エピローグ ―相棒として―
その後、携帯電話でタクシーを呼び、十分ほど経ったところで車が到着した。タクシーに乗り込む直前まで霧香は木場に頭を下げ続け、車が発進してからもまだ振り返り、窓からこちらを見つめていた。木場も名残惜しそうに、タクシーが見えなくなるまで彼女の姿を見送った。
「ふう……。それにしても長い事件だったな」
タクシーが完全に視界から消えたところで、木場が伸びをしながら呟いた。
「たった三日しか経ってないのに、三週間くらい分仕事した気分だよ。疲れたし、今日はこのまま帰ろうかなぁ……」
「あいにくだが、早退を認めるわけにはいかんな」
急に後ろから声がして、木場はびくりとして振り返った。いつの間にか表に出てきたらしいガマ警部が、鋭い視線で木場を見据えていた。
「け……警部!? いつからいたんですか!?」
「十分ほど前からだ。お前が戻ってくるのが遅いもんだから、てっきりあの娘を口説いとるんじゃないかと思って様子を見に来たんだ」
「十分前? ……ってことは、もしかしてあれを見てたんですか?」
「……別に見たくて見たわけじゃない。だが女を口説くなら、もう少し時間と場所を選ぶことだ。そうすれば公衆の面前で恥を晒すこともなかったんだ」
ガマ警部が面白くもなさそうに言った。木場は顔を真っ赤にして俯いた。穴があったら入りたいとはこのことだ。
「いいか。お前は昨日の時点で捜査から外されていた」ガマ警部が釘を刺した。
「昨日と今日の捜査は、あくまでお前が勝手にやったことだ。本来の仕事が残っている以上、早退は認められん。さっきお前の机を見てきたが、書類が山積みになって雪崩が起こりかけていたぞ」
「そうでした……。結局報告書も全然手がつけれらてないんですよね。うう……今夜は泊まり込みかなぁ」
木場はがっくりと肩を落とした。事件が一つ解決しても、刑事の仕事は終わらない。
「それにしても、意外だな……」
ガマ警部が呟いた。コートのポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけて口に咥える。自動ドアに張られた「庁内禁煙」のポスターの真ん前で堂々と喫煙をして見せるのは、ガマ警部だからこそ為せる業なのだろう。
「さっきの場面を見たが、お前、随分とあっさりとあの娘を手放したじゃないか。捜査中はあれほどこだわっていたのに、どういう心変わりだ?」
「心変わりしたわけじゃありませんよ。あのまま告白したって格好悪いだけですし、それに、霧香さんに恩を売るような真似をしたくなかったんです。
自分は藍沢や灰塚先生みたいに、男としての魅力があるわけじゃないし、刑事としても半人前です。霧香さんには、自分なんかよりもっと相応しい人がいる。だからこのままでいいんです」
木場はそう言って笑った。惜しい気持ちがないわけではないが、その言葉もまた本心だった。
「……ふん。それはまた、殊勝な心意気だな」
ガマ警部はそう言うと、ゆっくりと煙を吐き出した。白い煙が、音もなく空に立ち上っていく。
それを見ているうちに、ガマ警部と行ったこの三日間の捜査風景が、走馬灯のように木場の脳裏に蘇ってきた。
屋敷内で聞き込みをしたこと、現場で調査をしたこと、霧香の取り調べをしたこと、推理の手助けをしてくれたこと。見た目こそ鬼刑事だが、この人はいつも自分のことを傍らで見守ってくれていた。
「警部、今回は本当にお世話になりました!」
木場が声を張り上げた。ガマ警部が木場の方に視線を向ける。
「今回の事件を解決できたのは警部のおかげです。本当にありがとうございました!」
木場がそう言って勢いよく頭を下げた。ややあって顔を上げたが、ガマ警部はやはり仏頂面のままだった。
「……礼を言われる筋合いはない。俺は自分が正しいと思うことをしただけだ」
「またまた、謙遜しないでくださいよ。自分、ガマさんが上司で本当によかったと思ってるんですから!」
つい親しみを込めて呼びかけてから、木場はあっと声を漏らした。ガマ警部がじろりと木場を見やる。
「……すみません。この呼び方は駄目なんですよね。警察は階級社会なんですから」
木場が恥じ入るように笑ったが、ガマは憮然としたまま前を向いた。
しばらく押し黙った後、煙草を落とし、足で踏み消しながらガマ警部は言った。
「……俺も長年刑事をやっているが、お前みたいな奴は初めてだ。現場では浮足立ち、関係者に入れ込んだ挙げ句、組織の方針に従わずに勝手に捜査を進めた……。本当ならクビになってもおかしくなかったんだ。
今回はたまたま山勘が当たり、被疑者がシロだったからよかったものの、いつもいつも傍若無人な振る舞いが許されるわけじゃない。疑心をなくすことは、刑事としての嗅覚を鈍らせる……。お前が今の自分を貫けば、いつか組織に壊滅的なダメージを与えるかもしれん」
「そ、そうですよね……。すみません。やっぱり自分、刑事に向いてないんですかね……」
木場が叱られた子どものようにしゅんとなる。ガマ部は木場に一瞥をくれた後、いかにも気が進まなさそうに言った。
「……だが、俺もお前と行動を共にする中で、忘れかけていた気持ちを思い出した。組織に
お前は俺に、その初心を思い出させてくれた。その功績に免じて……呼び名くらいは、大目に見てやらんこともない」
木場が目をぱちくりさせてガマ警部の顔を見返した。
ガマ警部は気まずさを払うように咳払いをすると、木場の方を見ないまま言った。
「……今夜は長い。仕事に戻る前に、腹ごしらえに行くとするか」
言うや否や、ガマ警部は木場の返事を待たずにずんずんと歩き出した。
木場はぽかんとしてその背中を見つめていたが、やがて表情を綻ばせると、忠犬のようにその背中を追いかけた。
「ガマさん! 待ってください! 自分、カツ丼がいいです!」
暮れなずむ空の下、人気の少ない駐車場を、二人の刑事が足早に通り過ぎていく。
童顔にして低身長。単純にして猪突猛進。人を疑うよりもまず信じる。
そんな刑事らしからぬ新米刑事の物語は、まだ始まったばかりだった。
―了―
―了―
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