贖罪
そこへ表からけたたましいサイレンの音が聞こえ、その場にいた全員が一斉に玄関の方を振り返った。どうやら迎えが来たようだ。
「……時間だ。行くぞ」
ガマ警部がそう言うと、欄干に繋がれた手錠を外して藍沢のもう片方の手にかけた。
藍沢は抵抗しなかった。項垂れたまま立ち上がり、玄関へ向かおうとする。
「あの……藍沢さん!」
木場は思わず呼び止めた。藍沢が虚ろな眼差しを向ける。悄然としたその姿には、かつて数多の女性を魅了した男の面影はない。あの澄んだ瞳でさえ、今では汚れたものになってしまった。
それでも木場は、その男を単なる殺人犯だとは思えなかった。だから尋ねた。
「本当のところ……あなたは霧香さんのことをどう思っていたんですか?」
藍沢が微かに目を見開いた。まじまじと木場を見つめた後、逡巡を浮かべて視線を落とす。玄関のドアが乱暴に叩かれ、メイドがそちらに向かおうとしたが、ガマ警部が片手で制した。
「……藍沢誠二のままであれば、僕は彼女のことを何も知らないままだったでしょう」
藍沢がぽつりと言った。
「佳純がいた頃は、霧香は彼女の影でしかなかった。彼女はいつも控え目で、決して目立とうとはしなかった。だから僕も、彼女の存在を意識したことはありませんでした。
でも……佳純がいなくなり、名前を変えてこの屋敷に戻った時、僕はようやく霧香という人間を知ったんです。
霧香は実に甲斐甲斐しく雨宮の世話をしていました。朝から晩まで父親に付きっきりで、ほとんど自分の時間も持てずいにた。僕は彼女を不憫に思い、何度も労りの言葉をかけました。でも、彼女は文句一つ零さなかった。それどころか、父親が礼を言ってくれるのが嬉しいと言って笑っていたんです。
僕はそれを見て、自分の決意が揺らぐのを感じました。あんな腐った人間であっても、彼女の父親であることには変わりない。そんな人間の命を奪うのが本当に正しいことなのか……わからなくなってしまったんです」
藍沢はそこで言葉を切った。唇を引き結び、何かを堪えるように拳を握り締める。
「でも……霧香も佳純と同じように、雨宮の呪縛に捕らわれていました。雨宮は、自分が霧香に犠牲を強いていることを何とも思っていない様子で、死ぬまで霧香に介護をさせるつもりでいることは明らかでした。あの男が生きている限り、霧香が自由になることはない……。そう考えると、僕はやはり雨宮を殺害するしかないと思いました。
僕は佳純を救えなかった。だからせめて……霧香は、霧香のことだけは……救いたいと思ったんです」
藍沢はそう言って顔を上げた。そこには嘲りも憤りもなかった。
あるのはただ、愛したはずの女性を二人とも守れなかった男の、無力感だけだった。
その時、室内の沈痛な空気を打ち破るように玄関のドアが乱暴に開かれた。いつの間にかメイドが鍵を開けていたらしく、数名の警官がどやどやと駆け込んでくる。警官はあっという間に藍沢を取り囲み、そのままスクラムを組むようにして彼を連行する。
藍沢は特に抵抗する様子も見せず、大人しく警官に従った。だが、不意に足を止めると、ちらりと木場の方を振り返った。二人の視線がかちりと合う。
藍沢は微かに微笑むと、小さく口を開いて何かを呟いた。
「え、何ですか?」木場が片手を耳に当てて聞き返した。
「おい、早くしろ!」
警官の怒号に呑まれ、藍沢の声は木場の耳には届かなかった。藍沢は言い直そうとはせず、黙って木場に会釈すると、そのまま玄関へと向かった。木場は途方に暮れたようにその背中を見送った。
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