哀しみは癒えず

 公子の部屋を出た後、木場は絨毯に視線を落としながら長い廊下を歩いていた。頭の中では、今公子から聞いた話が映像を伴って再現されている。恋人を失業に追い込まれ、住む場所を追われ、どこにも逃げ場所はないと絶望し、蜘蛛の糸に搦め捕られるような形で宗一郎との結婚を決意した公子。最初に灰塚との関係を聞いた時点では、夫の眼前で不貞を働く悪女としか思えなかったのだが、真実を知った今となっては、そのイメージはすでに瓦解を始めている。


「いやに萎れているな、木場。あの目障りなほどの元気さはどうした?」


 ガマ警部が声をかけてきた。木場は顔を上げてガマ警部の方を見た。


「あ、いや……なんか、公子さんも可哀想だなって思って。あの人は被害者のために若い時代を犠牲にしたようなものなのに、被害者は公子さんにほとんど何も与えなかった。ただの財産目当ての結婚だと思ってましたけど、自分、あの人のことを誤解してたのかもしれません」


「……まぁ、な」


 ガマ警部が渋々認めた。彼は最初から公子に悪印象を抱いていたようだが、ここに来て印象を改めざるを得なくなったのだろう。


「で、これからどうしましょう?」木場が尋ねた。「もう一回灰塚先生の部屋に行きますか?」


「いや、まだそれほど時間が経っていない。どうせ二階にいることだ。先に娘達への聞き込みを済ませてしまった方がいいだろう」


 ガマ警部が腕時計を見ながら言った。木場も自分の腕時計を見た。時刻は三時半。屋敷に到着してからすでに四時間が経過している。


「そうですね。ただ、霧香さんはともかく、果林ちゃんは部屋にいるでしょうか?」


「さぁな。また屋敷内をふらついているかもしれんが、まぁそのうち見つかるだろう。」


 ガマ警部が関心なさそうに言った。端から部屋にいるとは期待していないようだ。




 階段を横切り、西側の突き当たりまで来たところで、木場はまず果林の部屋の扉をノックした。だが案の定返事はない。ドアノブを回してみたが鍵がかかっている。テディちゃんと一緒に散歩にでも出かけているのだろう。


 木場は諦めて扉から離れると、向かいにある霧香の部屋の扉をノックした。今度はすぐに「はい」というか細い返事が聞こえる。


「あ、霧香さん! すみません、木場です! もう一度お話を聞かせてもらってもいいですか!?」


 木場が叫んだ。二階に捜査員はおらず、静かな廊下に大声が響き渡る。


 ややあってから鍵の外れる音がして、扉を開けて霧香が顔を覗かせた。木場の顔を見ると不思議そうに目を丸くする。


「刑事さん……。どうされましたの? 昨晩のことでしたら、先ほどお話したと思うのですが」


「あ、そうですよね……。あれ、警部、霧香さんに何の話を聞くんでしたっけ?」


 木場がガマ警部に尋ねた。ガマ警部は額に手を当て、これ見よがしにため息をついてから霧香に向かって言った。


「捜査の結果、雨宮の死は十中八九殺人だということが判明してな。犯行の機会や動機を探るためにも、改めて家人に話を聞かねばならん。特にあんたは、被害者とは一番近しい関係にあったわけだからな。他の連中が知らない事情を知っているかもしれんと思って話を聞きに来たんだ」


 なるほど、こういう風に話を進めていけばいいのか。木場は感心したように頷いてガマ警部の話を聞いていた。

 一方の霧香はといえば、殺人、という言葉を聞き、白い顔を見る見る青ざめさせていった。俯き、表情に影を落として呟く。


「……私は何も存じ上げません。確かに父のお世話はしておりましたし、仕事の話を聞くこともありましたけれど、父が仕事上の秘密を打ち明けることはありませんでした」


「では、仕事以外のことは?」ガマ警部がなおも追求した。

「あんたの話じゃ、雨宮はあんた以外の人間を信用しておらず、毒を盛られるかもしれんと言っておったそうじゃないか。家族のことで、何かあんたに相談を持ちかけることがあったんじゃないか?」


「あれはほんの冗談です。父はミステリー小説が好きでしたから、自分の境遇と似た設定の小説を読んでそんなことを言ったのでしょう。誰かが本当に父の命を狙っていたということはありません」


 霧香はきっぱりと言ったが、木場は疑問を禁じ得なかった。宗一郎が人から恨まれやすい性格だったことは事実だ。霧香が知らないだけで、屋敷内で悪意が渦巻いていた可能性は十分にある。


「では、事件当日のことを聞こう」ガマ警部が話題を転じた。

「あんたは雨宮へのプレゼントを取りに屋敷に戻り、十五分後に崖に戻ってきた。その時誰かとすれ違ったか?」


「いいえ……。誰ともすれ違ってはおりません」


「誰かが外に出て行くのを見た、あるいは外から帰ってきたのを見なかったか?」


「それも見ておりません。夜の十時近くでしたから、私と父以外に外出される方はいなかったと思います」


「人の足音や、物音を聞いたことは?」


「屋敷に戻る時は気づきませんでした。先ほども申しました通り、昨晩は風が強かったもので、周囲の音は波の音に紛れて聞こえなかったのです。屋敷から出る時にも、変わった音は何も聞こえませんでした」


 ガマ警部が唸り声を上げた。霧香が誰の姿も見ていないとなると、容疑者を絞り込むのは難しい。被害者に近づくチャンスがあったという点では、彼女が最有力容疑者となるが――。


「あ、じゃあ、あれはどうですか? ほら、例の交通事故です!」


 木場が急に思いついて言った。霧香が不安そうな目で木場を見上げる。


「あれはただの事故です。今回の事件とは何の関係もありませんわ」


「わかりませんよ。一見無係に思えた事故が、実は事件に関係しているというのはミステリー小説じゃ王道の展開ですからね!」


「……これは小説じゃなくて現実に起こった事件だ。何度言ったらわかる?」


 熱意を込めて言う木場を、ガマ警部が凄みを効かせて睨みつける。木場は怯んだが、なおも食い下がろうと霧香に向き直った。


「とにかく! 五年前の交通事故について話を聞かせてください!」


 一心に自分を見つめる木場の視線にほだされたのだろう。霧香は視線を落としてためらっていたが、やがて諦めたように小さくため息をついた。


「……わかりました。刑事さんのおっしゃる通り、関係がないとも限りませんものね……」


 そう言って弱々しく頷くと、霧香は扉を開けて木場達を部屋に招き入れた。ただでさえも悲しみに暮れる彼女から、辛い記憶を呼び覚ますような真似をするのは木場としても不本意だったが、これも霧香のためなのだと言い聞かせた。

 全ては事件を解決し、霧香の無実を晴らすため。そのためには少しでも情報を集めねばならない。


 木場はそう意気込むと、霧香に続いてガマ警部と共に部屋に入った。

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