吉報

 その後、住民達に別れを告げ、木場とガマ警部も屋敷を後にした。パトカーに乗り込む前、木場は改めて屋敷と、眼下に広がる海を見回した。


 今日の海は凪いでいて、時折吹き抜ける清風が穏やかに波を揺らしている。頭上から差し込む日の光を浴び、水面は宝石箱のようにきらきらと瞬いている。その眩いほどの輝きは、この屋敷の未来を体現しているように思えた。


 しばらく水面を眺めた後、木場は屋敷の方に視線を移した。二階の西側、佳純の部屋がある辺りで視線を止める。事件を解決へと導いた部屋。手がかりを残してくれた日記。

 佳純もかつて、窓辺にある机に向かってあの日記をしたためながら、今木場が見ているものと同じ光景を見たのだろうか。絶望に満ちた人生の中で、ほんの少しでも、この眩い海のような光を見出すことがあっただろうか。


 今となってはわからない。でも、どうかそうであってほしいと木場は思った。




 それから間もなく、木場は運転席に乗り込んでパトカーを走らせた。だが、間もなく昼食を抜いたことを思い出し、途端に腹の虫が鳴り始めた。

 最初は無視しようかとも思ったが、あまりにしつこく鳴り続けて運転に支障を来しそうだったため、やむなくガマ警部御用達の乾パンを分けてもらうことにした。二つ三つ食べただけだったが、それでもぴたりと腹の虫が鳴り止み、木場は感心した顔でガマ警部を見つめた。信号の停車中に手帳を取り出し、『乾パンは刑事の必携品』とメモする。


 パトカーを三時間かけて走らせ、警視庁に到着した頃には夕方を回っていた。木場はガマ警部と別れ、一目散に留置場へと向かったが、あいにく霧香の姿はなかった。すでに手続きは済んだらしく、一時間ほど前に釈放されたそうだ。


 木場は肩を落として留置場を後にした。最後に一目霧香に会っておきたかったのに、その願いは叶えられなかったのだ。


 木場が悄然として執務室へ戻ってきたところで、ガマ警部が待ち構えていた。いつもの仏頂面に加え、腕組みをして入口に陣取る姿は仁王像そのものだ。こんな銅像が家の前に置かれていたら、泥棒も尻尾を巻いて逃げ帰ってしまうだろう。


「木場、あの霧香という娘の件だが……」ガマ警部が口を開いた。


「……わかってます。今留置場に行ってきましたけど、一時間くらい前に釈放されたって……」


「ああ。だが娘はまだ帰っていない。タクシーを呼ぶかと聞いたら、しばらくここにいると言ったそうだ。お前を待つためにな」


「え?」


 木場は当惑した顔でガマ警部を見返した。ガマ警部は顔をいっそうしかめると、正面玄関の方を顎でしゃくって見せた。


「……待合にいる。ただし目立つ真似はするなよ。どこでブン屋が嗅ぎ回っているかわからんからな」


「……はい! ありがとうございます!」


 木場はぱっと顔を明るくすると、猛ダッシュで正面玄関へと向かった。段ボールを持って歩いてきた警官と途中でぶつかり、中に詰めていた書類が廊下にまき散らされる。警官が木場に向かって悪態をついたが、すでに木場の姿はない。


 デジャヴを感じる光景。ガマ警部はやれやれというように肩を竦めた。

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