供述 ―雨宮霧香(3)―
青い壁紙と、白い家具からなる調和の取れたその部屋を目にした瞬間、木場は何となくほっとした。霧香に勧められ、丸テーブルの周りにある背もたれのついた椅子に腰かける。公子や灰塚の部屋で座ったソファーには劣るものの、クッションが尻の形にフィットしており、十分に座り心地はいい。ガマ警部ですら、腰を落ち着けた瞬間に表情を緩めてほうっと息を吐き出したほどだ。普段は署内やパトカーの固い椅子に老体を預けている分、マッサージチェアにでも座ったような気分を味わっているのだろう。
「えーと、それで、お父さんの事故のことですけど……」
木場が手帳を捲りながら話を始めた。買ったばかりの手帳はすでに半分ほどページが埋まっている。ただし急いで書いたため、情報の大半は判別不能な文字と化していた。
「はい。あれは……今から五年前の十一月のことでした」
木場の向かいに腰かけた霧香が答えた。両手を膝の上で重ね、斜めにした足を揃え、背筋を伸ばして木場を見つめている。容姿の美しさに姿勢の良さが加わり、椅子に置かれた人形が喋っているようにも見える。
「その時期、父の事業は多忙を極めていて、帰りが深夜を回ることも珍しくありませんでした。事故があったのも、父が会社からマンションに帰宅する途中で、確か日付が変わる頃だったと思います」
「事故を起こした時は、運転手の人は休みを取ってたんでしたっけ?」
「はい。ですからその日は、秘書の藍沢誠二さんという方が運転をされていました。事故以前にも時々そういうことはあったようで、父も藍沢さんに運転を任せることを不安には思わなかったようです」
「事故の原因は何だったんですか? スピードの出し過ぎとか?」
「いいえ……。居眠りですわ」霧香が膝の上に置いた両手に力を込めた。
「先ほども申しました通り、その頃は父も藍沢さんも多忙を極めていましたから、お疲れになっていたのでしょう。でも普段の藍沢さんは、決して居眠り運転をなさるような方ではありませんでした」
「霧香さんは、藍沢さんとは面識があったんですか?」
「ええ。初めてお会いしたのは、今から七年前でしたでしょうか……。取引先の方を屋敷にお招きしてパーティーを開いたことがありまして、その時にお目にかかりました。まだ二十七歳になったばかりのお若い方でしたけれど、とても素敵な方で……。少しお話しただけでも、お名前の通り誠実なお人柄が伝わってきましたわ」
霧香が目を細めて言った。その頬がほんのり赤く染まっているところを見ると、彼女は藍沢を異性として意識していたのかもしれない。木場は何だか悔しくなったが、すぐに話題を変えるように尋ねた。
「藍沢さんは、いつからお父さんの秘書をされていたんですか?」
「今からだと十年前になるでしょうか……。事故が起こるまで五年ほど勤められていたと聞いています。
それ以前にも秘書の方はおられたのですが、父は部下の方に厳しく、少しでも気に入らないことがあるとすぐに解雇していたそうです。ですから、藍沢さんが五年間も在職されていたというのは相当長い年月で、父がそれだけ藍沢さんを評価していた証拠なんだと思います」
「でも、事故を起こしたことで、結局は解雇されてしまった……」
「……はい。藍沢さんも事故で怪我をされたと聞いて、私……お見舞いに行きたかったのですけれど、父に止められてしまって……。最後にお会いしたのは、事故の半年ほど前に屋敷で開催されたパーティーの時でした」
「じゃあ、藍沢さんとはそれっきり?」
「はい……。私は最初、父を説得しようとしたのです。藍沢さんが事故を起こしたのは過労が原因だったわけですから、あの方一人に責めを負わせるべきではないと考えたのです。ですが父は聞き入れてくださらず、結局藍沢さんは会社をお辞めになりました」
「それで、お父さんは退院した後に経営から退いて、この屋敷であなたの介護を受けるようになったわけですね?」
「はい。父はプライドの高い人でしたから、下半身不随になった姿を会社の方に見られなくなかったのでしょう……。今も会長職として籍は置いてあるようですが、実質的な経営権はありません。事故当時、すでに六十二歳になっていましたから、遅かれ早かれ会社を譲り渡すつもりでいたのだと思います」
「だがこの屋敷は、車椅子の人間が住むにしてはあまりにも危険だ」ガマ警部が背もたれから身体を起こして口を挟んだ。
「屋敷を一歩出ればそこは足場の悪い崖。健常者でも転落のリスクがあるような場所に、なぜ今になって住もうと考えたんだ?」
「……私も父の全てを理解しているわけではありません」霧香が消え入りそうな声で答えた。
「ですが、父はおそらく、家族に囲まれた生活を望んでいたのではないかと思います。父はパーティーの場で、自分は家族を愛していると公言していましたから」
「愛、ねぇ……」
ガマ警部が腕組みをして唸る。警部の言わんとすることは木場にもわかった。
家族を屋敷に縛りつける宗一郎のやり方は、愛ではなくただの束縛だ。多数の使用人を抱えた豪邸で、若々しい妻と美しい二人の娘に囲まれて暮らす。誰もが羨むそんな生活を実現するために、宗一郎は自分のテリトリーに『家族』を囲い込んだのだ。体裁のいい置物として。
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