器だって、軽い。
「私さえいなければ、って思ってるでしょう」
暗く沈んだ私の心を、真弓は簡単に見透かした。図星を突かれて、あたしは子供のようにすねた。
「だって、チューバなんて、音汚いし、旋律だってほとんどない。誰もやりたがらないんだ。真弓はいいよね、簡単に希望が叶って」
「低音がないと、ハーモニーにならないんだよ」真弓は目を真ん丸にして、あたしの顔を覗き込んだ。その瞳を覗き込んで、あたしはようやく理解した。
世界の果ては、ここだ。
あたしはずっと、この世界のどこかには、こんな自分でも受け入れてくれる純正律のハーモニーがあると思い込んでいたのだ。でも、違った。かけがえのない相棒に背を向けていたのは、いつだってあたし自身だった。「ごめんね」あたしは静かに呟いた。背中のチューバは無言の重みでそれに答えた。
あたしはくるりと踵を返して、坂を下り始めた。また重いチューバを背負って。真弓が当惑(とうわく)したように後を追ってくる。疲弊(ひへい)した足は、棒を通り越して、もはや鋼鉄のようになっている。けれどもあたしの心は、不思議と軽くなっていた。コンクリと靴底の触れ合う乾いた音が、春霞の空に響く。一足、また一足ごとに、私の覚悟は固まり、乱れた呼吸は一定のリズムに収束していく。
そうだ、あたしはこの相棒の良さを、知ろうとしていなかっただけなんだ。
麓の街がどんどん近くなる。真弓と飛び出してきた、中学校の校舎の屋根が、夕暮れの街並みに霞んで見えた。いつの間にか夕日は沈んでいた。あたしたちは落日を見なかった。けれどもあたしの瞼の裏には、いつの間にか真ん丸な美しい夕日が映り込んでいた。
「待ってよ――」真弓が慌てて叫んでいる。
下りは、あたしのほうが断然早い。あたしはさらに二段、三段飛ばしで坂を下っていった。まるで五線譜の中を踊るように。あたしの心はどんどん軽くなった。そうして次第に溶けていった。春の淡い大気、桜の花びらの渦、藍色に霞む夕空の調和(ハルモニア)の中に。
夕映えのハルモニア 谷 侑香里 @ricorrenza123
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