秘密の部屋

 幸か不幸か、霧香は部屋にいなかった。ガマ警部は執拗に扉をノックしたが、中からは何の応答もない。中で息を潜めている気配すらない。三十回ほどノックを繰り返した後、ガマ警部は忌々しそうに舌打ちをした。


「……自分に疑いがかかったとわかった途端に逃亡を図ったか。まったく小賢しい小娘だな」


「警部、そんな言い方はよくありませんよ!」木場が憤然と言い返した。「たまたま留守にしてるだけかもしれないじゃないですか!」


「まぁいずれにしても、屋敷の入口には何人もの警官が配置されている。ここで待っていればそのうち諦めて帰って来るだろう」


 ガマ警部はそう言うと、ズボンのポケットから煙草とライターを取り出した。煙草に火をつけ、煙を吐き出してから口の端に加える。強面の顔に煙草が加わると、その姿はますますギャングの親玉めいて見える。こんな男が部屋の前で仁王立ちしているのを見たら、霧香は卒倒してしまうのではないだろうか。


 その時、不意にどこかから物音が聞こえ、木場は廊下の方を振り返った。てっきり霧香が戻って来たのかと思ったが、彼女の姿はどこにもない。果林の部屋の音かと思ったが、音は彼女の部屋とは反対側、霧香の部屋がある側から聞こえてきた。だが、当の霧香は不在で、辺りには自分とガマ警部以外には誰もいないはず――。


 不意に再び音が聞こえた。さっきよりもはっきりとした、何かが擦れるような音。それは霧香の部屋の隣にある、白い扉の部屋から聞こえてきた。その扉を前にした途端、ある予感が木場の脳裏を過り、たちまち悪寒が背筋を貫いた。


(……まさか、この音って)


 木場はごくりと唾を飲み込むと、恐る恐るその部屋に近づいて行った。扉の前に立つと、あのかさかさという音がより鮮明に聞こえてくる。やはりこの部屋で間違いないようだ。


「木場? 何をしてる?」


 ガマ警部が怪訝そうに振り返った。木場は答えず、そろそろと取っ手に手をかけて回した。鍵は開いており、きい、という音を立てて扉は呆気なく開いた。心臓の鼓動が早鐘を打つのを感じながら、そのまま勢いよく扉を押して部屋に踏み込む。


 部屋は真っ暗だった。手探りで壁に触れると、スイッチらしきものがあったためそれを押す。すぐに天井と壁に付けられた黄色いランプが灯り、薄ぼんやりとした光が室内を照らし出した。


 木場の視界に飛び込んできたのは、緑を基調としたゴシック調の部屋だった。翠色の壁紙にモスグリーンの絨毯が敷かれ、部屋の中央には黒いグランドピアノが鎮座している。その脇には白いソファーと、脚の形が洒落たテーブルと椅子が置かれている。窓辺には木造りの机があり、花瓶に生けられた一輪の赤い薔薇がその上に置かれている。その洗練された森のような落ち着いた空間は、どことなく霧香の部屋とよく似ていた。

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