開かれた窓

「あの……ところで、屋敷のことなんですけど」


 木場がおもむろに言った。霧香が顔を上げて木場を見つめる。


「さっき家の人達と話をしてきました。あの屋敷は近いうちに引き払われることになりそうです。もう、皆さんがあそこに住み続ける理由はないわけですからね」


「そうですか。ただ、そうなると困ってしまいますね。私はあの屋敷での生活しか知りませんから、他の場所に移って生活していけるかどうか……」


「大丈夫ですよ。きっとすぐに慣れます。果林ちゃんも高校に行くみたいですし、霧香さんもまた学校に行ってみたらどうですか?」


「学校……ですか。二十四歳にもなって、高校生に混じることはさすがに無理があると思いますけれど」


 霧香が苦笑した。ようやく見せた笑みではあったが、その顔はどこか無理をしているように思えた。


 そこへ足音が聞こえてきたため、木場は視線をその方へやった。先ほどの両親が少年を伴い、廊下の奥から戻ってくるところだった。まだ小学生くらいの少年で、ワックスで遊ばせた髪型と、派手なプリントが描かれたTシャツが、いかにも粋がった不良少年の体を成している。


「……正直なところ、まだ戸惑いがあるんです」


 霧香が不意に呟いた。木場が霧香の方に視線を戻した。


「私はこの五年間、ずっと父のお世話をして生きてきました。ですから、急に自由を与えられても、何をすればよいかわからなくて……」


「何をって……思いついたことを何でもやればいいんじゃないですか? 学校に行ってもいいし、仕事をしてもいいし、趣味を始めてもいい。何なら恋愛だって……」


 木場はそこではたと言葉を止めた。霧香が不思議そうに木場を見返す。その美しい顔を見つめているうちに、木場は自分の顔が火照っていくのを感じた。


「……刑事さん? どうかなさいました? お顔が真っ赤ですわ。もしかして熱でも……」


「い、いや大丈夫です! 自分、緊張するとよくこうなるんです!」


 霧香が木場の額に手を伸ばしたので、木場は慌てて後ずさった。

 だが心の中では、もう一人の自分が執拗に木場をけしかけていた。今日を逃せば、自分が霧香と会う機会はもう二度とないだろう。ならば今伝えるしかない――。


 木場はしばらく一人で見悶えていたが、やがて意を決して切り出した。


「あの、霧香さん。自分、どうしても言いたいことがあって……」


「はい、何でしょう?」


 霧香が首を傾げて木場を見返した。心臓がどくんどくんと脈打つ。屋敷で推理を披露した時よりも遥かに緊張を感じ、背中から滝のように汗が滴り落ちていく。


「霧香さん、自分は……」


 木場がごくりと唾を飲み込んだ。霧香の大きな瞳が木場を見つめる。


「自分は、霧香さんのことを……」


 木場がそこまで言った時だった。急に右膝の後ろに衝撃を感じ、木場はうっと声を上げて前方によろめいた。そのままバランスを崩して床に倒れ、盛大に顔面を打ちつける。痛みに顔を歪めて身体を起こすと、先ほどの少年が木場に向かってあっかんべえをしていた。


「粋がってんじゃねーよ! バーカ!」


 少年が叫んだ。すでに表に出ていた母親が慌てて戻ってきて、木場に何度も謝りながら少年を外へと引き摺っていく。まだひりひりする額を擦りながら、木場は呆気に取られてその光景を見つめた。


「あの……刑事さん? 大丈夫ですか?」


 霧香が心配そうに声をかけてきた。木場は慌てて床に手を突いて立ち上がった。


「あ、はい。大丈夫です。いや、まさか署内で襲撃を受けるとは思いませんでした」


 木場が苦笑しながら言った。現職の刑事が小学生に膝かっくんを食らわされるとは、ガマ警部が聞いたらまた心労の種が増えるに違いない。


「それならいいのですが……。ところで刑事さん、今何をおっしゃろうとしたんですか?」


「え! えーと、それはその……」


 木場は急にしどろもどろになった。こんな情けない姿を見せた後で、告白を再開する気にはなれそうもない。


 木場は少し迷った後、精一杯の笑みを浮かべて言った。


「霧香さん、自分、あなたと出会えて本当によかったと思ってるんです。自分はまだ新米で、人の手を借りないと何もできません。でも、そんな自分がこの事件を解決できたのは、あなたを助けたかったからです。

 あなたは今まで、お父さんのために自分を犠牲にして生きてきたけど、これからは自分のために生きてほしい。いつか佳純さんと約束したように、素敵な人と結婚して、今度こそ幸せになってほしい。そのことを、最後に伝えておきたかったんです」


「刑事さん……」


 霧香が目を見開いて木場を見つめた。何度か目を瞬かせた後、目尻にうっすらと雫が浮かぶ。雨粒にも似た、涙の雫。


「ありがとう……ございます……」


 溢れそうになる涙を堪えるように、霧香はそっと微笑んだ。先ほどとは違う、心からの笑み。


 それはまるで、籠の中に閉じ込められていた蝶が解き放たれ、初めて広い世界に飛び立っていったような、そんな晴れやかさを感じさせた。


 初めて見せた霧香の笑顔を見つめながら、木場もかろうじて笑みを浮かべた。


 これでいい。彼女の人生にとって自分は異物だ。自分が近くにいる限り、霧香はこの事件のことを思い出すだろう。新しい世界へ羽ばたこうとする彼女に、忌まわしい過去は必要ない。

 木場はそう自分に言い聞かせ、胸の疼きから目を背けようとした。

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