佳純の日記(1)

 いつの間にか木場は窓辺を離れ、推理小説で探偵がよくするように、考えに耽りながら部屋を歩き回っていた。


 そして考えに耽っている人間にはよくあるように、足元にある障害物の存在に気づかず、それに足を取られてつんのめった。


 次の瞬間、木場は床に盛大に顔面を打ちつけていた。


「いてっ!」


 絨毯の上で大の字になりながら、木場は顔をしかめて顎を擦った。絨毯から舞い上がった白い埃が口に入り、げぼげほと咳き込む。振り返ると、ソファーの傍に一冊の本が落ちている。どうやらあの本に躓いたようだ。


「うぅ……ちゃんとしまっといてよ」


 責任転嫁も甚だしい発言をしながら、木場は絨毯に両手と両足を突いて起き上がった。憎たらしい本を拾い上げ、本棚に戻そうとするが、そこで表紙に書かれた文字が目に入った。


「ダイアリー……? これ、佳純さんの日記なのか?」


 鶯色の革製のカバーに、茶色い紐のベルト。十八歳の少女が持っていたにしては渋いデザインだ。A5サイズで二センチほどの厚みがあり、日記というよりは一冊の本のようだった。


 木場は日記を手にしたまましばらく立ち尽くしていたが、やがて日記を持ったまま入口の方に近づいて行った。扉をほんの少し開け、廊下の様子を窺う。ガマ警部は新しい煙草に火をつけていた。霧香はまだ戻っていないらしい。


 木場はそっと扉を閉めると、改めて日記に視線を落とした。眺めているうちに好奇心がむくむくと立ち昇っていく。


(……勝手に読んだら怒られるかな。いやでも、ここに事件解決の手がかりがあるかもしれないし……)


 好奇心とプライバシーが心の中でせめぎ合ったが、結局好奇心が勝利した。今一度扉の方を振り返った後、そっと紐のベルトを外して日記を開く。ぱらぱらと捲ってみたが、ページが埋まっていたのは半分ほどだった。毎日の生活を記録するというよりは、特筆すべきことがあった日にだけ書いていたらしい。最初のページにはこんな記述があった。




『2010年4月10日

 お父様にはいい加減うんざり。どうして学校や友達のことまでいちいち口出しされなきゃいけないのよ。霧香は何も言わないみたいだけど、私は黙って従うつもりはないわ。お父様が間違っているってはっきり言ってやるんだから』




 日付は今から十一年前。佳純は中学一年生の時にこの日記を書き始めたようだ。宗一郎への不満は相当なものだったようで、それから数十ページにかけて、父親をこき下ろす内容がつらつらと綴られていた。


 様子が変わったのは三十ページを過ぎた辺りからだった。




『2013年5月21日

 お父様のパーティーに出席した。どうせおじ様しか来ないと思って大して期待していなかったんだけど、今日はとても素敵な方がいたの。澄んだ綺麗な目をした方。恋に落ちるなんて小説の中の話だと思っていたけれど、今日初めてその意味がわかったわ』




 今から八年前の記述だ。藍沢と出会った夜に書いたものだろう。彼の存在はよほど鮮烈な印象を残したようで、それから約五十ページにわたって藍沢への恋情が綴られていた。毎日彼の夢を見る。次のパーティーが待ち遠しくて仕方がない……。十代の少女の狂おしい胸の内が赤裸々に語られ、木場は罪悪感を覚えながら手早くページを捲った。

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