絶望の海
最後の署名まで辿り着いたところで、木場はまた始めからその日の日記を読んだ。三回繰り返して読んだところでようやく顔を上げ、空気の塊のようなため息をついた。何とも言えない沈鬱な気持ちになり、黙って日記を閉じる。茶色い紐のベルトで封をし、足を引き摺るようにして窓辺へ歩いて行き、テーブルの上にそっと日記を置く。それでもすぐには立ち去ることができず、木場は魂が抜けたような顔でその鶯色の表紙を見下ろした。
窓の外に視線をやる。静謐な空間の中にいると、打ち寄せる波の音がいっそう明瞭に聞こえてくる。
佳純はこの日記を書き終えてから、まっすぐに崖へと向かったのだろうか。今と同じように月明かりに照らされる中、一人崖に佇み、暗い海を眺める令嬢の姿が浮かぶ。周囲の闇にも増してその瞳は
やがて強い風が吹き、彼女の羽織った白いショールをなびかせる。風に誘われるように令嬢は崖に一歩近づき、両手を広げ、崖から鳥が飛び立つように海に身を投じる――。
木場は首を振ってその映像を打ち消した。今は過去に捕らわれている場合ではない。そう思って幻影を振り払おうとしても、生前の佳純が感じたであろう心痛が、それこそ亡霊のように木場の心に付き従っていた。
佳純の死後、宗一郎はこの日記を見たのだろうか。きっと見ただろう。恋人への想いを遂げられず、苦悩の上に自ら死を選んだ娘の心境を知り、幾何かでも罪の意識を感じただろうか。
「おい木場! あの娘が戻って来たぞ! いつまで幽霊と戯れとるつもりだ!」
不意にガマ警部の怒声が飛んできて、木場の意識は現実に引き戻された。慌てて顔を上げ、大股で部屋を横切って入口に向かう。扉をそっと閉めたところで、廊下の向こうから霧香が俯き加減に歩いてくるのが見えた。
「霧香さん……」
木場の呟きが聞こえたのか、霧香が顔を上げた。部屋の前に二人がいることに驚いたのか、目を丸くして立ち止まる。
「まぁ……刑事さん、いったいどうなさいましたの?」
「いや、ちょっと霧香さんに用事があって……。霧香さんはどちらへ?」
「食堂に行っておりました。少し気が高ぶっていたもので、ホットミルクを頂きに」
「そうなんですか。食堂って確か一階の西側でしたよね? 自分達もさっきまでロビーにいたんですけど、全然気づきませんでした。いつ通ったんですか?」
「さぁ……はっきりとは覚えておりません。ロビーには捜査員の方が大勢いらっしゃいましたから、紛れてしまったのかもしれませんね」霧香がうっすらと微笑んだ。
「そうなんですか。何かすみません。昼間っから大勢の警官が家の中をうろうろして、そりゃ落ち着きませんよね」
「仕方がありませんわ。人が一人亡くなっているのですもの」
霧香は儚げに微笑んだ。散り際の花のようなその表情に木場は思わず見惚れたが、ガマ警部がすかさず口を挟んだ。
「せっかくリラックスしたところで悪いが、雨宮霧香、あんたにはこれからさらに緊張を味わってもらわねばならん。それも今までとは比べ物にならんくらいの緊張をな」
ガマ警部の一言で、穏やかだった霧香の顔にたちまち不安の色が表れた。一歩身を引いて警部を見つめ、それから助けを求めるように木場の方を見る。木場は何と言葉をかければよいかわからず、困惑した顔で霧香の視線を受け止めた。
「とにかく、部屋で話をさせてもらおう」ガマ警部が有無を言わせぬ口調で告げた。
「場合によっては、あんたがこの部屋に入るのも今日が最後になるかもしれん。せいぜい今のうちに、調度品の手触りを確かめておくことだな」
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