藍の記憶

 夕方の待合室には人の姿は少ない。膝に乗せたハンドバックの手すりを握り締め、憔悴しきった顔におざなりに化粧を施した女性と、その隣でネクタイを緩め、渋い顔で押し黙っている男性の姿があるだけだ。子どもが悪さをして逮捕されたのを迎えに来た両親だろうか。


 霧香の姿はすぐに見つかった。両親から離れたところで、きちんと膝に手を置いて背筋を伸ばして座っている。木場は彼女の元へ駆け寄った。


「霧香さん!」


 霧香が顔を上げて木場の方を見た。張り詰めた糸が切れたように彼女の顔に安堵が浮かんだのがわかった。


「刑事さん……よかった。このままお会いできなかったらどうしようかと思っていました」霧香が立ち上がりながら言った。


「すみません。まさか待っててもらえるとは思わなかったんで……。あの、場所を移しましょうか?」


 木場が両親の方を見ながら言った。二人は最初こそ顔を上げたものの、それ以降は木場達を気に留めた様子はなかった。自分の子どものことで頭がいっぱいなのだろう。


「いいえ、ここで結構です。私……どうしても刑事さんにお礼を申し上げたかったもので。このたびは本当にお世話になりました」霧香が深々と頭を下げた。


「い、いえそんな。霧香さんは何もしてないんですから、釈放されるのは当たり前ですよ」


 木場が片手を振って謙遜した。そこへ一人の警官がやって来て、両親に一緒に来るように促した。二人は緊張した面持ちで立ち上がると、警官に連れられて廊下の奥へと消えた。元々静かだった待合室が、人気がなくなったことでいっそう沈黙に支配される。


「……刑事さんには、随分とご迷惑をお掛けしてしまいましたね」


 霧香が沈んだ顔で俯いた。


「私が最初から真実をお話していれば、警察の方々を混乱させることもなかったのに……。浅はかな振る舞いをしてしまったと反省しているんです」


「いや、しょうがないですよ。だって霧香さんは、藍沢さんを庇おうとしたんでしょう?」


 木場は窘めたが、霧香の表情は沈んだままだった。彼女はどこまで真相を知らされたのだろう。岩井が藍沢だったこと。藍沢が宗一郎を手にかけたのは、霧香を救うためでもあったこと。


「私……あの方とお話していると、不思議と心が落ち着いたんです」


 霧香がぽつりと言った。木場が当惑した視線を彼女に向ける。


「父の送迎や、自分の通院で私が車に乗るたびに、あの方は親身になって話を聞いてくださいました。まるで自分のことのように私を気にかけてくださって……とても優しい方なんだと思っていました。だから……あの方が誰かを知らされた時も、私はあまり驚きませんでした」


 木場はまじまじと霧香の顔を見つめた。もしかしたら霧香は、最初から岩井の正体に気づいていたのではないだろうか。変わり果てた彼の容貌の中で、唯一失われなかったその澄んだ瞳に、かつて焦がれた人の面影を見出していたのだとしたら。


「……父を失ったことは、もちろんショックではあります。でも、私にはあの方を責めることはできません。

 あの方はどこまでも誠実な方でした。お姉様に対しても、誰に対しても……。ただ、他に方法を知らなかっただけなんです」


「そう、ですか……」


 木場は何も言えなかった。藍沢が屋敷に戻ってきてからの三年間、霧香は長い時間を彼と共に過ごしてきた。たった数日間、藍沢という人間を垣間見ただけの自分が、それ以上口を挟むべきではないと思った。

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