雨上がりの屋敷
「さて、俺達もそろそろ撤退するとするか」
ガマ警部が急に声を上げた。木場がはっとして警部の方を振り返る。
「事件は終わった。今後はもう、俺達がこの屋敷に足を踏み入れることもないだろう。これからは十時間でも二十時間でも、好きなだけ安眠を貪ることだな」
ガマ警部が公子に向かって言った。公子がふんと鼻を鳴らす。藍沢の姿はすでに見えなくなっていたが、それでも屋敷内にはなお、緊張感と沈鬱な空気が漂っている。
「今日は朝からお騒がせしてすみませんでした。霧香さんは直に帰ってくるでしょうから、間もなく屋敷は元通りになると思います」
頭を下げて言いながら、木場は自分の言葉に違和感を覚えた。元通り。この屋敷の住民にとって、それは何を意味するのだろう。宗一郎の支配下で自由を奪われ続けることか。だが、屋敷に根を下ろしていた主が、再び玉座に腰かけることは永遠にない。
木場は少し迷ったが、すぐに決心した顔で言った。
「あの……お騒がせついでに、最後に一言だけ言わせてもらってもいいですか」
公子達が怪訝そうな目を向けてくる。木場は全員の顔を見回してから言った。
「最初にこの屋敷を見た時、自分はちょっと感動したんです。まるで歴史的建造物みたいな豪邸ですからね。でも皆さんからすれば、ここは牢獄みたいなものだったのかもしれません。皆さんは被害者によって、長い間ここに閉じ込められてきたわけですからね……。
でも、今回の事件が起こったことで、皆さんが屋敷に留まる理由はなくなった。こんな言い方をするのはどうかと思いますけど……もう自由になってもいいんじゃないでしょうか?」
岸壁に佇むこの屋敷で木場が見たものは、殺人事件の痛ましさだけではなかった。そこには長年にわたって自由を奪われ、主の意に沿う形でしか生きられない家族の悲哀があった。もし、この事件に意味があったとすれば、それはこの牢獄から彼らを解放することではないか。
誰も、何も言わなかった。互いに目を見合わせた後、それから屋敷内に視線を移す。煌びやかな、それでいて何の輝きも放つことのない豪邸。
「……刑事さん、あんたって本当に変わった奴だよな」
口を開いたのは灰塚だった。それまで赤点の常連だったのが、急に満点を取った生徒を見るような目つきで木場を眺める。
「最初はただの頼りねぇ兄ちゃんにしか見えなかったのだが、いきなり探偵みたいに事件を解決して、かと思えば俺達のことを心配して……。あんたみたいな刑事、今まで見たことねぇよ」
「そうですよね。自分も毎日のように署で言われてますよ。お前は刑事らしくないから、さっさと転職を考えた方がいいって」
木場が照れくさそうに笑った。ガマ警部が額に手を当ててため息をつく。
「……まぁでも、あんたの言う通りかもな」灰塚が髪をかき上げながら言った。
「雇い主がいなくなった以上、俺がこんないかれた屋敷にいる理由もねぇんだ。街に戻って別の仕事を探すとするか」
「え、先生辞めちゃうの!?」果林がショックを受けた顔になった。
「やだ! あたし先生の授業好きだもん! 先生がいなくなったら誰があたしに勉強教えるのよ!?」
「お前は学校に行きゃあいいだろ。そうしたら友達もできるし、もうぬいぐるみ相手に一日中喋りかけることもねぇんだ」
「あ、そっか! でも……やっぱり先生がいなくなっちゃうのは寂しいな。ねぇ、ママもそう思うでしょ?」
果林が公子の方を振り返った。公子が咄嗟に顔を俯ける。
「え、ええ……。そうですわね。その……先生にはお世話になりましたから、このままお別れというのは、確かに少し寂しいですわね……」
公子は言葉を濁しながら言うと、ちらりと灰塚に視線を向けた。
灰塚は気まずそうに視線を逸らしたが、すぐに頭を掻きながら言った。
「まぁ、その……あんた達がそんなに言うんなら、家庭教師は続けてやってもいいぜ。俺も、ただの義理で八年も仕事を続けてたわけじゃねぇからな」
灰塚が公子に視線を返した。二人の間で意味ありげな視線が交わされる。木場はその様子を眺めながら、そこに新しい家族の姿を見たような気がした。
「そういうことでしたら、私もお暇をいただきたいと存じます」
松田が言った。使用人の間から進み出て、公子達に向かってちょこんとお辞儀をする。
「この屋敷にお仕えして、早二十年……。最初はここに骨を埋めるつもりでしたが、奥様方が新生活を始められるということであれば私の役目はなくなります。ちょうど田舎の孫から、梨農家を手伝ってほしいと言われておりましてね。私も歳ですので、そろそろ隠居しようかと」
「あら、いいじゃない!」果林がはしゃいだ声を上げた。「あたしフルーツ好きなの。ね、収穫できたら送ってくれる?」
「もちろんでございます。段ボールに詰めて一ダース……。いえ、二ダースお送り致しましょう」松田が真面目くさった顔で言った。
「いや、そんなに送られても困るけどな……」
灰塚が苦笑した。掃除夫やメイドの間からもくすくすと笑いが漏れ始める。
木場はその光景を眺めながら、藍沢のことを考えた。
宗一郎の死により、屋敷を覆っていた黒い霧は晴れ、降り続いていた
もちろん、だからといって藍沢の行動が正当化されるわけではない。それでも木場は、彼が実現しようとしたことが理解できる気がした。
その時、木場は唐突に、先ほど藍沢が呟いた言葉が何なのかがわかった。この屋敷にいるはずのもう一人の家族。その欠けた最後のピースを、藍沢は木場に託したのだ。
(刑事さん……。霧香のこと、よろしくお願いします)
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