ガマ警部の憂鬱
灰塚の部屋を出た後、ガマ警部がトイレに行くと行ったので、木場も同行して用を足すことにした。
トイレといってもそこはやはり豪邸で、個室のドアには金色の蝶番と取っ手がつけられ、磨き抜かれた白い洗面台には洒落た形の蛇口がつけられ、装飾を施した鏡の両脇には仄明るいランプが灯っている。トイレというよりも高級ホテルの一室のようだ。木場は落ち着かない思いで室内を見回しながら、不用意に壁を汚さないよう細心の注意を払った。
ガマ警部は個室にこもって出てこなかったので、木場は先にトイレから出て待つことにした。壁に背をつけてスマートフォンを取り出す。時刻は四時半。さすがの果林も散歩を終えて部屋に戻っている頃だろうか。
「……そういえば、灰塚先生のことってネットに書いてないかな」
木場はふと思いついて呟いた。一時期テレビに出ていたくらいだから、彼に関する記事があったとしてもおかしくない。木場はガマ警部がトイレから出て来ないことを確認してから、検索画面に灰塚の名前を打ち込んだ。
「あ、あった! これは予備校時代のプロフィールだな。灰塚敏夫。年齢は二十六歳。ってことは今は三十四、五歳くらいか。それにしても若いなぁ」
木場はしみじみと独り言を言うと、スマートフォンに表示された灰塚の写真を見つめた。
そこに映っていたのは、かつてテレビで見た灰塚の姿そのままだった。ネクタイを締めたワイシャツの袖を捲り、教材らしきノート類を肩に担ぎ、カメラに向けて流し目を送っている。やけにこなれて見えるのはそれだけメディア慣れしていた証拠だろうか。こんな写真が学校案内のパンフレットに乗っていたら、生徒はおろか、母親でさえも入学申込書にサインしたくなるだろう。
(もしかして、灰塚先生が講師を辞めたのって女性問題じゃないのか?)
木場は勘繰ると、スマートフォンをスクロールして他の記事を探した。その姿はゴシップ好きの刑事以外の何者でもない。
「あ、あった! 『予備校教師、灰塚敏夫。生徒と不適切な関係を持つ……』。ほら見ろ! 何が『意外と貞潔』だよ。見た目通りじゃないか!」
木場は力任せにスマートフォンの画面を指で叩いた。記事によれば、灰塚は当時高校三年生だった女子生徒とプライベートで会っていたらしい。本人は否定したようだが、予備校側は事実を重く受け止め彼を解雇したそうだ。当然メディアへの出演も取り止めとなり、彼を持ち上げていたマスコミは、一転して彼を誹謗中傷する記事を書き始めた。
「灰塚は顔が売れてたから、他の予備校に転職することもできなかったんだな。だから被害者が出した求人に飛びついたってわけか」
木場は一人で納得しながら頷いた。宗一郎がどういう経緯で灰塚の存在を知ったかはわからないが、家庭教師の仕事の打診は、灰塚にとって願ってもない話だったに違いない。人里離れたこの屋敷に住んでいれば、マスコミからの好奇の目を逃れることもできる。
「……随分と楽しそうだな、木場。そんなに面白い話なら、ぜひ俺も混ぜてほしいものだ」
急に後ろから声がして、木場は飛び上がりそうになった。恐る恐る振り返ると、仁王のような顔をしたガマ警部がすぐ後ろに立っていた。
「け……警部。やだなぁ、終わったなら早く言ってくださいよ」
木場が愛想笑いを浮かべた。教師に見咎められた男子学生のようにスマートフォンを背中に隠す。
「お前があんまり熱心に携帯を覗き込んでいるものだから、何を見ているのかと興味が湧いてな。それが有名人のスキャンダルとは……芸能記者にでも転向したらどうだ?」ガマ警部が嫌味たっぷりに言った。
「い、いや、別に興味本位で見てたわけじゃないですよ。ほら、事件関係者の過去を調べるのも捜査上必要なことですから!」
「……お前が言っても全く説得力がない。今度くだらない記事を見ているのを発見したら、その機械を取り上げてやるから覚悟しておけ」
「……はい」
木場は項垂れてスマートフォンをポケットにしまった。今回ばかりは、ただのゴシップ好きと揶揄されても言い逃れのしようがない。
「えーと、これからどうしましょうか」木場が気を取り直すように尋ねた。「二階に戻って果林ちゃんの話を聞きますか?」
「そうだな。あの娘もいい加減落ち着いているといいんだが」
「さっき行ってから一時間は経ってますし、部屋に戻ってテディちゃんと喋ってるんじゃないですか?」
「……この屋敷の人間は疲れる奴ばかりだな」
ガマ警部が心の底からため息をついた。木場も神妙な顔で頷いた。
ガマ警部のいう『疲れる奴』の中に、自分も含まれているとは露ほども疑わずに。
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